呪いはいつか解けるもの
私がお手洗いでの大爆笑を済ませリビングに戻ると太陽さんは少し照れたように膨れており、それがまた私の笑いを誘った。
「意外に冗談を言うんですね、まんまと引っ掛かっちゃいましたよ〜」
私は居候の分際で、もしかして怒られるのではないかと案じてもいたので意外に思った。
少し怖くもあったので上目遣いで尋ねる。
「……怒らないんですの?」
彼は恥ずかしそうに後頭部を掻いて答える。
「アルテイシアさんが笑ってくれたから、それで良いです」
「あ……」
私は言葉が出なかった。
私はつい今日の朝までゴミ捨て場に打ち捨てられ、死を待つばかりの状況だった。
それがその日の晩にこんなにもお腹を抱えて笑えているのは一体どうしてなんだろう、と。
公爵令嬢の地位を失い立場を気にしなくて良くなったから? いや違う、言うまでもない。
「ごめんなさい」
そしてこんなにも素直に誰かに頭を下げて謝れたことも私には初めてのことだった。
「いえ、僕も楽しかったですよ。それに女性と手を繋ぐなんて殆ど初めてですから、ドキドキしちゃいました」
私も言われてハッとした。
彼と手を繋いだ時の温度、まだ残っている。
私の顔も少し、赤くなっていただろう。
だが、赤面を見られるのが恥ずかしいのに、その時は何故か彼から視線を逸したくないような気がしていた。
ついに私の返答が無かったせいか、彼は手持ち無沙汰を解消しようと紅茶を口に運んだ。
私はただ黙ってその様子を見ていた。
するとどうしてか、彼はそのまま上半身をテーブルの上に崩し、次いで椅子から転げ落ちて倒れた。
何が起きたのかと思いもしたが、私はそれを先程のお返しだとすぐに察した。
「太陽さん。残念ですが先程の今では流石に私も騙されませんわよ?」
それでも返事が無い、ただの屍のようだ。
そこで私は気付いた。落ちて砕けた彼のティーカップに。
たかが悪戯でカップまで割ったりするだろうか。
「太陽さん……? 嫌ですわ、ご冗談がお上手で……」
言葉とは裏腹に私の内心は焦燥に包まれ、すぐに彼の脈と呼吸を確かめていた。
先程は手が触れただけで震えた彼なのに、微動だにしなかった。
「そんな……」
私は愕然とした。彼は心肺停止状態に陥っていたのだ。
持病? それとも私の……?
すぐにそんなことを考えるよりも彼を治癒すべきと頭を振るった。
「不死鳥の灰!!」
私とて卒業パーティまでアリシアさんと切磋琢磨した公爵令嬢だ。最高位回復魔法くらいは会得している。
「うそ……ですわよね?」
それでも彼は息を吹き返さなかった。
救急車を呼ぶか? いや、最高位回復魔法で駄目なら到底無理だろう。
それでも諦める訳にはいかない。
「絶対に何とかしますわ!」
私は必死に心臓マッサージを試した。
この大事な場面で力不足などと言ってはおれず、私は彼のみぞおち指2本分下辺りを肋骨が折れる程度の力で、回復魔法すら織り交ぜて何度も何度も繰り返した。
私は絶望感に苛まれる反面で、逡巡もしていた。
彼に人工呼吸を施すべきか。
私は男性とキスをしたことが無い。
この期に及んでなお、私はそんなことを考えてしまっていたが、未だ全く動かない彼を見て、そんなことを考えている自分を愚かだと叱責した。
私は僅かでも可能性に賭け、彼に人工呼吸を施した。
解っている、それだけでは効果は薄い。人工呼吸を終えたらその後はまた心臓マッサージだ。
私にはとても長い時間に感じたが、実際にはどれほどだったろう。
遂に彼は何度か咳き込み、僅かな呼吸を取り戻してくれた。
「太陽さん! 太陽さん! 良かった……本当に……」
目を開いた太陽さんの顔を覗き込んで私は涙を零した。
「あれ……? 僕は一体……?」
彼はゆっくりと上半身を起こす。
「ごめんなさい、私のせいですわね……」
彼は私の視線の先にある割れたティーカップと床に溢れた紅茶を見た。
「そうか、僕はアルテイシアさんの淹れてくれた紅茶を飲んで……」
「きっと、私の呪いのせいですわ……」
「そっか……でも、アルテイシアさんが助けてくれたんだね」
彼は怖い程穏やかな表情だった。
「ですが……私は……」
彼は首を横に振った。
「ありがとう、助けてくれて」
「……怒らないんですの?」
「まぁ……僕としては何が起きたかも覚えてない訳だし」
「私が……怖くならないんですの?」
「ならないよ。それよりも僕は今日、君が来てくれて楽しかったんだ」
私は言葉もなく泣いていた。
「また明日、朝起きて顔を合わせた時、おはようって言ってくれたら嬉しいな」
まただ。この人はまた私の心を先読みしている。
出て行けと言われるのが恐かった私に、まるで予防線を張るかのように安心させてくれようとする。
それは多分、彼が経験の中で培ってきた性分なのだろう。
私は最初一人で泣いていたけれど、安堵や疲労、その他色々な感情が一気に溢れ出てきて、少しだけ彼の胸を借りて泣いた。
「さて、どうやらアルテイシアさんの抱える呪いの謎が一つ解明できましたね」
私が泣き止んで落ち着きを取り戻した頃、彼は優しく微笑んでそう言った。
「……どういうことでしょう?」
「つまり、アルテイシアさんの味覚が正常なのに作る料理がメシマズになってしまう理由は、きっと仕上げに美食家妖精の気まぐれを掛けてしまうからだったんですよ。その証拠に、僕は始めにアルテイシアさんの淹れてくれた紅茶を普通に飲んでいましたから」
「でも、その魔法は一般的にはお料理などを美味しくするための魔法ですわ?」
「きっとその魔法の使用に呪いが掛かっていたんでしょう」
太陽さんはその仮説を証明するため、私に同じ手順で紅茶を淹れさせた。そして目の前に並べられた2つのティーカップ。2人揃って1口だけ飲んでみる。
緊張したままお互いに視線を合わせるが、どうやら何の異変も無い様子だった。
「では、今度は魔法を掛けてみましょう」
「はい……美食家妖精の気まぐれ」
そうして魔法が掛けられた紅茶を私達は覗き込んだ。
「念のため、まずは僕が」
「あっ!」
彼は私が止めるより先に人差し指に紅茶をつけて舐めてしまった。
「うっ! ……やっぱり、思った通りだ」
彼は苦虫を噛み潰したような表情で言った。
「でも、どうやら一舐めする程度なら大丈夫みたいですよ」
彼に勧められて私も人差し指を少し紅茶につけてから舐めてみた。
「ペロッ……これは凄惨なお味!」
私は目から鱗が落ちる思いだった。
私はそもそもお料理を作る機会があまり多くは無かったけれど、思い返してみれば設定とは言え必ず仕上げに美味しくなるよう魔法を掛けていたのである。
「つまり、この魔法さえ使わなければ私は……」
「お料理が出来るってことになりますね」
そう言って太陽さんは屈託なく笑った。
私も、嬉しいやら、戸惑うやらで困ったように笑った。
「こんなに簡単なことで……私の呪いが無効にできてしまうだなんて……」
自分自身の手を見つめる私に、太陽さんは言った。
「呪いだって、いつかは解けますよ、きっと」
「ええ……ええ……そうですわね、きっと」
彼の微笑みを見ていると、自然と希望を持てるような気がしてくる。
いつかは、私の本当の呪いも解ける日が来るのだろうか。
そう考えた時、何の根拠がある訳でもないけれど、その時私の隣にいる人は、この人なのではないだろうか、そんなことを思っていた。