おやすみなさい と いってきます
私はいつも、寝る前の時間を大切にしていた。
毎日の疲れを癒すためには欠かせない自分ひとりの時間だからだ。
夜、暖かいお風呂にゆっくりと浸かり、身体の疲れを癒した後は一人静かに部屋に戻り、少し部屋の明かりを落として読書を始める。時には悲しい、時には胸躍るような感動的な物語に出会い、涙を零すこともあった。
私は小説の世界に入り込み、眠りに就く前にはその物語の主人公や登場人物の心情を自分自身に重ねて振り返ったりするのだ。
そうして眠りに就くまでの時間は、いつのまにか私の心を癒してくれるのである。
でも今日は、その大冒険をしたのは小説の中の主人公ではなく、私自身だった。
今日は、色々なことがありすぎた。
心が、揺れ過ぎた。
初めての絶望、初めての出会い、初めての大笑い、初めての心からの謝罪、初めての大泣き、初めての同棲、初めての……。
恐らく今日は私にとって一生忘れることのできない一日になるだろう。
私は少し目も虚ろになってきた太陽さんを見た。
「太陽さん、そろそろお休みになりますか?」
太陽さんは一度時計を見てから私に微笑んだ。
「そうですね、実は明日からまた仕事なものですから、今日はもう寝ることにします」
そう言って彼は母親のだった部屋のドアを開けた。
彼にとって唯一の肉親であった母親の遺品が詰まったダンボール箱が床の上に幾つか重ねられている。部屋はほこりも無く綺麗に掃除されているのに、ダンボール箱だけが彼の思い出を留めているような寂寥感を室内に放っていた。
1ヶ月間、彼はその遺品の処分にずっと葛藤していたはずだ。
「すみません。まだ母の荷物が完全に片付いていないのですが、アルテイシアさんはこちらの部屋をお使いください……その、申し訳ありませんが、服は暫く母の物で我慢していただけると助かります」
「ええ。ありがとうございます、太陽さん。私の方こそ大変助かりますわ」
彼は押入れの襖を開け、中から寝具を取り出して枠組みだけ残してあったベッドの上に置いた。
「布団は……こんなことなら干しておくんだったな……」
「とは言え今日は雨でしたからね。ですが平気ですわ……ヒュプノス・ベッド♪ これで快適となったはずですから」
「凄いなアルテイシアさんの魔法は……僕も使えれば良かったけど」
「また一緒に練習いたしましょう?」
「あはは、もうその手には引っ掛かりませんよ?」
彼はそう言って軽やかに笑った。
「さて、では今日はもう寝ましょうか」
「はい」
私は改めて今日一日のお礼の気持ちを込めて、太陽さんに深く一礼をする。
太陽さんはそれを照れたように受けて、部屋を一歩出て、ドアに手を掛けた。
「それではアルテイシアさん」
「はい、太陽さん」
私達は笑顔で挨拶をする。
「「おやすみなさい」」
私はその日、余程疲れていたのか安心したのか、翌朝から走り込みの約束をしていたのに起きるのが遅くなった。
私が部屋を出ると既に太陽さんは出勤の準備を済ませており、鏡を見ながらネクタイを結んでいるところだった。
テーブルの上には恐らく私のために用意してくれたのだろうトーストとバター、そしてコーヒーが置かれていた。
太陽さんは私に気が付くと笑顔で言った。
「あ、おはようございます」
「おはようございます。すみません、私ったらのんびりと……」
「お疲れでしたでしょうから。それに、これからもあまり先に起きようとは思わずに、自由にしていただける方が僕も気が楽ですので」
「ありがとうございます」
「ただの食パンですが良ければ朝食もどうぞ。そこのトースターで焼いて食べると美味しいですよ。僕はもう仕事に行くので自由にしてて下さいね」
「お忙しい時間にわざわざ……本当にありがとうございます」
「あ、そうだ。それからこれを……」
彼はテーブルの上にデフォルメされた猫のキーホルダーが付いた鍵と、紙幣を3枚置いた。
「母が使っていたこの部屋の鍵と、手持ちの限りで少しですがお金を置いて行きます。昼食等にお使い頂くか、必要な日用品等に使って頂ければと思います。もちろん家の中の物は自由にしていただいて構いませんし、必要な物は後日揃えますから。明日は僕も有給を貰うつもりなので、良ければ一緒に買い出しにでも行きましょう」
「何から何まで申し訳ありませんわ」
「とんでもない。僕の方こそ忙しなくてすみませんが今はこれで。それではゆっくりしてて下さい。行ってきます」
彼は忙しなく革靴に足を放り込んだ。
「お待ち下さい」
私は彼を振り向かせて近寄った。
「後ろ襟のところからネクタイがはみ出しておりますわ」
私は正面から両手を彼の首の後ろに回し、彼の襟を正した。私もその後になって気付いたが、私と彼の距離はかなり近い位置にあった。その間、彼は少し照れたように顔を逸し、呼吸を止めていた。
「できましたわ。それではいってらっしゃいませ」
「はい……行ってきます……」
彼は少し顔を赤くして部屋を出て行った。
彼を見送り、玄関のドアが私の目の前で閉められた時、私は、私をまるで疑っていない彼に対してとんでもないことをしてしまったと自責の念に囚われた。
彼の同意も得ないまま、襟を直すふりをしてとんでもない物を彼に取り付けてしまったのだ。
私がその存在に気付いたのは昨夜のことだった。
糾弾されていた当時は絶望や放心で内容も碌に耳に入らず、終ぞ思い至らなかったことだったが、良く良く考えてみればおかしな点が幾つかあることに気が付いたのだ。
もし私が破滅時の状態でこの世界に生まれ落ちたのだとすれば。
そう考えて着ていたドレスを探った時、私はそこに行動を監視するための魔法盗聴具が付けられているのを発見した。
誰がそれを私に付けたのかは解らない。だが、それが私を破滅に陥れるために使われたことだけは確かだった。
それを見つけた時、私はまず何よりも先にそれを握り潰そうとした。しかしそれをしなかったのは、自分でも驚く程に気分が落ち着いていたからだった。
太陽さんに出会っていなければこうはならなかったであろう。
私はすぐさまその魔法盗聴具の波長を変更し、逆にそれを利用することを考えだした。
そしてそれを、あろうことか恩人の太陽さんに対して使用してしまったのだ。
私は閉ざされたドアを前に、しばらく罪悪感で身動きができなかった。