博乱の八咫烏⑦
●銭虎屋敷内部
「グスッ……グスッ……」
涙を流し、ひとり井戸の前で縮こまる女がいた。
この女は銭虎屋敷に入ってから日が浅く、銭虎のお気に入り……つまりは遊女としてこの屋敷で生活している。
「グスッ……、アタシ……旦那様の機嫌損ねちゃった……。アタシすぐに売られちゃうのかなぁ……」
この屋敷にいる銭虎専用遊女は、この娘を入れて合計で八人。
彼女が何故このような事を思っているかというと、この屋敷の遊女部屋には八人しか入れないのである。
そのため、銭虎が新しい遊女を連れてくれば必然的に誰かが屋敷を出なければならない。銭虎専用遊女ならまだ気は楽なのだ。
なぜなら、この屋敷を出れば本格的に遊女として売られてしまう。そうなってしまえば、彼女等は借金を返済するために、毎日見知らぬ男達の相手をしなければならなくなるのだ。
銭虎屋敷は、いわばその研修所。
ここにいる間は、少なくとも銭虎だけを相手するだけで良いため、まだ気が楽なのだ。
ただ、この娘は先程銭虎に身体を触れられ、反射的に拒否反応を起こしてしまった。
確実に銭虎の機嫌を損ねてしまった。
そのため、次にこの屋敷を出るのは私だ。と、落ち込み泣いていたのである。
「おっとお……おっかあ……、会いたいよ……」
泣いても誰も助けてくれないのは分かっていた。
他の遊女達も明日は我が身。今回は回避出来ても、明日には自分が売られるかもと常に恐怖と不安にかられている。そのため、彼女達の間では絶対に同情しないようにと秘密の決まり事が成立していた。
それでも、いざ自分ともなると誰かが傍にいて欲しい気持ちになる。
彼女は溢れ出す感情を押し殺しつつ、ただただ自分の失敗を悔やむ事しか出来なかった。
「……アンタがお松さんの娘さんスか?」
「……え?」
声の聞こえる方に顔を向ける。
そこにいたのは、一足先に屋敷の中へ侵入していたずんだった。
「あ、貴女は……?」
「わちきは愛姫様専属の忍びお打……いや、巷では『飾り職人のずん』って呼ばれてるっス」
「か、飾り職人のずん……様?」
「忍びに『様』は不要」
「……忍び?」
「い、いや、何でもないっス。それより、アンタがお松さんの娘さんで間違いないっスか?」
「え……あ、はい。確かにアタシの母はお松ですが……」
ずんの勘は当たった。
本当は何処にお松の娘がいるのか尋ねるつもりだったのだが、どこか顔に見覚えがあり、もしやと思い尋ねたのだ。
ずんはお松の娘に事情を話す。
すると、彼女は袖で涙を拭う。表情も絶望から希望に変わり、話す声にも力が戻ってくる。
「ほ、本当にここから出られるので⁉」
「シッ、声が大きいっス!」
「あ……す、すみません……」
「兎に角、わちきの仕事はアンタを無事にここから逃がす事っス。流石にこの高さの塀は担いで飛べないので、このまま正門までわちきと一緒に来てもらうっスよ」
「せ、正門って……。あそこには常に門兵がいるんですよ⁉ 絶対通してくれるわけありません!」
「ああ、大丈夫っス。正門は仲間が既になんとかしてくれてるはずっス。だから、安心していいっスよ」
「そ、そうですか。お仲間が……」
一瞬不安になったが、仲間がいると聞き安堵する。
差し出された手を取り、立ち上がると、先頭のずんを追うようにゆっくりと移動を開始する。
――――――――――
「あ、あの……」
移動を開始して間もなく、お松の娘はずんに話しかけた。
こんな時にのんびり会話している場合ではないのは分かっているのだが、彼女にとってはどうしても確認したい事があったのだ。
「母は……母は元気でしょうか?」
「……そこそこっスかねぇ。あまり良い暮らしをしているようには思えなかったっスが」
「そ、そうですか。元気なら良かった……」
母が元気だった事に再び安堵するお松の娘。
ずんが物陰から様子を見て動こうとした時、またしても娘が動きを止める。
「……娘さん、今度はなんスか?」
「すみません。アタシ助けていただいているのに、まだ名を名乗っていませんでした。アタシの名は五葉と言います」
「そうスか。それなら五葉殿とお呼びするっス」
「いえいえ、そんな殿なんて呼ばれる身分ではありません! 五葉とそのまま呼んでいただければ」
「了解っス。では……五葉、わちきの後ろをゆっくりとついて来てくださいッス」
今度こそ。
と、ずんが周りの安全を確認し動き出すが、またしても五葉がずんの服を引っぱり動きを止める。
流石にこの行為には、ずんも大きくため息を漏らした。
「ハァ……。五葉、アンタ助かりたくないんスか?」
「い、いえ、そんな事は。実はずん様にお願いが……」
「様はいらないと言ったはずっス。……して願いとは?」
「私の他にも強引に連れて来られた娘達がいるのですが、その娘達も一緒に逃げられないでしょうか」
これにはずんも困惑する。
「皆、銭虎の卑怯な手で強引に連れて来られたのです。きっと皆もここから出たいはずですので」
「それは無理っス。わちきは姫様から五葉だけを救出するように言われてるんスから」
「厚かましい願いだというのは分かっています! ですが、アタシだけが助かるなんて……。短い間でしたが、同じく心を通わせた仲間なのです!」
その後も五葉の説得は続く。
楽しい事などなかった。辛い時も約束通り同情はしなかった。
それでも同じ困難を耐え抜いてきた仲間なのだ、と五葉は話す。
「…………」
ずんは悩んでしまう。
たとえ、ここで五葉の願いを聞かず彼女だけを助けたとしても、決して咎められはしないだろう。主から与えられた任務を素早く遂行する、それが忍びの本懐だからだ。
だが、ずんの主は義を重んじるタイプの人間。無事五葉を助け出したとしても、同じ境遇の娘達がまだ残ってると知れば無茶をしてでも助け出す可能性がある。
それはずんにとって、主を守る忍びとしてうまい話ではない。片付けられるなら、今片付けた方が良いという考えに至る。
「……良いでしょう。ですが、これ以上の願いは聞けないっス」
「――ありがとうございます! 実はあの部屋に仲間たちが……」
「それは知ってるっス。問題なのは……」
井戸から程近い明かりの灯った部屋、あそこが遊女達の部屋になっている事は調べ上げていた。
ただ、問題なのはその周りを動く人影だった。
「随分と少ないスね。見張りは何人スか?」
「ふたりです。昼間は外だけで倍はいるのですが、この時間帯になると半数は屋敷の中で休息を取っているので」
「なるほど」
ずんは相槌を打つと、後ろの帯から二本のかんざしを取り出した。
その内の一本を左手で握りしめると、もう一本は右手で見張りに向かって投げつけた。
「グ……‼」
バタリッ、と部屋の前にいた見張りが倒れる。
その音を聞いてなのか、もうひとりの見張りの男が足音を鳴らし近づいて来る。
「おい、どうした⁉ 何があった⁉」
駆け付けた見張りが見つけたのは、首にかんざしの刺さった同じ見張りの男だった。
敵襲である。そう叫ぼうとしたのだが、倒れた見張りに近づいた時点でこの男の運命も決まっていた。
「――ムグッ⁉」
ずんは近づいた男の後ろを取ると、右手で口を塞ぎ、左手を振り上げる。
「ちょっとだけ眠ってもらうっス」
グサリッ。
左手に握っていたかんざしを見張りの首元に突き刺すと、男は声を上げる事も出来ずに白目を向いて倒れてしまった。
「カ、カッコイイ……」
安全を確認し、隠れていた五葉が近づく。
「こ……これ、死んでいるのでしょうか?」
「いや、死んではないっス。気絶するツボを刺しただけなんで、後数刻も経たないうちに目が覚めるっスよ」
「そ、そうなのですね。……ずん様って何者なんですか?」
「言った通り、わちきはただの飾り職人っスよ」
ずんは五葉にそう告げると、遊女達のいる部屋の戸を開けた。
「さぁ皆さん、逃げる準備は出来ているっスか?」




