【二宮柚乃】後編
母の様子が明らかに変わったのは、柚乃が中学校に進学してから半年ほど経った頃のことだった。
夜遅くに、母が自室に籠っていて、ベッドに入って来ないのは相変わらずである。
しかし、毎晩自室で母が行うことは、仕事ではなくなった。
母は、一人で酒盛りをしていた。
プシューっと缶を開ける音が隣室から聞こえてくると、柚乃は不安で眠れなくなる。
仕事はどうしたのだろうか。
プシューっ、プシューっという音が明け方近くまで断続的に聞こえる。
母に一体何が起きたのだろうか。
恐怖心ゆえ、柚乃は母に直接確認することができない。柚乃は、毎晩布団の中でモゾモゾと身体をくねらせるほかなかった。
朝、目覚まし時計のアラームが鳴っても、母は目を覚まさなくなった。仕方がないので、柚乃がトーストを焼いて、二人分の簡単な朝食を作る。
ついでに、母の〈仕事場〉に転がった十数個はある空き缶を潰し、まとめてゴミ袋に入れる。
そんな日々が二週間ほど続いた頃、柚乃は突然——母に殴られた。
それは、中学校の授業を終えた柚乃が帰宅し、塾の支度のために寝室へと入ろうとした時だった。酒盛りをしている母の部屋は、できれば通りたくなかったが、避けては通れない通り道だった。
母は厳しい人だったが、過去に柚乃に手をあげるようなことは一度もなかった。
急に座椅子から立ち上がり、柚乃に襲いかかってきた母に、胸の辺りを殴られた時、痛みを感じなかったのは、決して痛くなかったからではない。驚きとショックが痛みを大きく上回っていたからだ。
「来ないでぇ! あっちに行ってぇ! 私のところに来ないでぇ!」
母は、幼女のような金切り声を上げた。母の視線は柚乃へと向かってるが、母に見えているのは、柚乃ではない。
母はアルコールのせいで幻想を見ているのだ——。
母には柚乃を殴ったという認識すらないのだ。ショックの後に柚乃を襲った感情は、情けなさだ。親に初めて殴られたのが、酒のせいだなんて、なんて情けないのだろうか。
母は、母が見ている〈幻想〉に向けて追撃を与えようと、柚乃にまた襲いかかる。
しかし、柚乃が避けたわけではないのに、母の拳は宙を突き、柚乃の足元で、母は無様に転んだ。
完全に酩酊している。
母の身体から酒の臭いが漂ってくることには慣れてきていたつもりでいたが、今日の母は、いつにも増して、臭い。
こんな強い悪臭が人間の身体から発せられているということが信じがたいレベルである。
実はこの部屋には母の吐瀉物があって、それが部屋全体に悪臭をばら撒いているのではないかと訝しんでしまう。
転んだ際に頭を打ったのかもしれないが、母は、うす緑色のカーペットの上で、ヴーヴーと獣のような唸り声をあげながら、芋虫のようにゴロゴロと転がっている。
率直に言って——気持ち悪かった。
こんな状態の母と一緒にいても意味はないだろう。
柚乃は、塾の準備という当初の目的は諦めて、一刻でも早くこの家から出るために、母の部屋を後にしようとした。
「やめてぇ! 来ないでぇ! 早く出て行ってぇ!」
母は床にゴロゴロしながら、〈幻想〉に向かって叫ぶ。
言われなくたって、柚乃は出て行く。
——しかし、母の次の言葉が、柚乃の後ろ髪を引いた。
「私を逮捕しないでぇ! 私は何も悪いことはしてないんだからぁ!」
……逮捕?
柚乃は、てっきり母は悪魔だかお化けだかの〈幻想〉を見ているのだと思っていた。しかし、そうではないらしい。
母が見ている〈幻想〉——母が恐れているものは、警察だった。
「お母さん、どういうこと? どうして警察に追われてるの?」
「私は悪くないの。私は何も悪くない」
「分かった。それは分かったんだけど、何で悪いことをしてないのに警察に追われてるの?」
「私は利用されたの!」
「利用された? 誰に?」
「あのとても醜い、肥え太った金持ち達に!」
「金持ちって……仕事のクライアントのこと?」
カカカカカと速いテンポで固いものを砕くような、とても嫌な音がした。それが、母の歯と歯がぶつかる音だと気付いたのは、床に寝転んだ母の身体が小刻みに震えていたからである。それは恐怖ゆえなのか、それとも怒りゆえなのか、柚乃には分からなかった。
「私は金持ちどもの命令に従ってお金を動かしただけなの! それでアイツらは今まで何十億と稼いでる! それなのに、いざ金融庁が動き出して不正がバレそうになったら、アイツらは全ての責任を私になすりつけて! 私がインサイダー取引をしてたって通報して……」
母の歯の音は次第に大きくなる。
母の話を完全に飲み込めたわけではない。
しかし、母がクライアントに嵌められたのだ、というのことは最低限柚乃にも理解できた。
「結局、弱い立場の私が利用されたの! 私がいくら投資顧問として頑張って、法律スレスレのこともして、いくらアイツらを儲けさせても、所詮私は使われる立場に過ぎないの! 藁人形として使い捨てられる立場に過ぎないんだわ!」
「どうして? お母さんはあんなに頑張ってたのに」
「頑張ったって何にもならないわ! 〈頑張れば成功する〉なんて真っ赤な嘘! 生まれつき恵まれてる人間が、恵まれてない人間を支配し、掌の上で踊らせるための真っ赤な嘘! 恵まれてる人間は努力をしていない。他人の努力を利用しているだけ」
母が口を開くたび、柚乃が心の中で抱いていた〈幻想〉が脆く崩れ去っていく。
「いくら上級階級にすり寄っても、私たち自身は上級階級にはなれない。私たちが這い上がれるチャンスなんて、無い」
そんな——。
「生まれ持ったものが全てなの。恵まれない人間が、コツコツ頑張って、汗水垂らして働いても無駄。どんなに時間をかけて築いたものも、奴らに一瞬で崩される。奴らは——」
オオカミだから、と母は言う。
いつかの「三匹の子ぶた」の話である。
あの話は、一見すると、せっせと時間をかけてレンガの家を作った三男ぶたがオオカミに襲われずに済んだことから、〈努力をしたものは報われる〉という話のように見える。
しかし、あの話を現実に当てはめてみると、どのような材質の家を建てられるかというのは、その人の資力によるし、そもそも、家を建てるのは、お金を払って雇った人なのだ。
ゆえに、〈お金が全て〉という現実が、あの話からは見えてくる。
——それだけではない。
もっと根本的なところに考えを巡らすと、そもそも、災難の原因は〈ぶたとして生まれた〉ことにあるのだ。
ぶたとして生まれてしまったがゆえに、オオカミに怯えて暮らさねばならない。わざわざ家を建てて自らの身を守らなければならない。失敗した場合には命を落とさなければならない。
仮にぶたではなく、オオカミとして生まれていれば——。
…………
【設問】
『三匹の子ぶた』の文章から得られる教訓はなんですか?
【解答】
ぶたとして生まれた時点で負け
…………
——嫌だ。
そんな現実、絶対に認めたくない。
そんな腐った世界、柚乃が変えてやる——。
柚乃は、酒臭い母親の鼻っ面を、力いっぱい蹴飛ばした。
ここ二週間で丸々と太った母の身体は、後ろに転がるようにして倒れ、まるでボーリング玉のように、背後に積み上げてあった空き缶をカラカラと倒した。
「痛ああああい!! あ、あんた、何するのぉ!?」
両方の鼻から血を流した醜い女に、柚乃は唾をかけるように、吐き捨てる。
「負け組のぶたは黙ってろ」
柚乃は、もう一度、母の顔面を蹴飛ばすと、何も持たずに家を出た。
玄関ドアを閉めた途端、ギャーギャー喚く声も聞こえなくなる。
そう。母はただ喚いているだけなのだ。
弱い犬ほどよく吠える。
負けた人間は、いつも自分が上手くいかなかったことを誰か他人のせいや、ルールのせいにするのである。本当は自分が弱かっただけなのに。本当は自分の努力が足りなかっただけなのに。
社会が理不尽?
それはそうだろう。ただ、言い訳を並び立てている時間があるんだったら、さっさと前を向いて努力をすべきだ。不平不満を言ったところで社会は変わりっこないんだから。
人間は生まれつき不公平?
それもそうだろう。スタート地点がマイナスだったとしても、いや、スタート地点がマイナスであった者こそ、とにかくプラスの方向へと一歩一歩進むべきなのだ。周りを気にしている時間なんてない。
柚乃は、空を見上げる。
酒の臭いが充満した小部屋に比べたら、青空の下はなんて開放感があるのだろうか。
この青空の下、伸びるのも、潰れるのも、はばたくのも、埋もれるのも、全て自由なはずである。そうでなければならないはずである。
酩酊状態の母は、先ほどまで誰と話していて、誰に蹴飛ばされたのかさえ、理解していないことだろう。
柚乃がはたらいた狼藉が咎められることは、きっとない。
かといって、柚乃はすぐに家に帰る気にはなれなかった。あそこにいると、柚乃まで腐ってしまいそうだから。
とりあえず塾に向かおう、とユノは一歩を踏み出した。
地下シェルターの中で柚乃が魔力に目覚め、紫色の魔力が指先から迸るのを見た時、柚乃は、柚乃が選ばれたのは何らかの偶然ではなく、必然に違いないと考えた。
柚乃は、その力を得るに相応しい。柚乃ならば、その力を正しく行使して、世界を正しい方向に導くことができるのだから。
柚乃のこれまでの努力を、神様はちゃんと見ていてくれたのだ。
努力が正しく報われる世界を、柚乃が作る。
そのためには、世界を救うのは、柚乃でなければならないのだ。
絶賛体調を崩しています。だいたい何かを成し遂げた後(今回でいうと原稿を印刷所に提出した後)、体調を崩しますよね。
少しでも具合悪いと思ったら、葛根湯を死ぬほど飲むので、そこまで悪化しないのですが、そもそも葛根湯に弱い身体なので、とても具合が悪くなります。
それはさておき、柚乃のくだりも終わりました。
柚乃のくだりに関しては、ハッキリ言って自信がないです。留美夏のところで書いたところとも被ってしまっていますし、扱ったテーマも少し古かったかなと反省してます(ピケティとサンデルの議論を参考にしたんですが、『テクノ封建制』を参考にした方が良かったかなと)。
ただ、最後の最後に柚乃のキャラを前面に出せたのは良かったかなと思っていて、この部分はストーリー全体にも繋がるかなとは思っています。
ここまでは淡々と話が進んできましたが、ここからストーリーはかなり目まぐるしくなります。
ここからがこの作品の個性が出る部分であり、筆者の独自性も出せるところかなと思っていますので、ここまで読んでいた方には最後までお読みいただきたいです。




