【弥代祐希 その七】
漆黒の〈異常〉が突然現れたことにより、渋谷駅ハチ公前広場が阿鼻叫喚の渦に呑み込まれた。
〈異常〉は、四本足が生えたUFOのような形状で、その足を蛸のようにくねらせながら、空に浮かんでいる。
暗い空に黒いものが浮かんでいたら、保護色になって普通見えないようにも思えるが、なぜだか〈異常〉はハッキリと見えるのだった。
群衆は、一斉に渋谷駅構内に逃げ込もうとし、押し合いへし合いとなっている。
祐希たちも早く——。
「マム、逃げよう!」
祐希は、自らの身体に絡んでいたマムの腕を振り解き、代わりにその腕を強く掴み、駅の方向へと引っ張ろうとした。
しかし、マムは石のように固まっていて、ビクとも動かなかった。
マムは、焦点の定まらない目で、ただし瞬きひとつせず、ファッションビルの上の、〈異常〉を見つめている。
その〈異常〉は少しずつ大きくなっているように見える——つまり、徐々にこちらの方へと向かって来ているのだ。
ヤバい。本当に急がないと——。
「マム、どうしてそこで突っ立ってるの!? 早く逃げなきゃ!」
祐希がマムの腕を無理矢理引っ張ったところ、振り払われた。
「マム! 何考えてるの! どうして逃げないの!?」
マムが重々しく口を開く。
「……逃げられないから」
「え!?」
「私は〈あれ〉から逃げられない……だって、〈あれ〉の目当ては私だから」
「……どういうこと? マムはあの黒い物体の正体を知ってるの?」
知ってる、とマムは頷く。
「〈あれ〉は私を消すためのもの」
「だとしたら、なおさらここで突っ立ってる場合じゃないでしょ! マム、早く行こう!」
最初は豆粒ほどの大きさにしか見えなかった〈黒い物体〉も、今ではだいぶ大きくなっている。
「……祐希君だけ逃げて」
「馬鹿なこと言わないでよ!」
「馬鹿なこと? 私は大真面目だよ。祐希君が逃げて、私はここに残る。そうすれば祐希君は生き延びられる。〈あれ〉の目的は私だから」
「マムは? マムはどうなるの?」
消える、とマムは言う。
「ふざけないでよ!」
「ふざける? 私は全然ふざけてない」
「いや、ふざけてるよ。マムを置いて逃げるなんて、そんなこと僕にできるわけがないんだから!」
「……どうして?」
ようやくマムが動いてくれた——といっても、動かしたのは首だけで、顔の向きが祐希の方を向いただけではある。
「だって、マムのことが大切だから」
「でも祐希君の命の方がもっと大切でしょ?」
祐希は、マムの目を見たまま、大きく首を横に振る。
「そんなことないよ。マムの命の方が大切」
「それってオカシイよね? 自分の命よりも大切なものなんて普通……」
「たくさんあるよ」
「……え?」
「自分の命より大切なものがたくさんある。人生って普通そういうものだよ」
だから、と祐希は続ける。
「もしマムがここから動かないんだったら、僕もここから動かない」
「祐希君……」
マムの目に、ようやく元の色が戻った。
「祐希君、ありがとう」
「マム、一緒に逃げよう。さあ」
祐希はマムに右手を差し出す。
マムの右手が祐希の右手を掴む。
——しかし、マムはすぐにその手を離した。
「祐希君、やっぱり逃げても意味はないよ。〈あれ〉はどこまでも私を追いかけてくるから」
「でも、マムの命を守るためには、とにかく逃げるしか……」
「ううん。祐希君、違うの」
マムは視線を〈異常〉に戻してから、言う。
「戦えば良いんだよ。私は魔法少女なんだから」
冒頭に書いたとおり、作品自体はすでに完成していますので、この予約投稿も、実は4月3日に投稿しています。
ところで、菱川はサッカーのACミランのファンです。
この話が予約投稿されている4月23日の翌朝には、コッパ・イタリア準決勝インテル戦の2ndレグが開催されます。
本日4月3日の1stレグでは1ー1の引き分けでした。
本日4月23日は、翌朝の試合がどうなるのか、菱川はドキドキしているかと思います。
どっちも〈本日〉でややこしいですね……。




