小手森城は深紅に染まる 後編⑦
天正十三年(一五八五年) 八月二十三日。
この日、私達は川俣から一気に小出森城を攻める……つもりだった。
つもりだったのに……。
「ハハハ、この阿呆が! 自陣の守りがガラ空きじゃぞ!」
「ハイハイ、ヨカッタネ」
「よいか愛、将棋とは力のある駒を奪ってしまえば勝ちなのじゃ! 戦と一緒、此度のように青木修理を大内から奪った時点で勝負は決まっておるのよ!」
今日はあいにくの雨。
朝から止む気配は一切なく、人が外で活動するのが困難なぐらい大粒の雫が天から落ちる。
そんな中、私は本陣に設置された雨よけの中で政宗と将棋を指していた。
「あっ、殿……その手は……」
「手加減せよ、と申したいのであろう。小十郎、残念じゃがこれもまた戦じゃ。愛にもそろそろ戦の厳しさってものを教えてやらんとなぁ」
「いえ……何と申しますか……、その……詰んでおられます」
「は?」
小十郎の忠告は一足遅かった。
政宗は【王】を守る厄介な【角】を手薄になった私の本陣に突撃させ【飛車】を奪い取ったが、それこそが敗北の一手だと気付いていなかったようだ。
私は悠々と自軍の駒を政宗の【王】の近くに指す。
「王手」
どこに逃げても、次の一手で政宗の【王】は狩り取られる。
その事にようやく気付いたようで、さっきまでの調子に乗った顔が絶望へと変わる。
「ま、待て! 少し考えさせよ!」
「お好きにどうぞー」
さっき小十郎が言ったが、政宗は私の【飛車】を取った時点で詰んでいる。
政宗は私の隙を突いたらしいが、その隙は私が勝つための囮。まんまと罠に引っかかったわけだ。
「なぁ愛……【飛車】を取る前からやり直さんか?」
「へぇー……アンタは戦中不利になったら、敵にそんな事言うんだ。まぁやり直したいなら別にいいけどね」
「お前に花を持たせてやったんじゃ! なら再戦じゃ、再戦!」
「それもう三回目なんだけど……」
私がそう口にすると、政宗は歯をギリギリさせ悔しそうな表情を見せた。
これが二回目、次で三回目だ。
既に政宗は三回同じ相手に負けている。
「ふむ……。普段は大胆な動きをする姫様ですが、将棋となると策士ですなぁ。左月は感服致しましたぞ」
と、私を後ろで褒めてくれるのは左月だ。
手で顎を擦りながら、盤面の駒の配置をじっくりと確認している。
「クソ……、嫁いだ時は雑魚同然だったのに……」
「殿……みっともないですぞ。負けは負け、いい加減認めなされ……」
「お前は阿呆か! 女に負けたままじゃ枕を高くして寝れんではないか!」
ブツブツと、怒り口調で将棋盤の駒を直し始める。
相当私に負けた事が悔しいようだ。
てか、こんな所で枕を高くして寝ようとするな。総大将なんだからもう少し緊張感を持て。
「中々面白い打ち方をなさいますなぁ。どちらで学ばれたのですかな?」
「ばあ様が将棋大好きでね。子供の時、ばあ様と遊ぶっていったら将棋だったのよ。そん時に覚えちゃった」
「ばあ……様、ですか? それは稙宗公の姫君の事に?」
「あっ……いや……、なんでもない。ごめん、忘れて」
左月の質問についつい真剣に答えてしまった。
私のばあ様、つまりは私が陽徳院 愛華だった頃のおばあちゃんだ。
厳しかった父とは違い、愛に溢れた包容力を持った女性だった。
母と兄を亡くしてショックだった私の側にいつもいてくれたのを憶えている。自分の娘を亡くして一番ショックだったのはばあ様だったのね。
そんなばあ様の得意な遊びが将棋だった。
最初は古臭い遊びだと思ったけど、大好きなばあ様が好きな遊びなら覚えてみようと思ったのだ。
懐かしいなぁ。
まさか、その時の技術がこんな所で……歴史の偉人を負かす事になるなんてね。
……今のところ全然偉人には見えないけど。
「それにしても雨……止まないね」
止むどころか、雨足は私達の会話がギリギリ聞こえる程度にどんどん強くなる。この降りかただと、今日一日中降ってそうだ。
「……天は我らを試しているのかもしれませんな」
左月は腕を後ろで組み、雨雲を見上げながらそう言った。
「試す? 試すって何?」
「朝廷の力が弱まり、各大名による武力統治への時代と変わりはや百二十年。この戦国の世で、時代の流れを大きく変えた戦が行われたのを姫様はご存知であられるか?」
「時代の流れを変えた戦……」
私の知っている戦だろうか。
とりあえず、首を横に振っておく。
「ひとつは、北条第三代目当主・北条氏康が扇谷上杉と古河公方を相手取った『河越奇襲戦』。ふたつめは、毛利家の毛利元就と周防大内の家宰・陶晴賢……ふたりの謀将が神の島で謀略を繰り広げた戦『厳島合戦』」
「詳しい内容はわかんないけど聞いた事はあるよ。たしか……日本三大奇襲戦ってやつよね」
「さすがは姫様じゃ。日本三大奇襲戦と呼ばれているか定かではありませんが……まぁそう捉えていただいて結構。では、みっつめの戦もご存知ですな?」
知っている。
内容は兎も角、むしろこれを知らない日本人はいるのだろうか。
「桶狭間」
答えたのは私ではない。政宗だ。
「織田信長が駿河の当主・今川義元を桶狭間山で討った戦じゃな」
「うむ」
「じゃが左月、それがどうした? まさか試したかったというのは儂等のおつむの事じゃあるまい」
左月は首を横に振った。
「雨です」
「……雨?」
私は左月に聞き返してしまう。
雨がどうしたのだろう。
「これらの戦では雨が降っていたそうな。雨は忍び寄る音を消し、痕跡を一時的に隠します。それ故、かの大名達は劣勢でありながらも勝ち戦に繋げたのです」
「……この雨もそうって事?」
「どうですかな。じゃが用心はしたほうがよい。相手はあの大内定綱、かならずや何かしらの策を講じてきましょうぞ」
私達は否定する事なく、左月の助言を聞き入れた。
左月の勘は当たっていた。
この時、大内の援軍である蘆名と畠山の兵士達は既に大内領内に入っていたのである。




