【弥代祐希 その四】
祐希の心の動揺などいさ知らず、迷わずマムは、祐希の目の前の席に腰掛ける。
マムに顔をじろじろと見られることに耐えられなかった祐希が、マムに尋ねたことは、なぜ待ち合わせ場所をこの店に指定したのか、ということだった。
そのことがそこまで気になっていたわけではなかったが、何か話さなければと思い、尋ねた。
「もちろん、新作のエレガントストロベリーショートケーキ味のフラペチーノが飲みたかったからだよ」
マムはサラサラの黒髪を、額からうなじの方へと掻き分ける。
冗談のようなことを平然と言う子だな、という印象は、配信やテレビを見ていて、ずっと抱いていた。
いかにもマムらしい回答に、祐希の胸が躍る。
「祐希、もしかしてもう飲んでるの?」
マムの視線は、祐希の机の上のプラスチックカップへと向かっている。
単に、店員に勧められたから、という理由で注文した薄ピンク色の内容物は、たしか、マムが先ほど口にしたような名前の代物だったと思う。
今では完全に溶け切ってしまい、色も混ざり切って、エレガントさの欠片もないが。
「どう? 美味しかった?」
「……えーっと、まあまあ……かな」
正直に言うと、味なんて少しも覚えていない。
それどころか、フラペチーノを一口でも啜った記憶さえも、祐希にはないのである。
少しの間を置いて、祐希は、自らの失言に気が付いた。
「いや……その……結構美味しかったよ」
マムは、これからこのフラペチーノを注文しようとしているのだ。
味が『まあまあ』だった、などと先に言ってしまえば、マムの楽しみが削がれてしまう。
苦し紛れの〈前言撤回〉は、どうやら功を奏したようで、マムの水晶玉のような目がキラリと輝いたように見えた。
「だよね。絶対に美味しいと思うんだよね。秋に売ってたファビュラスブラウンモンブラン味もすごく美味しかったし」
横文字が難しかったから、ということもあるかもしれないが、主に違った理由で、祐希には、マムの言葉が頭に入っていなかった。
だいぶ遅ればせながら、このタイミングで、祐希は、重大なことに気が付いてしまったのである——マムが一切変装をしていないことに。
マムは間違いなく〈有名人〉である。
当然、マスクやらサングラスやらを付けて祐希の目の前に現れるものだと思っていた。
しかし、実際には、マムはそのいずれも付けておらず、他方で化粧はバッチリしているので、テレビやSNSで見たままの『魔法少女マム』そのままなのである。
服装も、赤いとんがり帽を被っているということはさすがになくとも、どちらかといえば派手な明るいカーキ色のピーコートに、冬の寒気をものともせずに生脚を大胆に露出させたミニスカートである。
目立たないようにしようという工夫は微塵も見られない。
少なくとも今のところ、マムの周りに人だかりができずに済んでいるのは、ここが渋谷の中心地だからだろう。
幸いなことに、マムと同じようなコーディネートをした女の子が、見渡す限り何人もいる。
もしかすると、そのうちの何人かは、知る人ぞ知る〈有名人〉なのかもしれないな、と祐希は思う。
そんなことより——。
マムが変装をしていないことが祐希にとって何よりも一大事だったのは、ほかでもない、マムの口元のほくろが露出していたからである。
なんて芸術的なのだろうか。
祐希の心は、完全に、その黒い点に囚われていた。近くで見ると、少し色が抜けていて、茶色くも見える。
その愛らしい点が、マムの唇の動きに合わせて、上下左右に揺れる。それはまるで瞬く星のようであった。
それは祐希の心を惑わす〈魔法〉そのものだった。
——突然、〈魔法〉の効力が解ける。
祐希の心が現実へと引き戻される。
「ちょっと待って!」
〈魔法〉が解けたのは、祐希の視界からほくろが消えたから——すなわち、マムが席を立ったからである。
祐希の呼び掛けに反応し、マムがしなやかに首を返す。
「……どうしたの?」
「買いに行くんだよね? その……エレガント……フラペチーノ」
「うん」
「マムはここで待っててよ。僕が買いに行くから」
デートでは女の子に一円もお金を支払わせてはならない、とインフルエンサーがSNSでよく言っている。
デートでお金を支払うのは男の役目だ……うん? デート?
これはデートなのか?
「祐希君、奢ってくれるの?」
「……もちろん」
デートかどうかはともかく、ここは祐希が出そう。
そのつもりで、母からお年玉を前借りし、普段は持たないような大金を財布に入れてあるのだ。
マムは、首に引き続き、動画で見せていたような華麗なターンによって踵も返した。
そして、祐希の対面の席にちょこんと居直る。
「でも、悪いよ。今日は私が突然誘ったわけだし」
「暇だったから大丈夫」
実際には歯医者の予約をキャンセルしたのだが。
「それなら良かったけど……普通困るよね。突然、『明日すぐに会いたい』なんて言われたら」
「いや、全然」
心の準備ができなかったという意味では、たしかに困った。とはいえ、これが『一週間後会いたい』だったら、一週間何も手につかなくてより困っただろうとも思う。
それに——。
『明日すぐに会いたい』というのは、なんて素敵なフレーズなのだろうか。
まるで、マムが祐希に会いたくて会いたくて仕方がないかのようではないか。
まるで、祐希がマムにとって必要不可欠な存在であるかのようではないか。
……いや、それはさすがに単なる思い上がりだろう。実際は、マムにとって祐希が取るに足らない存在であるからこそ、『すぐに会いたい』などと言って、都合良く祐希を振り回してるだけなのだろう。
もしかすると、失恋したばかりだとか、彼氏にデートをドタキャンされたとか、そういうことの〈穴埋め〉のために祐希は使われているだけなのかもしれないのだ。
まあ、もちろん、マムに会えるのであれば、そういう事情だろうが一向に構わないのだけれども——。
「ともかく今日は僕が奢るよ。日頃の感謝を込めて」
「むしろ毎日感謝してるのは私の方だよ」
「良いから良いから」
分かった、とマムが言う。
そして、少し首を傾げながら、蠱惑的な笑顔を、祐希に向ける。
「祐希君、ありがとう。クリームは多めが良いな」
菱川はスタバにほぼ行きません。コーヒーが飲めないからです。
この前付き合いでスタバに行ったときには、バニラクリームフラペチーノを飲みました。
美味しかったです。