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疲れ果てたその先に

作者: 見伏由綸

小説を書きたいと思った。書きたいと思って勢いのまま、文字を打ち始めた。たったそれだけのことで涙が溢れてくる。うまく言葉にならなくて遅々として進まない、それでも、言葉を綴っていることに限りなく幸せを感じた。


元々、書くのは好きだった。でも一つのことを最後まで続けるのが苦手で、書き出しだけの未完結な文章やメモばかりを書いていた。それでも、心の中にあるよく分からない何かが言葉になって文字になって自分から吐き出される時、心の中の苦しさが救われるような気がしていた。


就職して、社会人になった。沢山の同期と一緒に研修を受けた。初めて実家から離れて、長期間ホテルに泊まった。会社持ちでホテルに泊まれるなんて幸せだ、とそう思う人が多かった。私はというと、慣れない味のご飯を食べ、慣れないスーツを着て、全方位に気を遣って気を張って、上手く寝られなくて寝不足の毎日を過ごした。気付いた時には、小説も漫画も、読めなくなっていた。


研修がひと段落して、寮に入った。引っ越し荷物を解くのがどうしてもできなくて、折り畳まれたマットレスの上で寝ては起きた。お母さんと一緒に買い集めた料理道具も食器も出せなくて、鍋一つで素麺ばかり茹でては食べた。ダンボールの積まれた部屋の中、小さくなってただただ何かに耐えていた。


屋外での研修が増えるにつれ、疲れで根落ちることができるようになっていった。夕方早くに仕事が終わり、帰ってお腹が減ったと思いながら寝落ちた。実家にいた頃は起こしてもらわないと起きなかったのが、3時頃には自然と目が覚めるようになった。一度目が覚めると寝られなくて、相変わらず毎日寝不足だった。


研修場所が変わって引っ越しをした。今度こそ最初に頑張って荷解きをしないとまた一畳で生活する羽目になる、と頑張ってなんとか荷解きをした。ダンボール六個はそのままとなったが、今回は食器も全部出せた。備え付けの電子レンジでパスタを茹でたり炊飯器でご飯を炊くことが増えた。せっかく開いたマットレスは、帰宅後に寝落ちるせいで一度も使われることはなかった。備え付けのテレビの前、暖房が一番あたる床で下着のまま寝落ちた。寒い、お腹減った、と思いながら、泣きながら寝た。


元の寮に戻った。反省を生かして今度も大体の荷物を解くことができた。ベッドにマットレスも敷いた。でも、相変わらず寝落ちるせいで、ベッドの上に敷いたバスタオル二枚が生活スペースになった。小さく丸まって寝るが脚が落ちることも多く、常に足がうっすらと浮腫んでいた。お腹減ったと思いながら漫画を読んで寝落ちて、5時に目が覚めてお弁当を作った。漫画が読めるようになっていた。


漫画も好きだが、本来は小説の方が好きだった。貪るように読んでいた。寝る時も、寝起きも、通学電車でも、呼吸をするように小説を摂取していた。小説に癒される励まされ鼓舞されていた。それなのに、小説が読めない。無料漫画をある程度読み尽くして、もっと違う話が読みたくて、小説が読みたかった。でも読めない。開くことさえできない。好きなものが好きと思えないことが怖くて、じっと耐え続けていた。


きっかけが何かは分からない。研修生活に慣れたのか、お腹が減ったまま寝落ちることに慣れたのか、一緒に研修を受ける同期に慣れたのか、ある日、小説を開こうと思った。前に読んで気に入って何度か読み返したことのある小説を開いた。仄暗く欲望と飢餓と怒りと優しさが入り混じるそれは、心の中のよく分からない気持ちをかき混ぜて満たしてくれた。面白かった。面白いと思えたことが何よりも救いだった。好きなものを好きだと思って、楽しいと思えることがとても久しぶりで、とても嬉しかった。


それからは、小説を読んだり漫画を読んだりした。相変わらず、空腹のまま、何日も洗濯できなかったり、土日は無かったことにしたりしながら、でも心は少しずつ回復しているのを感じていた。三大欲求さえ満たしきれず、不安ばかりで、したいことさえできない毎日で、それでも、小説を楽しめるだけでも救いだった。


ある日、小説を書く人が出てくる漫画を読んだ。苦しみを耐え、一度は手放した小説を書くという行為にもがきながら掴まって立ち上がる人の話だった。その人が書ける喜びにどうしようもなく取り憑かれて夢中な顔を見て、私の中の何かが溢れた。私も書きたい、その思いがあふれてこぼれて、いつぶりか分からないが小説を書き始めた。書きたい、伝えたい、心の中の自分でもよく分からない何かを形にしたい、その思いで必死に指を動かした。最初は言葉が出てこなくて、一節書く度に手が止まった。そのうち、手を動かすのと同じスピードで言葉が溢れてくるようになった。気付いたら、言葉が出てくるのが追いつかなくて、頭の中が先走るくらい表現したい何かが溢れた。


ああ、幸せだ。そう思った。


上手いも下手も関係ない、読む人なんていないかもしれない。それでもいい。好きなことができる、ただそれだけが、好きなことが楽しいと思えないのではと怯えなくていい、好きなことを好きでいられる、それが何よりも嬉しかった。


もうじき研修が明ける。職場が変わり人が変わり仕事内容も変わる。きっと私はまた小説を書けなくなり、読めなくなり、漫画さえ読めなくなる。それでもいい。読めなくなってもいつかまた読める日が来る。書けなくなってもいつかまた書ける日が、書かずにいられない日が来る。そう思えるだけで、ほんの少しの希望があるだけで、きっとまたその日を待つことができると思うから。私は幸せだ。

読んでくださったみなさまに、幸せが訪れますように。

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