私のことが大嫌いな義弟に、誤って恋の魔法を使ってしまいました
「できたわ……これで完璧よ!」
伯爵家の地下室に描いた魔法陣の前で、リーナは母の魔法書を片手に満足げに頷いた。
「この魔法に力をもらって……明日こそカイルに告白するんだから……」
カイルは幼馴染の騎士だ。騎士の家に生まれ、彼自身も騎士になった。
そしてリーナは伯爵家の令嬢――普通なら身分違いだが、貴族の血は引いていない。
前妻をなくした伯爵と、未婚のままリーナを生んだ魔女の母が大恋愛の末に結ばれて、リーナは伯爵家に引き取られた。
義父はリーナも実子と分け隔てなく育ててくれたが、リーナはずっと負い目を感じながら暮らしていた。
だから、一日も早く結婚して家を出たいと思っていた。
(何より、セルジュと離れるために……!)
――伯爵と前妻の子であり、正統な後継者である、リーナの二歳年下の義弟セルジュ。
彼は昔からリーナのことを嫌っていて、いつも疎ましげな態度を取ってくる。リーナはできるだけ仲良くなろうとしていたが、もう限界も限界だった。
(これが、私にとって最後のチャンス……)
リーナは石床に描いた魔法陣を見つめる。
母の持っていた魔法書に載っていたこの魔法陣――その名も「恋を叶える魔法陣」に力をもらって、明日カイルに恋心を告白する――
カイルとは最近こそ少し疎遠だが、昔から――伯爵家に引き取られる前から仲が良かった。
だからきっと告白も成功するはずだ。
どきどきしながら、魔法陣の中に入ろうとした刹那――地下室のドアが勢いよく開いた。
「……なんだ、リーナか。また妙なことをしているのか?」
無遠慮に入ってきたのは義弟のセルジュだった。
黒髪に赤い目。そして恐ろしいほど整った、中性的な顔立ち。昔はあまりにも可愛くて、女の子かと思ったほどだったが、いまは体格もすっかり男だ。
伯爵家は魔術師の家系であり、彼も若くして宮廷魔術師として王城で働いている。家に帰ってくることはめったになかったのに、どうしてこのタイミングで。
「――か、勝手に地下室使ってごめんなさい。いま、ちょっと大事なことをしていて……すぐに終わらせるから」
「大事なこと? ……この魔法陣、また恋愛絡みか? 一目惚れを繰り返してはフラれてばかりのくせに……とても義母上の血を引いているとは思えないな」
リーナの母親はとても力の強い魔女だ。
だがリーナ自身は、おまじないが少し使える程度の魔力しかない。
「こ、今回は違うわよ。告白する勇気をもらうだけだから――」
いままで結婚のために多くの男性にアプローチしてきたが、まったく実りがなかった。
そんなことを繰り返していたとき、気づいたのだ。幼馴染のカイルのことが好きだったことを。――たぶん。
「……本当に、懲りない上に鈍いんだな」
セルジュが呆れたようにため息をつき、魔法陣の中に入ろうとする。
リーナは慌てて叫ぶ。
「ちょっと、入らないで!」
リーナが止める間もなく、セルジュは魔法陣に足を踏み入れた。
その瞬間、魔法陣が光を放ち、リーナが込めた魔力がセルジュに向かって飛んでいった。
リーナは呆然と立ち尽くし、セルジュは淡々とした表情で周囲に漂う光の名残を見つめていた。
「……子供だましだな」
そう言って、魔法陣の一部を靴先で削り取る。その瞬間、魔法陣がすべて消え去った。
「くだらない」
そう言って、地下室から出ていく。
――まったく、何の影響もなさそうだった。
(さ、さすが宮廷魔術師……いえ……私が未熟なだけ?)
落ちこぼれ魔女の描いた魔法陣などには影響されないのだろう。
◆◆◆
――翌朝、リーナの元にセルジュがやってくる。
「リーナ、昨夜から、なぜかお前のことが気になって仕方がない。視界に入るたびに……胸がムズムズする」
「えっ――ええっ!?」
リーナは仰天した。
セルジュの態度はいつもと違って、どこか緊張感が抜けていて、どこか可愛らしさすらあった。昨日までの冷たい鉄仮面とは別人のようだ。
「た、大変――昨日の魔法に変な効果が? すぐに解除しなきゃ! ――待ってて、いま魔法書を持ってくるから、自分で解呪して!」
「そんなくだらない時間を取らせるな」
「そ、そうですよね……」
「俺は城に行ってくる。買ってきてほしいものはあるか?」
――リーナは愕然とした。セルジュにいまだかつてそんな言葉をかけられたことはない。
「無事に帰ってきてください!」
――それから、セルジュの態度はいつもと明らかに違っていた。
とにかく、リーナにやたら構ってくる。
「顔色が悪い……夜更かししないで早く寝てくれ」
「この花、リーナに似合うと思って摘んできた」
「ケーゼトルテを買ってきた。好きだっただろう?」
――等々。
いままでに見たこともないような穏やかな顔で、いままでに言わなかったようなことを言って、いままでしてこなかったことをしてくる。
(な、なにこれ……魔法の効果? どういう効果?)
――告白の勇気を得るための魔法は、もしかして素直になる魔法だったのかもしれない。
セルジュはなんだかんだ言って、リーナを姉として認めてくれていて、素直になれなかっただけかもしれない。
(なんだ、可愛いところあるじゃない……ずっとこのままでも……いいえ、だめよ。このままだとセルジュの人格が歪んじゃう)
素直になっただけとしても、魔法で性格が変わってしまったとしても。
大嫌いな義姉にこんな態度、彼が正気に戻った時、記憶を消したくなるかもしれない。
(私が、なんとかしないと……!)
魔法の効果を改めて調べて、解呪方法を見つけなければ。
急いで魔法書を調べに行こうとすると、セルジュが声をかけてくる。
「ああ――そうだ、リーナ」
「こ、今度はどうしたの?」
「お前の幼馴染の騎士とやら、恋人ができたそうだ」
「――カイルが? そ……そうなんだ……」
できるだけ平然と答える。カイルを好きだったことは、誰にも言っていないから。
リーナは少しだけ泣きながら、魔法書を読み返す。
文字の一つひとつを確認して、効果を調べ直していく。
そして、気づいた。
「これ、効果がある期間は十日間……?」
つまり、時間が解決してくれる。
「よかったぁ……」
心底ほっとする。一生あのままだったらどうしようかと思った。
◆◆◆
――やがて、魔法の効果が切れるはずの期限が訪れる。
リーナは少し寂しさを感じながらその日を迎えた。
(あんなに可愛いセルジュがいなくなっちゃうなんて……)
――とはいえ、彼にとっては恥辱の極みかもしれない。忘れてあげるのが義姉としての優しさだろう。
そしてリーナは緊張しながらセルジュに会った。
「おはよう、リーナ。今日も可愛いな」
「――なんで?!」
おかしい。元に戻るどころかむしろ悪化している気がする。
(もう一度、魔法書を調べないと――)
急いで地下室に行こうとすると、腕をつかまれる。
振り返ると、呆れ顔のセルジュがいた。
「――鈍いな、本当に」
その声の響きは懐かしい、冷たいものだった。
いつもその響きに怯えていたのに、いまはとても懐かしく安心するものだった。
「も――戻ったの?」
セルジュはため息をつく。
「あんな失敗魔法陣で、俺に魔法がかかるわけがないだろう」
「し、失敗?」
「十三番目の文字のハネが違っていた」
「細かい?!」
「魔法陣とはそういうものだ。正確な呪文、正確な文字、配置……完璧に正確でなければ意味がない」
淡々と言う。
「ちょっと待って。魔法がかかっていないって――いま、言った?」
「そうだ。効いたふりをしていただけだ」
リーナは愕然として、セルジュの手を振りほどこうとした。
だが、びくともしない。
「……からかったの?」
「違う。素直とやらになってみたら、お前がどんな反応をするか気になっただけだ」
「だから――どうしてそんなことを」
「……好きだから」
そう言ったセルジュの頬は、ほんの少し赤くなっていた。
「リーナのことがずっと好きだったから」
――何が起こっているのだろう。
悪い夢でも見ているのだろうか。
悪い魔法をかけられたのだろうか。
「信じていないな」
「そんな……だって、あんな態度ばかりで、信じられるわけ……」
「バレるわけにはいかなかったからな……父上にも、義母上にも。引き離されるかもしれないだろう? 義理の姉弟とはいえ同じ家で暮らしているのに、恋情を抱いているなんて」
「……本気?」
「本気だ。本当は、冷たくなんてしたくなかった。だが……どう接していいかわからなかった……」
その顔はひどく寂しそうで、一瞬ほだされそうになる。
「セルジュ……だ、だめよ……私たち、血は繋がらなくても姉弟なんだよ?」
「繋がってないから問題ない。それにもう両親の許可は取ってある。リーナさえよければ、結婚を許すと」
「――――ッ?!」
「名前だけ他家の養子にすることもできる。そうすれば、何も問題ない」
「ちょ、ちょっと待って……」
家から出るつもりだったのに。
義弟から離れるつもりだったのに。
何故か婚姻話が進んでいる――?
リーナは背筋が凍るような恐怖と、セルジュの真っ直ぐな感情に困惑する。
「逃げられると思うか?」
セルジュの手がリーナの頬に触れる。優しい仕草だが、その手は完全に異性のもので。
いつの間にか背もずっと高くなっていて。
赤い目はまるで逃げ場のない檻のようだった。
「リーナが望むならどこにだって連れていってやる。だが、俺から離れるのは絶対に許さない」
その囁きは甘く、そして呪縛のようだった。
(――ど、どうしてこうなるの――?!)