【青垣留美夏】前編
青垣留美夏は、二〇一一年三月一一日に生を受けた。
生まれは東京都八王子市である。
いつ生まれたのか。そして、どこで生まれたのか。
自己紹介ではこの二つを話さなければならないことが多い。
そして、生年月日を言わされる場合には、留美夏は、自らの記憶の片隅にさえない東日本大震災の話に触れなければならない。そのことを留美夏は苦痛に感じる。
留美夏は、思う。
いつ、どこで生まれたのかなんてことは、その人の人生をちっとも規定しない。
それよりも重要なことは、誰の子として生まれたのか、である。
親が金持ちかどうか、親に才能があるかどうか、親が〈毒親〉かどうか——そのことは、その人の人生を大きく作用する。
蛙の子は蛙だし、鳶の子は鳶だ。
しかし——。
出自だって、決して、人生で一番重要なわけではない。
人生で最も重要なのは——。
「努力だよ。努力」
留美夏の姉である青垣亜美夏は、留美夏の質問に対して、いとも簡単に答えた。
当時、亜美夏は高校二年生で、留美夏は小学五年生だった。留美夏から見ると、亜美夏は六歳も年が離れた姉ということになる。
二段ベッドの上階にいる亜美夏に対して、下段の留美夏が泣きそうな声で投げかけた質問は、こういうものだった。
『どうしたら私もお姉ちゃんみたいになれるの?』
泣きそうな声——いや、あの時、留美夏は実際に泣いていた。
当時、留美夏は、クラスでいじめに遭っていたのだ。
留美夏がクラスでつけられたあだ名は、『ブロビー』。
これは、クラスのある男子が、留美夏の顔を見て、『ブロブフィッシュ』という名前の、顔全体がダランと垂れ下がったブサイクな深海魚に似ていると言い出したのがきっかけである。
それがクラスで大ウケし、とはいえ『ブロブフィッシュ』だと長くて言いにくいということで、『ブロビー』と呼ばれるようになったのだ。
要するに、クラスメイトが留美夏のことを『ブロビー』と呼ぶとき、留美夏はクラスメイトに『ブス』と言われているも同然なのである。
あだ名だけではない。
留美夏は、複数のクラスメイトから『バカ』とか『アホ』という言葉を日常的にぶつけられていたし、一日一回以上は、『死ね』とも言われていた。
校舎内で禁止されているはずの暴力行為も、先生の目を盗んで日常茶飯事だった。
教室前の廊下を歩いていたところ、今まで一度も話したことのない同学年の男子に足をかけられて盛大に転び、前歯を折った時には、見ていた生徒から大爆笑の渦が巻き起こった。
父親に連れられて歯医者に行くのが耐え難いほどに惨めだった。
ただ普通に生活しているだけなのに、そのような仕打ちを受けることは、留美夏にとってとても辛いことだった。
しかし、それ以上に辛かったことは、クラスメイトの留美夏に対する評価があまりにも的を射ていたことである。
あだ名が付けられた後、留美夏はネットで『ブロブフィッシュ』の画像を検索してみたが、〈世界一醜い魚〉とも称されるその魚の顔と、鏡で見る自分の顔とはたしかに似通っていた。
それに、テストで赤点ばかり取っている留美夏は、たしかに〈バカ〉で〈アホ〉なのだ。
クラスメイトからよく『臭い』とも言われるが、家庭の経済事情ゆえに制服を頻繁にクリーニングに出すこともできていないことは事実なので、おそらく〈臭い〉のもそのとおりなのだろう。
留美夏は、生きていても誰の役にも立たないだろう。
〈死んだ方が良い〉存在なのだろう。
死んだ方が周りのみんなの生活も快適になって喜ぶのだろう、と自分でもとっくに気が付いている。
他方——。
姉である亜美夏は、留美夏とは正反対の存在だ。
見た目は可愛いし、異性からもモテるし、友だちもたくさんいる。
通っている高校は、このあたりで最も偏差値の高い進学校で、その中でも成績は上位三パーセントに入っている。
姉は、自分とは別の次元を生きている。
〈血の繋がり〉さえも断絶してしまうほどの時空の壁が、留美夏と亜美夏との間に屹立しているのである。
ゆえに、留美夏は、よく、自分が亜美夏と同じ二段ベッドで寝ていて良いのだろうかと不安になる。
自らの寝床ですら、自らにとって〈場違い〉なような気がして、心を落ち着けることができないのだ。
「どうしたら私もお姉ちゃんみたいになれるの?」
口に出した途端に、口に出したことを後悔した。なんたる愚問。単なる恥さらし。
想定される質問の答えは、たった一つ。
——黙れ。
留美夏が亜美夏のようになれるはずがない。
姉妹だからといって思い上がるのはいい加減にした方が良い。
ブロブフィッシュは一生ブロブフィッシュのまま。
逆立ちしようが何をしようが、決して一人前の人間には慣れっこないのである。ましてや姉のような立派な人間にだなんて。
それでも——。
「努力だよ。努力」
二段ベッドの上段から、姉の声が聞こえた。
その落ち着いた声には、茶化したりふざけたりするような響きはない。
「……努力?」
「そう。私たちは何にも恵まれてない。だから、努力しなきゃダメなんだよ」
薄明かりの中、亜美夏が滔々と語ったことは、留美夏も身に染みて分かっていることだった。
すなわち、姉妹の出自のことである。
父は、中学校を卒業したのち、町工場で働き始めた。
プレス作業に従事していた父が不幸な目に遭ったのは、ちょうど二十歳の誕生日を迎えた日だった。
プレス機に挟まれ、右手の人差し指を切断してしまったのである。
〈手に職をつける〉ことさえできなくなってしまった父は、飲食業を中心に、職を転々としている。
母も、中卒である。
幼少期よりうつ病の気質のあった母は、精神病院の入退院を繰り返していた。
定職に就いたことは、過去に一度もない。
頬の肉は、ブロブフィッシュのようにダランと垂れ下がっている。
そんな社会の〈落伍者〉である二人は、ハローワークの職業訓練施設で出会い、亜美夏を妊娠したことを機に結婚した。
亜美夏は、姉妹の出生について、こう卑下した。
「私たちは掃き溜めの中から生まれたんだよ」
留美夏は、自らの出自を振り返るたび、こう思う。
——生んでくれなければ良かったのに、と。
子どもは欲しくなかった、というのは留美夏が直接聞いた母の言葉である。
自分すら養えないのに、後先を考えずに、性欲に身を任せた軽率な行動によって、意図せずに子どもをもうけてしまったのだ、と母は臆することなく言っていた。
その場にいた父親もうんうんと頷いていた。
亜美夏も留美夏も、両親から望まれなかった命なのである。
それならば、物心つく前にいっそ殺してくれれば良かったのに、とさえ留美夏は思う。
しかし、亜美夏は、〈掃き溜めの中〉から生まれたことを認めつつも、留美夏のような思考には陥っていなかった。
亜美夏は、落ち着いた口調で言う。
「だから、私たちには努力しかないでしょ?」
亜美夏が陰で努力をしているということは、留美夏もよく知っていた。
亜美夏の人生には、一切の休息が無い。
姉は、 家にいるときは、ほとんど学習机に向かっている。
食事も、いつも学習机の上で摂っている。
例外的に机を離れる場面は入浴中と就寝中くらいであるが、お風呂では防水ラジオで英語学習用の音声を聴いているし、二段ベッドの上段には読書灯と参考書が置いてあって入眠直前まで勉強ができるようになっている。
睡眠を摂るのも、休むため、というより、脳にパフォーマンスを発揮させるために仕方なく、といった感じである。
美容に関しても、姉は時間と労力を費やしている。
学習机の棚の半分は、化粧品で埋まっており、バイトで稼いだお金は、ほとんどそのまま化粧水やら乳液やらへと変わっている。
毎朝、留美夏よりも二時間も早く起きて、肌の手入れと化粧にいそしんでいる。
高い香水だってつけている。
体型維持のために、いつも味のしない寒天のようなものをよく噛んで食べている。
亜美夏が留美夏と別次元にいるのは、偏に努力の結果なのだ。
そのことに、留美夏も勘付いてはいた。
亜美夏の顔だって、元々は留美夏と変わらなかったはずなのだ。高校に進学するまでの亜美夏の顔は、今の留美夏の顔とほとんど同じで、ブロブフィッシュのように頬が垂れ下がっていたのである。
とはいえ、留美夏には、亜美夏と同じ努力ができるだろうか——到底できないと思う。
努力ができるかどうかも〈才能〉のうちなのではないか、と留美夏は思った。
ゆえに、素直に弱音を吐露する。
「……私には、お姉ちゃんみたいな努力はできないよ」
「できるかできないかじゃないよ」
姉は、突き放すように、冷たく言う。
「やるしかないんだからさ。努力をすること。それが私たちの宿命なの」
「宿命……」
「努力をしなかったら、いつまでも掃き溜めのまま。自分のことを、まともに生まれた人たちと一緒だなんて思わないで」
それ以上、亜美夏は何も言わなかった。
亜美夏は、きっと留美夏を突き放したわけではない。
むしろその逆で、留美夏を掃き溜めから引き揚げようとしたのだ。そのために努力をするように、と留美夏に強く訴えかけたのだ。
しかし——。
亜美夏の話を聞いたことで、留美夏は、二段ベッドの上段と下段の距離がさらに遠くなったように感じた。
菱川あいずは海洋生物ヲタクですので、菱川の作品には、どこかしらで魚の話が出てくる場合が多いです。
今回は、読者のみなさまもよくご存知な超有名魚である『ブロブフィッシュ(ニュウドウカジカ)』です。
……え? 知らないですか?
そんなはずはありません。絶対に知っているはずです。ググってみてください。見慣れた画像が出てくるはずです。