【大瀬菜々架】前編
大瀬菜々架は、二〇一一年三月一一日に生を受けた。
東日本大震災の発生日——それは日本国民にとって決して忘れられない〈特別な日〉である。
決して記念すべきような日ではないものの、この日が、人類史にさえも名を刻むような〈特別な日〉であることには間違いない。
菜々架はそんな〈特別な日〉に生まれた。
しかし——。
菜々架は問う。
菜々架の人生に、果たして〈特別〉な意味などあるのだろうか。
「菜々架ちゃん、今日も可愛いねえ」
「ありがとうございます」
菜々架は、八百屋のおじさんにペコリと頭を下げる。
大きな目や筋の通った鼻など、際だったパーツがない〈しょうゆ顔〉の菜々架の顔が『可愛い』わけがない。
ルックスにおいて菜々架に優れたところがあるとすれば、大きくない口や大きくない耳であって、要するに〈普通〉のルックスだという程度の話で、あえて褒め立てるほどのことはない。
八百屋のおじさんはお世辞を言っているのか、もしくは、母が時間をかけてセットしてくれたツインテールの髪型か、もしくは、着ているアイドル衣装のことを言っているのだろう。
いずれにせよ、菜々架にとってはありがたいことなのだが。
頭を下げた際に衣装の襟の部分が崩れてしまったので、菜々架は慌ててそれを直す。
首の周りにカイロを貼ってあることもあり、襟元がはだけてしまうと、あまりにもみっともない。
「今日のライブもすごく良かったよ。盛り上がってた」
「ありがとうございます」
今度は襟を押さえながら、頭を下げる。
ライブパフォーマンスに関しては、たしかに上手くいった自信がある。
菜々架ちゃんは礼儀正しくて良いねえ、と褒めてくれたのは金物屋のおじさんである。
やっぱりこの商店街のアイドルは菜々架ちゃんしかいないね、と豆腐屋のおじさん。
八百屋のおじさんと、金物屋のおじさんと、豆腐屋のおじさんの三人は、裏返したビール瓶のケースにそれぞれ腰掛け、段ボール箱を机にして、酒盛りをしていた。
酒盛りの場所は、野芝広場の隅の方。
先ほど菜々架がパフォーマンスを行っていたステージは、ここからも見えるといえば見えるが、だいぶ遠い。
三人とも顔がすごく赤い。
かなり酒が入っているのだろう。
段ボール箱の机の上には、屋台で買ったとおぼしきイカ焼きや、皮の剥けた焼き栗なども置いてある。
菜々架のライブを見ていたかどうかは甚だ怪しい。
それはそれで別に構わないんだけれども。
「今日もありがとうございました!」
菜々架は、もう一度深々と頭を下げると、その場を辞去しようとする。
しかし、豆腐屋のおじさんが、菜々架の後ろ髪を引く。
「菜々架ちゃん、ちょっと暖まっていきなよ」
三人が酒盛りをしているすぐそばには焚き火がある。
ライブ直後は火照っていた身体も、ミニスカートの衣装ではすぐに冷めてしまう。
ありがたいオファーである。
お言葉に甘えることにする。
中腰でしゃがむと、木炭を食みながらメラメラと燃える炎に手を翳す。
暖かい。
ずっとここで暖まっていたいという気持ちになる。
「年末に菜々架ちゃんのライブが見えるのもこれが最後かあ」
金物屋のおじさんの声である。菜々架は背を向けていたので、金物屋のおじさんが菜々架に声を掛けたのか、それとも単に独り言をぼやいたのか、判断がつかなかった。
菜々架が黙っていると、今度は、八百屋のおじさんが同じようなことを言う。
「おじさん、菜々架ちゃんのライブを見るのが毎年の年末の楽しみだったのに、残念だなあ」
「……それは大袈裟です」
「いやいや、菜々架ちゃん、謙遜しないでくれよ。孫の成長を見ているみたいで、毎年楽しみだったんだ」
なるほど。そういう楽しみ方か。それならば納得できなくはない。
菜々架が『商店街アイドル』として初めてステージに立ったのは、九歳の頃。そして今、菜々架は十二歳である。
年末のお祭りのステージには、もう四度も立ったということになる。
そして、四回目の今回が、菜々架のラストステージだった。
なぜならば、商店街そのものがなくなるからである。
都内有数のアーケード商店街である『幸町グリーンロード商店街』は、再開発によって壊されることが決まっている。
年始にも工事車両が入り、象徴である全長五百メートルのアーケードから取り壊していくのだという。
過去には、十三年前、六年前と、地域住民の反対運動によって、二度も再開発計画を頓挫させた名物商店街であった。
もっとも、商店の店主の高齢化と、近隣に大手スーパーやドラッグストアなどが相次いで出店したことから、商店街は競争力をなくし、活気をなくしていた。
過去に商店街の反対運動に参加していた人も、今では『致し方なし』と賛成側に回っている。
商店街がなくなれば、当然、『商店街アイドル』も不要となる。
「実感が湧かないよなあ。来年の今頃にはこの野芝広場ももう無くなってるんだもんな」
「……そうですね」
この野芝広場は、新しく建つタワーマンションの敷地の一部に使われるのだと聞いている。
『広場』とは名ばかりの、草が生え放題の空き地ではあるが、生まれてからずっとこの街に住んでいる菜々架にとっては、思い出の詰まった『広場』である。
「なんでこんな立派な商店街を壊しちまうんだろうなあ……」
金物屋のおじさんの発言は、きっと独り言である。
そんなことを菜々架に聞かれても困り果てるほかないのだから。
「なんだかお祭りなのに湿っぽくなっちゃったな。……菜々架ちゃんも一杯どうだ?」
八百屋のおじさんが、菜々架にビール瓶を突き出す。
「えっ!? いや……結構です……」
「ちょっとだけだってば」
「いや、バリバリの未成年なので、ちょっとだけでもダメで……」
「甘酒だったら大丈夫か?」
「あっ……でも、結構です……」
菜々架は、今度こそこの場を辞去することにする。
さようなら、冬の焚き火の暖かさ。
石油ストーブのある出演者ブースに戻る前に、菜々架には挨拶をしておきたい人がいた。
その人は、菜々架のライブを、一番前の席で見ていてくれた。
今も同じ長椅子に腰掛けてはいる。
とはいえ、ステージ上のブラスバンド演奏には興味はなさそうだ。
教会のシスターのような黒い布を羽織った彼女は、ぼんやりと寒空を見上げている。
「ねえ、お姉さん」
菜々架が声を掛けると、お姉さん——田村さんが、黒髪を靡かせながら振り返る。
本当に綺麗な顔をしているな、と感心する。
四十代とは思えないくらいに透き通った肌をしている。
彫りの深い西洋風の顔をした、とびっきりの美人だ。
もっとも、田村さん本人曰く、異性には全くモテないのだそう。
思うに、あまりにも美し過ぎて、並みの男は寄り付くことができないのだろう。
菜々架は思う——田村さんの美しさは、異性には向けられていない。
そうでなく、もっと〈神的なもの〉に向けられた美しさなのだ。
たとえば——〈芸術の神〉とか。
「菜々架ちゃん、今日のライブ、とても美しかったわ」
美しい田村さんから、『美しい』と褒められた。
これ以上の賛辞はない。
「田村さんがデザインしてくれた衣装のおかげです」
菜々架が今着ている『商店街アイドル』の衣装は、田村さんがデザインしたものである。
いかにも『アイドル』という感じで、ピンクを基調とし、大きなフリフリがたくさん付いている。
ただ、それだけではない。
アイドルらしくない、枯れた桔梗の模様が、胸と背中に一つずつ、大胆にあしらわれている。
『商店街アイドル』の衣装にするにはもったいないほどオシャレなのだ。
デザイン画を見た当初から、菜々架はずっと気に入っている。
この衣装ならば、面倒なオシャレ着洗いもちっとも苦にならない。
「菜々架ちゃんがこの衣装の似合う女に成長したってことだよ」
「そうですか……ね?」
田村さんに褒められると掛け値なしに嬉しい。
それと同時に猛烈な悲しさに襲われる。
この衣装を着るのも今日が最後なのだ。
「……田村さん、私、噂で聞いたんですけど……」
「何を?」
「田村さん、もう画廊は続けないんですか?」
田村さんは、商店街の一角に画廊を構えている。
『キャロンドリエ・リュネール』——フランス語で『月の満ち欠け』を意味するらしい——という名前の画廊は、菜々架が物心付く前から商店街にあり、異彩を放っていた。
田村さんの描く油絵は、抽象度が高くて独特なものであり、札に書かれたタイトルを見ない限り、モチーフさえも掴めないものが多い。
芸術性が高いものというのは、えてしてそういうものなのだが、田村さんの絵も、常に賛否両論を浴びせられていた。
菜々架は、田村さんの絵が好きだった。
『商店街アイドル』の衣装デザインを田村さんに依頼したのも、菜々架の発案である。
他方で、商店街のオーナー、商店街の利用者の少なからぬ人が、田村さんの絵を『理解できない』とけなし、『キャロンドリエ・リュネール』を『魔女の巣窟』などと言って不気味がっていった。
「私、田村さんの描く絵がすごく好きなんです。だから、田村さんには、新しい場所でまた画廊を続けて欲しいんです」
商店街が無くなり、画廊は立ち退きを迫られることにはなるが、その分、補償金が出る。その補償金を使えば、また新たな地で画廊を再開できるはずだ。
しかし、田村さんは、絵はもう良いかな、などと悲しいことを言う。
「それって、画廊を辞めるだけでなく、絵を描くことも辞めるって意味ですか?」
そのとおり、と言って田村さんは頷く。
「もう潮時かなって」
「潮時? どうして……?」
「今はもうそういう時代じゃないんだよ」
田村さんが笑顔を見せる。
美しい——だが、寂しい。
「……時代ってどういうことですか?」
「画家はもう要らない時代」
なんだか大袈裟なことを言うな、と菜々架は思わずにいられなかった。
とはいえ、滅茶苦茶なことを言っているとは思わなかった。
画家という職業が不要なのではないか、という意見は、現代社会ではたしかに存在しているのである。
そのような意見は、ある最先端技術の登場を反映したものだ。
「田村さんが言ってるのって、もしかして、〈AIアート〉のことですか?」
それもあるね、と田村さんは言う。
「ただ、それだけじゃない。〈AIアート〉もそうなんだけど、芸術から〈コミュニケーション〉が失われているの」
はあ、と菜々架は曖昧な相槌を打つ。
〈AIアート〉が人間を超えたクオリティの絵を描いてしまっている問題だとか、〈AIアート〉が〈盗作〉によって画家の権利を奪っている問題などは知っている。
しかし、芸術からの〈コミュニケーション〉の喪失という壮大な議論は、少なくとも、SNS上では見かけたことがない気がする。
「私には〈伝えたいこと〉があるから、それを表現するために絵を描いている。だけど、まるで宇宙空間の中で独り言を呟いているような、そんな感覚に襲われる。今はそんな空しい時代」
もう一度、はあ、と息を吐く。
『空しい時代』——分かるような、菜々架ごときには分かってはならないような、そんな話である。
「〈コミュニケーション〉が空虚なんだよ。AIが〈描いた〉絵が重宝されるのもその典型」
「絵には〈コミュニケーション〉が必要なんですか?」
菜々架の周回遅れの質問にも、田村さんは丁寧に答えてくれる。
「菜々架ちゃん、絵っていうのはね、心の内部にある、言語化できないものを表現するものなの。非言語的な〈コミュニケーション〉なの。心に浮かんでいる言葉が何もないのに喋ることはできないように、空っぽの心からは何も絵は生まれない。モデルそっくりの写実的な絵だって、描かれているのはモデルそのものではなくて、画家の心の中なんだよ。写実画家だって、別に自分がカメラのような機械になりたいわけじゃない」
『心の中にある、言語化できないもの』。
少なくとも、菜々架の心の中には、きっとそんな高尚なものはない。
菜々架が言葉に詰まることがあるのは、言語化できない大層なものを心に抱えているためではなく、単に、日本語が拙いだけだ。
「でも、AIには心がないでしょ。だから、AIが〈描いた〉絵は、そもそも〈絵〉ですらない。菜々架ちゃん、そう思わない?」
率直に言うと、あまり共感できなかった。
菜々架は、〈AIアート〉は〈AIアート〉で、それはそれで立派な絵だと思うのだ。
SNSに上がっている絵の中には、〈AIアート〉なのか、人間の絵師が描いたものなのか見分けのつかないものもあるし、〈AIアート〉を見て感動の涙を流す人だって、世の中にはいるように思うのだ。
もっとも、そのような菜々架の感覚は、実際に正しくないのかもしれない。
菜々架が、〈AIアート〉も絵だ、と言っていることは、平面に描かれたもののうち字以外のものは絵だ、としょうもないことを言っているに等しいのかもしれない。
もっと田村さんの考えが知りたい。
そこで、菜々架は、あえて素直に答えることにした。
「田村さん、私はそうは思わないです。〈AIアート〉も立派な絵ではないでしょうか」
おそるおそる言ったので、最後の方は語尾がくぐもった。
それでも、菜々架は、最後まで言い切った。
田村さんに議論を吹っかけることに成功したのである。
これで田村さんの意見が聞ける、と思った。
しかし——。
「菜々架ちゃんがそう言うなら、いよいよ私も長いものに巻かれる準備をしないとね」
そういった後、田村さんは口を噤んでしまったのだ。
もしかすると、菜々架みたいなヒヨッコとは議論するに値しない、と見切られているのかもしれない。
きまりが悪くなった菜々架は、顔の前で両手の拳を握って、『とにかく、私は田村さんの絵のファンです!』と言う。
田村さんは、『ありがとう』と微笑んだが、ヒラリとステージの方へと向き直ってしまった。
ずっと疑問なのですが、『々』って漢字じゃないんですか?
というのも、なろうでは、漢字のあとに()を入れるとふりがなとして認識されるんです。
たとえば、
鱸
と打つと、ちゃんと鱸の字の上に『まぐろ』と表示されるわけです。本当はまぐろじゃなくてすずきなんですが。
しかし、『々』の場合は、ふりがなが表示されないのです。
菜々架
と打つと、菜々にはふりがなが振られず、架の上に『ななか』と振られてしまいます。これはつまり『々』が漢字と認識されていない結果だと思うのです。
このような場合でも、『|』という記号を用いることにより、ふりがなを振ることは可能なのですが、なぜこのような不便なことになっているのでしょうか。
とても疑問です。