【弥代祐希 その五】
祐希とマムの二人が、コーヒーショップの次に訪れたのは、ハンバーガーショップだった。
『ジェリーズ・テキサススタイル・バンズ』という名前の、オープンしてまだ二ヶ月だというその店は、高層ビルの十三階にあった。
入り口の看板にはカウボーイハットを被って馬に跨った金髪の青年が描かれている。
もっとも、店内はさほどテキサス風というわけではなく、むしろ都会的で、良く言えば洗練されたもの、悪く言えば殺風景なものだった。
もしかすると、この物件は、元々はカクテルを嗜むバーか何かで、居抜きで借りたまま、内装工事がまだ未了なのかもしれない。
店内で流れているBGMも、テキサスの荒野とは程遠い雰囲気のジャズピアノだった。
「うわぁ、写真で見るよりも大きい」
マムは、注文後わずか数分で運ばれてきたプレートを拍手で迎えた。
たしかにかなりのボリュームである。
ハンバーガーの段数の数え方はよく分からないが、お肉とパンを別段とすれば、四段……いや、五段くらいはあるだろうか。
引き続いて、おそらくアルバイトの大学生であろう男性店員が運んできた祐希の分のハンバーガーは、マムのハンバーガーよりも二段ほど低いものである。
「祐希君、もしかしてダイエット中?」
そんなわけはない。
むしろマムの方のハンバーガーが巨大過ぎるのであって、祐希の方は適量なのである。
ただ、女の子に『よく食べるね』などと言うのは禁句だと、SNSで言われていた気がする。
そこで、祐希は、お昼を食べた時間が遅くて、などと言ってお茶を濁す。実際には、マムと会う緊張のあまり、今日は朝から何も喉を通っていないのであるが。
マムがピーコートの下に着ていたのは、白いセーターだった。
少し肩がはだける首元の形状は、普段のマムの配信では見ないようなものであり、とても煽情的だ。
男性店員からは、封筒を横長にしたような茶色い紙袋を手渡された。
この紙袋の中にハンバーガーを入れ、潰しながら食べるのが流儀なのだという。
とはいえ、本当にその食べ方が正しいのか分からず、祐希は躊躇する。
マムはどのように食べるのだろうかとチラチラと確認してみる。
すると、マムは、スマホで写真を撮るのに必死で、一向に食べ始める気配がない。
仕方なく、祐希も、わけもなくスマホを弄り始める。
ひとしきりの写真撮影を終えたマムが、ようやくスマホを机の上に置く。
そして、手を合わせ、いただきます、と言う。
祐希も、慌てて同じように手を合わせ、同じ言葉を言う。
マムは、ハンバーガーを、バンズとお肉と野菜とにそれぞれ分解し、ナイフとフォークとを使って切り分け始めた。
その様子を見た祐希は、なんて女の子らしい食べ方なのだろう、と感心した。
そして、自分は男らしく食べるべきだろうと感じ、紙袋の中にハンバーガーを包み入れた。
ジャズピアノが奏でる繊細なメロディの一音一音が、そのまま祐希の耳へと入ってくる。
マムは、食事中、一言も喋らない。
普段からそうなのか、それとも、祐希と一緒だからそうなのかは、祐希にはよく分からない。
もしも前者なのだとすると、マムは、食に対して相当な敬意を払っているということなのだと思う。
これに関して思い当たる節がないこともない。
今日のデート——本当にデートなのかどうかは分からないが、とりあえずデートと呼ぶことにする——は、間違いなく〈食〉を中心に回っている。
マムが待ち合わせ場所をチェーンのコーヒーショップに指定したのは、新作のエレガントストロベリーショートケーキ味のフラペチーノを飲むためである。
マム自身もそう言っていたし、実際に、マムは無言でお目当てのフラペチーノを飲み干すと、一呼吸も置かずに店を出たのである。
そして、次の目的地である『ジェリーズ・クラシック・バンズ』も、ぶらりと立ち寄ったわけではなく、マムによって予め決められていた場所だった。
店の売りである巨大なハンバーガーの画像をSNSで見て、『食べてみたい』とずっと思っていたのだそうだ。
マムのデートの目的は〈食〉にあって、それに祐希が付き合わされているという構図が、客観的に間違いなく存在している。
もしも後者——祐希と話したくないからマムは黙って食事をしている——だとすると、今日のデートは、マムにとって嫌々なのだ、ということになる。実はマムは祐希などとは食事をともにしたくはないのだが、行きがかり上、仕方なく祐希と一緒にいるのだと。
——いや、そんなことはあり得ない。
先に『会いたい』とメッセージを送ってきたのは、マムの方なのだ。
自発性に疑いはない。
あのメッセージは、祐希にとって寝耳に水だった。祐希が無理やり言わせたとか、言わせるように仕向けたとか、そんなことは断じてない。
——本当にそうだろうか。
祐希が気付いていないだけで、マムには、不本意ながらも祐希と会わなければならない事情というものがあるのかもしれないではないか。
たとえば——。
——お金。
巷でよく聞く〈パパ活〉というやつだ。
ほら。現に祐希はフラペチーノをご馳走しているではないか。
ハンバーガーの代金だって、後会計なのでまだ支払ってはいないが、祐希は払うつもりでいる。
もし帰り際に、今月厳しいんだよね、とか言われて、小さく舌でも出されてしまえば、祐希は、自らの帰りの電車賃を除いた財布の中身全てをマムに捧げてしまうだろう。
『明日すぐに会いたい』とメッセージを祐希に送ったのは、マムが金銭的にかなり逼迫していて、食う飯にすら困っていたからで——。
——いや、何を馬鹿なことを考えているのだろうか。
祐希はまだ中学生であり、マムとは同い年である。もし仮にマムが〈パパ活〉をするのだとすれば、もっと歳の離れた、もっと沢山お金を持ったおじさんを相手にするはずだ。
——いやいや、何を考えているんだ。
マムが〈パパ活〉なんてするはずないじゃないか。
マムは、魔法の力によって、今や各メディアに引っ張りだこの売れっ子タレントである。そんじょそこらの中学生とは比べものにならないくらいにお金を持ってるはずなのだ。
それに第一、マムは〈パパ活〉などに手を染めるような子じゃ——。
「ねえ、祐希君、本当はダイエット中なんでしょ?」
「ひぇ!?」
突然マムに話しかけられて驚いた祐希は、素っ頓狂な声を上げてしまった。
しかし、不思議なことなど何もない。
マムはすでに食事を終えていたのである。
マムは大食いであることに加えて早食いだった……というわけでもない。
祐希が、あまりにも長い時間、物思いに耽ってしまっていただけなのである。
「祐希君、ハンバーガー全然食べてないよ? フラペチーノだってほとんど残して捨ててたし」
「いやぁ、そのぉ……」
良い具合の言い訳がすぐに思いつかなかったので、とりあえず、祐希はハンバーガーに豪快にかぶりついた。
「ここのハンバーガー、肉汁がジューシーですごく美味しいでしょ?」
たしかに美味しい。
しかし、感想を伝えようと声を出そうとしたところ、口の中があまりにも忙しくて、ゴホゴホと咽せてしまう。
その様子を見て、マムがお腹を抱えて笑う。
「祐希君、面白い。無理しないで」
初デートにして、とんだ失態だ。
仮にこれが〈デート〉なのだとすれば。
マムは、食事中、一言も喋らない。
一方で、食べ終わった途端、堰を切ったように喋り続けている。
「一昨日の夜にアップした動画があったじゃん? あの動画に変なコメント送ってきた人がいてさあ。ああいうのを『説教厨』っていうのかなあ。『このBGMの曲の歌詞の意味はこうこうこういう意味だからさあ』的な独自の解釈を延々と続けて、『マムの表情は歌詞に合ってない』とか言われてさ。いや、それただの個人の見解でしょ、みたいな。それから、この前、祐希君もコメントくれた動画があったじゃん。あの白雪のやつ。あれがさあ——」
マムの取り留めのない話を、祐希は、先ほどから繰り返し頷きながら聞いている。
『ハンバーガーを食べ終わるまでは、相槌とか要らないから。食べるのに集中してて』というマムの指示に素直に従っている格好である。
元気に話すマムの姿を見ていたら、食欲が戻ってきた。祐希は、少し冷めてしまっていたハンバーガーを、ほんの数分で完食した。
夜景が見えるビルの高層階。
バーのような小洒落た雰囲気。妖艶なジャズの音色。
そして——白いセーターの美少女。
この空間に不釣り合いだったのは、豪快なハンバーガーだけだったのだということに、祐希はようやく気が付いた。
店員がプレートを片付けた途端、薄れかけていた緊張がにわかに蘇ってくる。
「ねえ、祐希君、一つ訊いても良い?」
「良いけど……何?」
「祐希君は、私がいなくなったら悲しい?」
「当たり前じゃん」
反射的に答えたあとに、祐希は疑問に思う。
なぜマムはこんなことを訊いてきたのか、と。
まさかもう動画を撮ったり配信をしたりという活動に疲れてしまい、活動引退を考えているということだろうか、と嫌な予感が胸を過る。
「どうして?」
「……え?」
「どうして祐希君は私がいなくなったら悲しいの?」
「どうしてって……」
答えにくい質問である。先ほど回答したとおり、マムがいなくなったら悲しいのは『当たり前』なのだ。『当たり前』なので、理由などない。
しかし、そんな〈言い逃れ〉も許されないほどの切実さが、マムの瞳には宿っているように見えた。
祐希は、流れ星のように、実際にマムが消えゆく存在のようにさえ感じた。
マムを安心させなければならない。
そうしなければ本当にマムは消えてしまうかもしれない、と祐希は思った。
「……マムはもう僕の生活の一部なんだよ」
「生活の一部?」
「そう。朝はマムの動画をチェックすることから始まるし、夜も大抵マムの配信を見てるし。僕の生活はマムなしでは考えられない」
マムは祐希に真剣な眼差しを向けたまま、さらに尋ねる。
「私がいなくなったら、祐希君の生活が変わっちゃうということ?」
「うん。そうだね。ガラリと変わる」
「それはいけないこと?」
「いけないこととまでは言えないかもしれないけど……」
気の利いた言葉が思いつかなかったので、祐希は、頭に浮かんでいた稚拙な言葉をそのまま吐き出す。
「楽しくなくなっちゃうんだよ。マムがいなくなったら」
「……楽しい? 私がいた方が祐希君は楽しいの?」
「もちろん。今だってすごく楽しいよ」
「本当に?」
「本当だよ」
ようやくマムの気が緩み、頬が緩んだ。それを見た祐希も心の底から安堵する。
「祐希君、ありがとう。私も今日、すごく楽しいよ」
僕が最も敬意を払っている食べ物の一つがハンバーガーです。
もう何年も前になりますが、仕事でワシントンに行き、一週間くらい偉い人と会食を繰り返す日を過ごしたことがあるのですが、とにかくハンバーガーばかり食べてました。なぜなら、ハンバーガーがダントツで一番美味しかったからです。高級レストランで高い料理を頼む機会があったのですが、ハンバーガーより美味しいものは一つもありませんでした。
新婚旅行でハワイにも行きましたが、やはりハンバーガーが美味しかったことをよく覚えています。
あと、新婚旅行といえば、思想の強過ぎるコーヒー農園に行き、そこのオーナーから「I am god」と書かれた書籍に加えて、ジャックフルーツというネバネバしたフルーツをもらい、帰った先のホステルでそれを調理しようとして共同のキッチンを粘液で汚しまくり、ホストから「kill you」と言われたこともよく覚えています。
何事も経験ですね。