第3話:近くて遠い
数日後、4回目の委員会での集まり。
8月の初週、引き継ぐ内容も作業自体もそれほど多くないため、今日の集まりが最後の集まりとなる。
俺はというと、今日数日後、4回目の図書委員会。
8月の初週。作業も引き継ぎも、今日で終わりだという。
俺は、気合が入っていた。
今日、なにか一歩踏み出せないと——
せっかく“コトち”という共通の推しがいることが分かったのに、
このままじゃ、またただの「先輩」と「後輩」に戻ってしまう。
誰かとリアルで、オタクトークができる。
そんな貴重な機会、みすみす逃すわけにはいかない。
……まぁ、ほんの少しだけ、美人な先輩とお近づきになれるかも、っていう欲もなくはない。
でも一番は、コトちのことを語れる“同士”を失いたくないから。ええ、ほんとですとも。
いや、だって実際、俺なんかと釣り合うわけがない。
先輩は——あんなふうに笑う、可愛くて、綺麗な人だから。
あの笑顔のギャップに、俺はすでにやられていたのかもしれない。
図書室にて。
「今日で最後になるけど、まあ図書委員ってそんなにやることもないし、2年生は気張らずにね〜」
……って、先生、それ言っていいやつですか?
そんな緩い空気のなか、今日も俺は先輩とペアだった。
前回のことが少し頭をよぎって、なんだか気まずい。
先輩の方をちらりと見るけど、いつもの無表情。
やっぱり……こんな風に感じてるのは、俺だけなのかもしれない。
仕方ない、とにかく作業に集中しよう。
◇
同日朝。遥の通学路。
なんでだろう。
ただの通学路なのに、心臓がBOSEのウーハーみたいにドコドコ鳴ってる。
……いや、たぶん分かってる。
佐久間君に会うのが怖いだけだ。
前回、自分がキモかったせいで、引かれてないだろうか。
“またね”なんて言っちゃって、勝手にテンション上がって、話しすぎて。
今日はちゃんと私から話しかけなきゃ。
年上なんだし。でも、どうやって……?
頭の中でいくつもシミュレーションしてみるけど、どれも滑ってる気しかしない。
そんなこんなで気づけばもう学校に着いていた。
……まだ何も決まってない。まずい。
図書室の椅子に腰を掛ける。
数分後、優がやってきた——
「おはようございます」
「おはよ……」
ダメだ、またいつもの感じでしか話せなかった。
私は何をしてるんだ、せっかく勇気出そうって決めたのに。
そのまま先生のゆるい開始の一言と共に、今日の作業が始まった。
──そして、昼休み。
遥は机の下で拳を握っていた。
よし、今日こそ。声をかけるんだ。
前みたいに、もう一度だけ。
でも、体が動かない。
“コトちの話しよ!”って、いきなり呼び出す?
いや、それってちょっと変じゃない? 不自然すぎる。
まだそこまでの仲じゃないのに……っていうか、そういうのって、
ヤバい人みたいじゃない? 急に二人きりで話そうなんて。
言葉が浮かんでは消えて、また浮かんでは迷って。
お昼の時間は無情に過ぎていった。
……気づけば、昼休み終了10分前。
もう、無理だ。
今さら声をかけるには、時間も、タイミングも、気持ちも整っていない。
だったら、帰りに声をかけよう。
そこを逃したら、きっともう二度と——。
遥は、小さく息を吸って、決意を胸に押し込んだ。
◇
同じ頃、優もまた、同じ決意をしていた。
……まずい。朝も話せなかった。
いや、無理だろ。図書室、静かすぎるし。
下手に声なんてかけようもんなら、周囲の空気が凍る。
チャンスは、お昼。
前回みたいな、人気のない場所に呼び出して……
……いや、それって、ちょっと待て。まるで告白じゃないか。
男女二人、人気のない場所。
「話があるんですけど……」って、それ、どう考えてもフラグじゃん!
そこで「コトちの話しましょう!」とか言い出したら、
空気の読めないキモオタ確定だ。
ダメだ。やっぱり変な空気になる。
じゃあ、どうする……?
考えてるうちに時間は過ぎて、もう昼休みの終わりが迫っていた。
……帰りに話そう。もう、それしかない。
それで、ダメだったら……それまでだ。
午後の作業中、二人ともほとんど口を開かなかった。
作業はまったく手につかず、考えていたのは「帰り際にどう話しかけるか」だけ。
──そして。
「じゃあ今日はこの辺にして帰りましょっか」
先生のその言葉に、優の背筋がピンと伸びた。
さあ、ここからが勝負だ——
「……あ、男子はこのあと、廃棄の本をゴミ捨て場までお願いね。ちょっと手伝ってくれる?」
……え?
「女子はもうやることないから、先に帰っちゃっていいわよ〜。お疲れ様」
男子は残って。女子は先に。
その言葉を、頭では理解したくなかった。
でも、耳は確かに聞いていた。
終わった。
せっかく、ここまで心を決めていたのに。
もう、先輩と話すタイミングはない。
「……わかりました」
口から出たのは、それだけだった。
断る理由なんて、どこにもない。
だけど、もしかしたら、まだ先輩が待っていてくれるかもしれない——
そんなあり得ない願いを胸に、優は本を抱えて立ち上がった。
腕がパンパンに張り、額から汗が落ちる。
全力で、限界まで急いで本を運び終えた。
作業を終え、カバンを肩にかけて下駄箱へ急ぐ。
──時刻は14時19分。
あたりを見回す。先輩の姿は、ない。
もしかしたら、校門のあたりにいるかもしれない。
淡い希望を胸に、自転車を押して校門へ向かう。
……でも、やっぱり、いなかった。
門を出て、左右を見渡しても、そこに先輩の姿はなかった。
そりゃそうか。
先輩からしたら、あの日の会話なんて、ただの一度きりの雑談だ。
“ちょっとだけ話した後輩”なんか、わざわざ待つ理由がない。
「……帰ろう」
蚊の鳴くような声で、そう呟いた。
陽炎がゆらめく坂道を、ひとり、ゆっくりと下りていった。
◇
一方その頃、遥もまた。
「男子は廃棄本の片づけね〜、女子はもう帰っていいわよ、お疲れさま」
……えっ?。それって……もう話すチャンスが、ないってこと?
言葉の意味を認めたくなくて、ただ心の中で反芻していた。
でも、体はもう反射的に「お疲れさまでした」と口にしてしまっていた。
……どうしよう。残る? 手伝うって言えば?
でも先生は、きっと「宮下さんは3年だからいいのよ〜」って言う。
しかも、もう挨拶までしちゃった。今さら残るのは、不自然すぎる。
どうすればよかったんだろう。
考えているうちに、足はもう下駄箱に着いていた。
でも、ここでこのまま帰ったら、また「先輩」と「後輩」に戻っちゃう。
──10分だけ。待ってみよう。
10分なら言い訳もできるし、ちょうどいい。
人目を避けて、校門を出たところで立ち止まる。
時刻は、14時5分。
15分まで。……それで来なかったら、あきらめよう。
──そして、14時16分。
時間は、無情に過ぎていた。
校門から下駄箱を覗いてみても、優の姿はない。
……やっぱり、ダメだった。
今日という日は、きっと“動けなかった自分”への罰だったんだ。
遠ざかっていく影。
踏み出せなかった言葉。
たった数分のすれ違いで、すべてが静かに遠ざかっていく。
遥は、夕方の空を見上げて、
誰にも聞こえない声で、ひとことだけ呟いた。
「……ばか」
足取りは重く、登校時とはまるで別人のようだった。