【大瀬菜々架】後編
外は大雪だった。
昨日の夕方から降り始めた雪は、降り始めから二十四時間以上経っても止む気配はなく、むしろ勢いを増している。
東京で積雪量が三十センチを超えたのは、観測史上初だそうだ。
テレビやネットは、頻りに『異常気象だ』と騒ぎ立てている。
最近は夏は夏で暑過ぎて『異常気象』だと言われていて、冬は冬で『異常気象』の大雪なのだとすれば、地球が暖かくなっているのか寒くなっているのか分からない。
もしかすると、その分からない感じが『異常気象』たる所以なのかもしれない。
昨夜時点での大雪予報を受け、今日、菜々架の小学校は休校となっていた。
菜々架の小学校だけではなく、首都圏の学校はみんなそのような対応をとっているらしい。
ちなみに、先週から始まった商店街のアーケード解体工事も、今日ばかりはさすがに止まっているとのこと。
「菜々架、一緒に来るか?」
菜々架を見下ろすようにして声を掛けてきたのは、父だった。
菜々架は、ガスストーブの前に置いたビーズクッションに腰ばかりか背中まで沈めるという、だいぶだらしのない格好をしていた。
別に何か疾しいサイトなどを見ていたわけではなかったのだが、なんとなくスマホを裏返し、首を曲げて父を見上げる。
「……こんな天気の中、どこかに行くの?」
「乃亜が車で迎えに来て欲しいんだと」
「ああ」
大瀬乃亜は、歳の離れた姉である。今年の春で高校二年生になる。
こんな大雪の中なのに、乃亜は、シフトが入ってるから、と言って、数時間前にバイトに出掛けたのだった。自転車に乗れるような道の状態ではないから、おそらく、バスを使ったのだと思う。
日が暮れてから雪はさらに強くなり、ほとんど吹雪のような状態だ。
バスが正常に動かなくなってしまって父親に泣きついたのだろう、と想像する。
「一緒に行く」
菜々架は、両手を天井に向け、ぐいっと伸びをした後、手を下ろした勢いで立ち上がる。
朝からずっとゴロゴロしながらスマホばかり眺めていたので、気分転換に外に出るのも悪くないなと思ったのだ。
菜々架の父は、寡黙な人である。
家の内でも外でも、ほとんど口を利かない。
お酒を飲むと少しだけ饒舌になるが、その状態であっても人並み以下だ。
ワゴン車の助手席に座った菜々架に、父から話しかけてくることはなかった。
普段は、父と二人きりになると、父から反応が返ってくるかどうかはさておき、菜々架の方からひたすら父に話しかけることが多いのだが、今日は菜々架も黙っていた。
最近、父の機嫌が露骨に悪いからだ。
原因は明白である。
『幸町グリーンロード商店街』が壊されるから。
父は、商店街でしゃぶしゃぶ屋さんを経営していた。
さらに商店街振興組合の重役でもあり、商店街の解体に先陣を切って反対していた。
それに加えて、想像以上の悪路である。車体はまるで山にでも登っているかのように横にも縦にも激しく揺れているし、視界には白い靄が掛かっていて信号の色もぼやけている。
父に運転にも集中してもらうために、話しかけないことが得策だ。
菜々架は、せっせと働くワイパーを目で追ったり、立派に髭を蓄えた父親の横顔を眺めたりしながら時間を過ごした。
ラジオも、天気のことばかり話していて、全然楽しくない。
「気が進まねえんだよな」
ふいに父がぼやいた。
「何が?」
菜々架は反応する。
車は、渋滞に巻き込まれたようで、しばらく動いていない。
「乃亜のところに行くことだよ」
「どうして? 大雪だから?」
違えよ、と父は答える。
「どういうこと? 乃亜に会いたくないの?」
「そんなわけねえだろ。第一、毎日会ってるし」
「じゃあ、どうして? どうして乃亜を迎えに行きたくないの?」
「俺は嫌いなんだよ。乃亜のバイト先が」
「別に普通のコンビニだよね?」
乃亜がバイトしているのは、日本に二万軒以上もの店舗を構える大手チェーン『エイト・マート』。
我が家の近くにも店舗があって、父もたまに利用している。
「普通? 完全に狂ってると俺は思うがね」
「どうして?」
「だって、同じ店舗が目の前にあるだろ?」
父の指摘するとおり、乃亜がバイトしている『エイト・マート』は交差点の一角にあり、その対角線上には別の『エイト・マート』がある。
二軒の間の距離は、直線にして二十メートルもない。信号を二つだけ渡れば行き来できる。
「それでも繁盛してるんでしょ。都心だから」
おそらく二軒の『エイト・マート』は客を奪い合う関係にはあるのだと思う。
ただ、それでもなお余りある客があの辺りには住んでいるのだろう。
交差点の北東側に住んでる人が乃亜の働いている『エイト・マート』を使い、交差点の南東側に住んでる人が別の『エイト・マート』を使う。
需要と供給は、それで上手く回っているのだ。
「俺には解せないね」
父が大きくアクセルを踏む。
渋滞が解消されたのだ。
しかし、父は明らかに苛立ったままである。
「乃亜の店舗が存在してる意味がねえだろ」
「そうかな?」
「そうだろ。だって、無くなっても誰も困らねえんだから」
——たしかにそうかもしれない。
交差点の北東側の店舗が無くなっても、客は、交差点を渡って、交差点の南西側の店舗に行けば良いだけなのだ。
コンビニなのだから、品揃えはほぼ変わらない。
「乃亜は何のためにあんなところで働いてるんだ?」
「たしか……時給が高いから」
乃亜が前にそう言っていた。
父は呆れたように言う。
「乃亜は空しくないのかね」
〈空しい〉——最近、どこか別の場面でもその言葉を聞いた気がする。
「こんなひでえ雪の中でよくもまあ真面目に出勤するよな……」
父はボソリとそう言った後、またいつもの寡黙な父に戻った。
菜々架が小学六年生に進学する春、『幸町グリーンロード商店街』は完全に解体された。
商店街の跡地に建てられた二棟のタワーマンションは、今はほとんど空室だが、投資目的の外国人から関心を持たれていて、すぐに全部屋埋まるだろうとのことである。
タワーマンションの一階部分は店舗用に貸し出すそうで、こちらは都心で流行っている歯医者の支店などが入る予定とのことだ。
アーケードが壊された商店街の大通りは、三車線の道路に拡張された。
菜々架にはよく分からないが、こうすることで、法律上、沿道に高い建物を作ることが許されるとのことである。
今は空き地ばかりだが、もしかすると、第三、第四のタワマンが建つこともあるかもしれない。
〈商店街〉の様相は大きく変わった。
しかし、変わったのはそれだけではなかった。
「おお、菜々架ちゃん」
菜々架が、自宅そばの『エイト・マート』の前を自転車で通り掛かった時、懐かしい声に呼び掛けられる。
八百屋のおじさんの声である。
八百屋のおじさんと、金物屋のおじさんと、豆腐屋のおじさんの三人組だ。
三人は、『エイト・マート』の店舗前に置かれたプラスチックのガーデンチェアに腰掛けていた。それぞれ缶ビールやらカップの日本酒などを手に握っている。
三人とも、前に会った時よりも下っ腹が突き出ているように見える。
「お久しぶりです!」
菜々架は、『エイト・マート』の前に自転車を停め、一つだけ余っていたガーデンチェアに座る。
腰を落ち着けた後、ふと思う。
普通の女子小学生はこんなことはしないよな、と。
コンビニの店舗前で昼間から酒盛りをしてるおじさんたちは、率直に言って、近寄り難い存在だ。
女子小学生が目を顰めるよう存在。
『近寄ってはならない』と学校の先生は注意するかもしれない。
それでも——。
「八百屋のおじさん、金物屋のおじさん、豆腐屋のおじさん、元気にしてましたか?」
菜々架にとって、三人は〈ただの酔っ払い〉ではないのだ。
商店街で菜々架がお世話になったおじさんたちなのである。菜々架にとって、三人は〈特別〉なのだ。
それなのに——。
「菜々架ちゃん、もう俺らはそんなじゃないよ」
金物屋のおじさんがニヤニヤ笑いながら言う。
「そんなじゃないって……」
「今の俺らは八百屋でも、金物屋でも、豆腐屋でもない。何もすることがなくて昼間から飲んでるただの輩さ」
それだと——〈ただの酔っ払い〉ではないか。
「立ち退きの時に補償金はたくさんもらったがな。もう俺らは全員六十歳を超えてるから、今さら新しい仕事なんて始められないさ。だから、年金がもらえる歳まで安酒を飲み続けるしかないのさ」
豆腐屋のおじさん——だった人の切ない発言に、三人が一斉にガハハと笑う。
菜々架は少しも笑えなかった。
それどころか、菜々架は恐怖を覚えた。
商店街が無くなることで、八百屋は潰れ、金物屋も潰れ、豆腐屋も潰れた。
そして、八百屋のおじさんは八百屋のおじさんでなくなり、金物屋のおじさんは金物屋のおじさんでなくなり、豆腐屋のおじさんも豆腐屋のおじさんでなくなった。
そして、有り余るお金を使ってお酒を飲むだけの〈ただの酔っ払い〉になった。
今まで何者かであった人が、何者でもなくなってしまうことの恐怖。
もしかすると、これが〈空しさ〉ということなのかもしれない。
「菜々架ちゃんのお父さんは俺らよりも一回りか二回りも若いからなあ。補償金を使って新たなビジネスでも始めるんだろ?」
「えーっと……」
菜々架は口籠る。
たしかにまだ四十代の父は、リタイアするにはまだ早い年齢だ。
しかし、現状は『やる気が湧かない』と言って、家でゴロゴロしているだけ。
しゃぶしゃぶ屋をやっていた頃には一切手をつけなかったスマホゲームをずっとやっている。
「菜々架ちゃんはどうするんだ? どこかでまたアイドル活動をするのかい?」
「私ですか!? 私がアイドルだなんて……滅相もないです」
「アイドルを続けないのか?」
もったいない、と三人は口を揃えて言う。
私は醒めた目で三人を見る。
三人は知らないのだ。
SNSを見れば、菜々架より可愛い女の子なんて、山ほどいるのである。
全国での顔面偏差値で言えば、菜々架はちょうど五十くらい。
欠点はないが、長所もない。
菜々架の顔は、掃いて捨てるほど存在している顔なのである。
平凡な顔の菜々架に務まるのは、せいぜい狭い範囲、限られた人々の間でチヤホヤされる『商店街アイドル』くらいだ。
しかも、その『商店街アイドル』になれたのも、菜々架が商店街振興組合の重役の娘だったからにほかならない。
決して菜々架に才能があったとか、菜々架が人一倍可愛かったからとか、そういうわけではないのである。
商店街が無くなったことで、菜々架も何者でもなくなった。
そのことに気付いた菜々架は、席を離れるほかなかった。
おじさんたちはもう商店街の店主ではない。
菜々架はもう『商店街アイドル』ではない。
商店街が無くなったことで、みんなから〈特別〉が剥奪され、一緒にいる理由がなくなった。
これからの菜々架の人生は、平凡な顔に相応しい、平凡な人生なのだろう。
そして、それは、補償金を食い潰して毎日安酒に浸るおじさんたちと本質的には同じ人生。
与えられたものを消費して、与えられた幸福を守り、与えられた範囲から出られない人生。
個性をなくした街の中では、菜々架は、『アイドル』になれないばかりか、何にもなれないのである。
何者にもなれない菜々架がせいぜい送れるのは、『エイト・マート』で売っている商品で人生全てが賄えてしまうような、そんな量産型の人生。
そんな人生があと八十年くらい続くというのか。
それは明日死んでしまうことと何か違うことなのか。
それはあまりにも〈空しい〉ものではないだろうか——。
避難先のシェルターの中で菜々架は、ある日突然魔力に目覚めた。
地下生活があまりにも退屈だったので、退屈しのぎに弓道のポーズとってみたところ、そこに緑色の弓矢が浮かび上がったのだ。
菜々架は、魔法少女となることで、自分がもう一度〈特別〉になれるのではないかと期待した。
菜々架にとって何よりもかけがえがなかったのは、リオンとの出会いである。
リオンの存在が菜々架を〈特別〉にしてくれる。
菜々架はそう信じていた。
菜々架ちゃんのくだりは、我ながら渋過ぎたかなと思います。
留美夏ちゃんのくだりがあまりにも刺激的だったので、それとバランスをとる意味でも菜々架ちゃんのくだりは低刺激にしました。
ただ、低刺激ではあるものの、ある意味では一番怖いのがこの菜々架ちゃんのくだりなのではないかと筆者は思っています。
筆者の思想面が一番如実に出ているのがこのパートだともいえるかもしれません。