【この世に絶望したある少女】
少女は、この世界に別れを告げる。
少女が立っているのは、反り立った崖の上である。ここはいわゆる〈自殺の名所〉であり、毎年、数え切れないほどの人が、真下の岩礁へと飛び降りている。
数え切れない——本当にそうだろうか。
数えようと思えば数えられるけれど、あえて数えていないというのが真実なのではないか。
少女は、顔面に受ける冷たい風に目を細めながら、崖下を見下ろす。
黒々とした岩に、真っ白な飛沫がぶつかっては消えゆく。
三十億年以上前、生命は、海から生まれたのだという。
最初は一つの細胞からなる微少な単細胞生物が偶然誕生し、そこからさらに偶然が重なって多細胞生物が生まれ、脊椎動物となり、哺乳類となり、人間となった。
想像し難いな、と少女は思う。
原始の海にいたというバクテリアと人間とは似ても似つかない。プレパラートの中でゴニョゴニョと蠢く小さな粒が、一体どのようにして人間にまで進化するというのか。
それに——。
一体どうして人間などに成り果ててしまったのか。
この地球上において、人間は〈特別な存在〉だ。
なぜならば、人間は、この地球上で唯一の傲慢な生き物だから。
人間の営みは、実に醜い。
互いに争い、互いに傷つけ合い、そして、大事なものから順に失っていく。
そんな愚かしいまでの傲慢さに、少女はもうついていけなくなった。
若くして自殺するだなんてもったいない、と他人は言うかもしれない。
そんな短い人生経験で生に絶望するだなんて、あまりにも早計だ、と。
たしかに少女は、まだ十三年ほどしか生きていない。
しかし、十三年間、辛いことばかりだった。
パパは死んだ。
死んだ——いや、殺された。
パパは自ら命を絶った。
とはいえ、それは決してパパの〈自業自得〉などではない。パパは生きるという選択肢を他者に奪われた。
ゆえに、死ぬしかなかった。殺されたのだ。
ママも、間もなく、死ぬ——殺される。
パパを殺し、ママも殺そうとしているのは、ともに利己的な人間である。そして、人間とは、すべからく利己的な生き物だ。
少女も死ぬしかない——そう決意した。
この崖が自殺志願者に好まれる理由は、ネットで見た情報によると、海流の関係で、死体が浜に打ち上げられないからだという。ただ、この説明は、少女にはいまいちしっくりこない。
自分の死後、自分の死体が打ち上げられて誰かに発見されるかどうかなどどうでも良いではないか。
死してもなお、醜い姿を他人に見られたくないなどという些事を気にするとでもいうのか。
それとも、自分の生死を不明な状態にして、残された家族に一抹の希望でも持たせようとでもいうのか。
死に際ぐらい、もう少し潔い態度はとれないものか。
〈生命が生まれてきた海に還りたい〉という理由であればかろうじてまだ分かる、と少女は思った。
少女は、ほとんど無意識のうちに、右の口元を指で触る。
そこには大きなほくろがある。
少女にとって、この口元のほくろはコンプレックスにほかならなかった。
ただ、死ねばもうそんなことを気にしなくても良いのだ。
死が、少女を救ってくれるのだ。
死だけが、少女のことを——。
「ニャア」
少女の腕の中で、ココが鳴く。
黒猫のココは、拾い猫である。
生まれたばかりの仔猫の状態で、ココは親猫と離れ離れになってしまった。このままでは生きていけなかったココを、パパが拾ってきたのである。
ココは、少女と姉妹同然に育てられたのだ。
少女の家族は、もう——。
「私の家族はココだけだよ」
少女は、ココをギュッと抱き締める。ココは嬉しそうに、ニャアと鳴く。
その声を聞き、少女は、反射的に、腕の力を緩めた。ココが、いかにも猫らしいしなやかな動作で、スタッと崖の上に着地する。
「……ココ、本当に良いの? 私と一緒に死んじゃって」
崖の高さは三十メートル以上ある。猫が落下して着地できるのは、せいぜい建物の二、三回までの高さまでなのだ。ココが少女と一緒に崖から飛び降りれば、ココも確実に命を落とす。
ココの判断は——。
ココは、もう一度私の胸に飛び込んできた。少女は、両腕でしっかりとココを抱き締める。
「そうだよね。ココのパパとママは、私のパパとママだもんね」
ココの想いも、少女の想いと一緒なのだ。
「ココ、一緒にバイバイしようね」
ニャア——。
最期に、少女は、空を見上げる。
——どこまでも透き通った水色の空。
——透き通ってる?
——本当に?
この空が透明に見えてしまうのは、少女が愚かな人間の一員だからかもしれない。
ゆえに少女には、もう一縷の迷いもなかった。
「バイバイ。くだらない世界」
ニャア——。
少女は、ココを抱き締めたまま、全身の力を抜き、重力に身を任せた。
一話目、想像以上に多くの方に見ていただいて嬉しいです。
さて、読者のみなさまは早速ストレスを感じているのではないでしょうか。
冒頭の二話は、主語が不明な話です。
こういう話は作者が思っている以上に読者に伝わらない、というのが常です。それを分かっていながらも、こういう導入を使ってしまうのがミステリ書きの悪い性ですね。
こんなこと言うのも難ですが、本作に関しては、冒頭二話は一旦忘れていただいて大丈夫です笑
その後の展開で、冒頭二話の意味は不可避的に分かるはずです。




