【二宮柚乃】前編
芦部柚乃は、二〇一一年三月一一日、埼玉県にて生を受けた。
この国を未曾有の地震が襲ったまさにその日に生まれたことを、柚乃は決して快く思っていない。不吉だし、煩わしいし、鬱陶しく感じている。
とはいえ、生まれた日は後から変えられないので、文句を言うだけ時間の無駄だ。意味のないことに時間を費やせるほど、人生は長くはない。
なお、二〇一四年には、両親の離婚が成立したことで、柚乃は、芦部柚乃から、二宮柚乃に変わった。
…………
【問題文】
次の文章を読んでください。
ある日お母さんぶたが、三匹の兄弟ぶたに言いました。
「お前たちはもう大人だから、自分で家を建てて暮らしなさい」
一番大きい長男ぶたは、ワラを集めて、一日でワラの家を建てました。
ぶたが家の中でのんびりしていると、そこへオオカミがやってきました。
「おお、家の中にうまそうなぶたがいるな。よ?し、あいつを食ってやる!」
オオカミがふーーーーっ!と息を吹き出すと、ワラでできた家はかんたんに吹き飛ばされてしまいました。
ぶたはオオカミに、食べられてしまいました。
二番目に大きな次男ぶたは、森で木を集めて、三日で木の家を建てました。
しかしこの家も、オオカミにかんたんにこわされてしまいました。
ぶたはオオカミに、食べられてしまいました。
一番小さな三男ぶたは、レンガを焼いて一週間かけて、レンガの家を建てました。
そこへまた、オオカミがやってきました。
「よし、あの家もこわして、ぶたを食べてやる!」
オオカミはレンガの家に、力いっぱい体当たりしました。けれども、家はじょうぶなレンガ。びくともしません。
「あいたたた、こいつはとてもこわせない。他の方法を考えよう」
オオカミは帰っていきました。
その夜、オオカミはまたレンガの家にやってきました。オオカミは足音を立てないよう、レンガの家の屋根に登り、エントツから家の中をのぞきこみました。
「よしよし、ここから中に入ってやろう」
オオカミはエントツに飛び込みました。ところが!
「ギャーーーー! た、た、助けてくれ??!!」
なんと、エントツの真下にあるストーブには、大きななべが火にかけてあって、熱いお湯がたっぷりと入っていたのです。
「あちちちち!」
オオカミは大あわてで、レンガの家を飛び出し、森ににげていきました。
【設題】
文章から得られる教訓はなんですか?
…………
【設題】を最後まで読んだ柚乃がまず思ったのは、『教訓』とは一体どういう意味の言葉なのだろう、ということである。
柚乃は、問題集の上に一旦鉛筆を置き、隣に座っている母の顔色を窺う。
母は、ノートパソコンのディスプレイに集中していて、柚乃に見られていることに気付いていない。
「お母さ……」
声を掛けかけたが、途中でやめた。
母の仕事を邪魔するのは良くないし、第一、声を掛けたところで『自分で調べなさい』と突き返させるかもしれない。
それならまだマシで、『どうしてそんなにバカなの』と罵られる可能性もある。母にはほぼ毎日『バカ』と言われているが、言われ慣れるということはなく、毎回べそをかいてしまう。
頭の出来が悪いことは、自覚している。
自覚しているからこそ、指摘されるとただただ悔しくなる。
机の上には、母に買ってもらった電子辞書が置かれている。柚乃は電子辞書の電源を入れ、『き』『よ』『う』『く』『ん』と続けてタップした。
…………
【教訓[きょうくん]】
[名詞]教えさとすこと。またはその内容、言葉。
…………
調べてみてもよく意味が分からなかった。ユノのおかっぱ頭の中身は、どうしてこんなにも空っぽなのだろう。
採点は、母が行う。カンニング防止のため、問題集の冊子から切り離された答えは母が持っているからだ。
母が赤ペンをキュッキュと鳴らして丸付けをするのを見ながら、柚乃は怯えていた。
ついに、母の赤ペンの動きが止まる。母の紅い唇が小さく動く。
「……柚乃、ここはどうしたの?」
母が赤ペンでトントンと叩いたのは、『三匹の子ぶた』の問題の解答欄だった。
そこは真っ白な空欄である。
「……そ、それは……」
無能であることを自白するようで忍びなかったが、素直に白状するほかなかった。
「『教訓』の意味が分からなくて……」
やはり、バカ、と言われた。
「何を学んだか、ってことよ。柚乃はこの文章を読んで何を学んだの?」
早口な母の言葉には間違いなく苛立ちが籠っていたが、柚乃は、電子辞書よりもはるかに分かりやすい説明を一瞬で思いついてしまう母の聡明さに感心した。
「えーっと……」
柚乃の頭の回転は、母のようには速くはない。
『えーっと』とか『うーん』とか『そのぉ』とか言いながら、答えが頭に降りてくるまでの時間を稼ぐ。
「……えーっと、『ちゃんと頑張らなきゃオオカミに食べられちゃうよ』とか?」
「もうちょっと一般化して答えられない?」
「……いっぱんか?」
「『オオカミ』とか『食べられる』とか、そういう物語内の言葉は使わないで説明して」
「じゃあ……『ちゃんと頑張らなきゃ良くないことが起こるよ』」
「……まあ、悪くはないかな」
母から一応の〈ゴーサイン〉が出たので、柚乃は鉛筆を握り締め、『ちゃんと頑張らなきゃ良くないことが起こるよ』と答案用紙に書き入れる。
小学二年生ではまだ習わない漢字ばかりだったが、毎晩、母と一緒に勉強しているので、漢字はクラスメイトの誰よりも書けた。
柚乃が字を書いている間、母は、解答が書かれた冊子とにらめっこしていた。眉を顰め、なかなか険しい表情をしている。
どうやら見ているのは、『三匹の子ぶた』の模範解答らしい。
「……これは違う」
母が呟く。
その声は、声帯をほとんど振るわせないものだったが、芯を食った響きがあり、柚乃の心に長く留まった。
その日の夜、柚乃は眠れなかった。
母の呟いた『これは違う』という言葉の意味が気になって仕方がなかった。
ベッドの中で『三匹の子ぶた』のストーリーを反復して考えているうちに、頭が妙に興奮してしまっていた。
柚乃と母は同じ寝室を使っている。
とはいえ、母の睡眠時間は柚乃の半分以下であり、柚乃が眠りにつく時も、柚乃が目覚める時も、母はいつも寝室にはいない。
その間、自室で仕事をしているのである。母の仕事は証券アナリストの資格を生かした投資顧問であり、お客さんのほとんどは外国人だ。海外と日本とでは時差がある。ゆえに、母の仕事は、日本の夜中に忙しさのピークを迎える。
母の『これは違う』の意味を知るためには、解答の冊子を見て、『三匹の子ぶた』の模範解答を見る必要があった。
その冊子は、今は、柚乃の部屋の机の引き出しの中にある。
今だったら、母にバレずに模範解答を確認できる。
母が仕事をしているのは、隣室である。
戸は閉まっているが、隙間から光が漏れ、かつ、カタカタとキーボードを叩く音が聞こえている。
柚乃は、そっと音を立てないようにベッドから起き上がると、そのまま抜き足差し足で机に近づき、そおっと引き出しを開ける。
そして、解答の冊子を取り出すと、常夜灯のわずかな灯りを頼りにして、目当てのページを探し当てる。
——あった。
柚乃は、『三匹の子ぶた』の模範解答に目を凝らす。
そこに書かれていたのは——。
『成功するためには、時間をかけてコツコツ努力をしなければいけない』
……はて。何が『違う』のだろうか。
「柚乃ちゃん、どう? そのお菓子、美味しいでしょ?」
「はい。とても」
〈未来の同級生〉の母親からの問い掛けに、柚乃はすかさずそう答えた。
本当は味なんてちっとも分かっていなかった。
柚乃が口に含んだのは、直径三センチくらいの、宝石のような見た目のチョコレートだった。それはダイヤモンドのように多面的にカットされていて、綺麗なエメラルド色をしていた。さらに周りには金銀のスパンコールまで振りかけられていた。
柚乃がそのお菓子の味を感じることができなかったのは、『このチョコレートは一体いくらなのだろう?』ということで頭が一杯だったからである。
一口サイズで、口の中で一瞬で溶けてしまう。
それだけのものにこれほどの装飾を施すというのは過剰ではないか。こんなチョコレート、売る方も売る方だし、買う方も買う方だ。
要するに、柚乃には、〈金持ちの道楽〉というものの味がよく分からなかったのである。
「お嬢さん、お召し物がとてもお似合いですね」
柚乃の隣の席に座っていた母が、我が家では見せないような柔和な微笑みを見せる。
「二宮さんにお褒めいただいて嬉しいわ。このブレザーとスカート、最近気に入ってるブランドのもので、少しだけお高いんです。ただ、どうしても欲しくて」
「おいくらくらいしたんですか?」
「上下合わせて……五十万円くらいかしら」
五十万円!?
柚乃は耳を疑った。
同時に、目も疑った。
五十万円を身に纏っている〈未来の同級生〉は、まるでここが室内ではなく公園であるかのように、宙に浮かぶ円形のおもちゃを追いかけて部屋中を駆け回っているのである。
髪はソバージュにでもしているかのようにボサボサ。
数分前までは、床にゴロゴロ寝転んでいたので、五十万円の服もシワクチャだ。
柚乃の目には、〈未来の同級生〉が五十万円の服に値するような品格を備えているようには、到底見えなかった。いくら洗練された服を着ていても、彼女は〈野生児〉にしか見えない。
「二宮さんのところのお嬢さんも」
柚乃は背筋を伸ばす。自分のことについて、何か言及がされようとしているのだ。
「とても素敵なお召し物ですわね」
そう〈お世辞〉を言った〈未来の同級生〉の母のけばけばしい目は、柚乃に向かっている。
まるで中学受験の際の面接官のような、柚乃の反応を見ることで柚乃を品定めしようかという目だった。
柚乃は沈黙する。
今日着ている純白のワンピースは、おろし立てのものだ。
柚乃が名門私立中学の受験に受かったことを祝って、母が奮発して買ってくれたのである。柚乃自身とても気に入っていて、買ってもらった時には思わず嬉し泣きをしたほどだ。
とはいえ、その値段は、五十万円の二十分の一にも見たない。
しかも、『長く着られるように』という貧乏臭い理由で、柚乃の現在の身体のサイズよりも、一回りも二回りも大きく、袖捲りをしなければ着られないのだ。
そのことに、柚乃は強い引け目を感じている。
ゆえに、柚乃は、この場において適切な言葉を絞り出すことができなかった。
「おたくのお嬢さんのお洋服ほどではありませんよ」
柚乃が何も喋れなくなっていることに気が付いた母が、フォローをしてくれた。
母の反応は間違いなく正解だ。
母は社交辞令がとても上手い。
「柚乃、中西さんの子どもともっと仲良くしなさいよ」
「……ごめんなさい」
帰りの地下鉄の車内で、柚乃は母に叱られる。吊り革に掴まりながら、柚乃を見下ろしている母の表情は、中西さんが住むタワマンの一室にいた時とはまるで違っている。いつもの厳しい母である。
「どうして? どうして柚乃はずっと私の隣に座ってたの? どうして子ども同士で遊ばなかったの?」
「だって……」
「だって?」
「……あの子のことがあまり好きになれなかったから」
本当は、あの子に対しては『好きになれなかった』以上の感情を抱いている。
あの子が柚乃と同じ中学に通うという事実が許せなかったのだ。
柚乃の目には、あの子に、名門中学に入学するだけの資質があるようにはどうしても見えなかった。柚乃が毎日泣きながら勉強してようやくたどり着いた境地に、あの子も同様に至っているようには思えなかった。
柚乃が『バカ』だとすれば、あの子は『大バカ』なのではないか。なぜそんな『大バカ』と柚乃が遊ばなければならないのか。
はあ、と母は露骨にため息を吐いた。
母の気持ちも分かる。
母は、今日の場を設けるために、一生懸命努力をしたのだ。柚乃の中学合格直後から、SNSなどを駆使して、柚乃と同じ中学校の合格者を探し出し、片っ端からコンタクトを取った。
そして、中西さんという有力者——父親が大企業の取締役らしい——を探し出し、入学前の顔合わせを実現したのだ。
「柚乃、分かってる? 私立中学に合格することはゴールじゃなくてスタートなのよ。せっかく合格したのに同級生とコネが作れなかったら、ほとんど意味がないの」
「……こね?」
「コネクション。〈繋がり〉のことよ」
〈繋がり〉——その言葉の意味はもちろん分かる。しかし、母が言っていることはイマイチ腑に落ちなかった。
「どうして同級生とコネを作らなきゃいけないの? 勉強を頑張ってるだけじゃダメなの?」
「ダメよ」
母はキッパリと言う。
「柚乃はまだ分からないかもしれないけど、私たち〈貧民〉が〈エリート〉になるための方法は、努力じゃないの」
「……違うの?」
「違う」
「じゃあ何?」
「金持ちにすり寄って、上流階級に入れてもらうこと」
母の目には少しの揺らぎもなかった。そのことが、柚乃にはすごくショックだった。
「柚乃、どうして柚乃が有名私立中学に入れたか分かる?」
「……それはたくさん勉強したから」
違う、と母は言う。
「私が柚乃にたくさんお金を使ったから。お金がなければ問題集だって買えないし、塾だって行けない。もちろん、家政婦だって雇えない」
柚乃は小学生一年生からほぼ毎日塾に通っていた。塾から帰ってから寝るまでの間は母が勉強を見てくれていたが、
それが可能だったのは、家事は全て家政婦に行わせていたからだ。家政婦は、『家事代行センター』とかいう会社から、日替わりで派遣されていた。
柚乃が遊びを放棄して努力をしたことも事実だが、仮に母にお金がなければ柚乃が中学受験すらできなかったことも、また事実なのである。
「柚乃、私がどうやってお金を稼いでるか知ってる?」
「証券アナリストの資格をとって、投資顧問としてたくさん仕事をして……」
「もちろんそのとおりよ。だけど、それだけじゃない。資格をとったって、一生懸命仕事をしたって、お金がもらえない人はたくさんいる」
「そうなの!?」
私は目を丸くする。
「当たり前じゃない。少し考えれば分かるでしょ。貧乏人相手にビジネスをしたってお金は稼げない。金持ち相手にビジネスをすれば簡単にお金は入ってくる」
驚くと同時に、柚乃は母に裏切られた気分になる。
今まで母は、たくさん勉強して、たくさん努力するように柚乃に言っていたではないか。そう言われて柚乃は毎日頑張っていたのだ。今まで柚乃は騙されていたというのか。
「お金をもらうためには、お金を持っている人の近くにいなければならない。私が証券アナリストの資格をとったのは、その資格を持っていると金持ちが寄ってくるから。上流階級との接点を作れるから。そして、金持ちの言うことを素直に聞いて、言うとおりに動けば、それだけでお金が手に入る」
「じゃあ、私は何のために一生懸命勉強したの?」
「有名私立中学には金持ちの子どもたちが集まるからよ。金持ちの子どもも、また金持ちになる。その環境に身を置いておけば、柚乃にも上流階級になるチャンスが巡ってくる。大切なのは、金持ちにすり寄って、金持ちに認められること。愚直に努力だけしていても意味がないの」
この時、柚乃は気付いてしまった。
『三匹の子ぶた』の模範解答がなぜ『違う』のかを。
『成功のためには、コツコツと時間をかけて努力をしなければいけない』
というのはキレイゴトであり、実際には、成功は努力によって齎されるわけではない。
——大切なのはお金だ。
長男ぶたと次男ぶたがオオカミに食べられ、三男ぶただけが助かったのは、三男ぶたがレンガで家を作ったからである。
つまり、レンガという資材のおかげなのだ。
必要な資材がなければ、丈夫な家は建てられない。
三男ぶたはレンガを『焼いた』ということだが、現実世界では、資材は買うものだし、そもそも、家だって誰かに建ててもらうものだ。
お金持ちだけが丈夫な家に住めるのである。
お金持ちだけが充実した人生を送れるのである。
そして、お金持ちになるということは、どうやら純粋な努力によって実現するものではないらしい。
5歳の息子が日常系(美少女系)アニメしか見ない、ということが少し前に我が家の大問題でした。
その問題が特に噴出したのは、息子が『ご注文はうさぎですか?』を見出したタイミングで、一刻も早い解決が認識されました。
もっとも、その後、息子は『シンカリオン』や『ポケットモンスター』などのちゃんとした?アニメを自ら見始めて、親を安心させました。
ところが、最近はまた『ざつ旅』や『mono』などをずっと見ています。
一体誰が最新日常系アニメを息子に勧めたのでしょうか(僕しかいない)




