あなたが立ち上がるまで
不思議な目をした青年だと思った。
私に向けられたその視線は憐憫とも、侮蔑とも、困惑でもなく、嘲笑ってもいない。
それがただ、「心配」という当たり前の気持ちからくることに気付けずにいたためか、彼は私の反応より先に次の言葉を発した。
「Are you okey? I’m really worried about you」
彼が言語を切り替えたのは私の髪の色を見てのことだろう。私を見て通り過ぎた人々も、今まさに私に傘を差し出している彼も、誰もが黒い髪をしていた。
先程逃げて行った男性陣がどんな特徴であったかまではもう思い出すことも出来ないが、私の金髪がこの国の住民の特徴と異なっていることだけは容易に理解できた。
「日本語で大丈夫ですわ」
私は応えながら疑問に思った。なぜ、私達の言語は日本語と呼ばれているのだろうかと。
「あ、そうでしたか。失礼しました」
彼はそう言って微かに微笑みかけてくれた。
「もしよろしければ救急車をお呼びしましょうか? それとも何処か暖まれる場所か、コインランドリーくらいならご案内しますけれど。……あと、お腹が空いてたりは?」
彼は無理に私の手を引き立てようとはしなかった。
「救急車……? コイン、ランドリー……?」
「えっと……このような場所で倒れていらっしゃるから心配で……怪我とかは?」
どうやら彼の目には私が行き倒れていたように見えたらしい。
そして思い返せば、通り過ぎて行った人達の目には、寝ていたように見えたのだろう。事実、なす術無く死を待つばかりと寝ていたのだから。
だから私は顔を背けこう答えた。
「いいえ。倒れていたのではありません、寝ていたのですわ」
手を差し伸べてくれた方に対し随分と冷たく傲岸に言ったものだと思う。
恐らく既に諦めの中にいた私は、暗に立ち去ることを慫慂していたのだ。
「ええっ!? それは一体どうして? ……失礼ですが、ここは貴女が寝るような所ではありませんよ?」
それでも彼はなお心配そうな顔を向けてきた。
自暴自棄の私は自分勝手にも、それを偽善と決め付け、更に腹を立てて言い返した。
「いいえ。ここより私に相応しい場所などありませんわ? 私はゴミですもの」
なんと粗忽な振る舞いであったことだろう。
路上にあるゴミ捨て場では、降りしきる雨水と混ざり合ってより不快な臭いを放つゴミ袋が私のクッションとなっていた。
まさに私はゴミ同然だ。
ゴミ捨て場には、人々の不要な物や捨てたい物、追放したいものがいつしか集積していく。そこには人々の欲望や執着、無関心が表れ、人々の側面を映し出す鏡にも思える。
「そんなこと言わないで……何かあったんですか?」
私もその鏡の一部であったのなら、彼はどうして私に声を掛けたのだろうか。
彼の表情を見ていると、何故か私も私であの辛い出来事を思い出しそうになった。
「そうですわね、色々と……もう自分でも何があったかも解らないくらいに」
思い出したくもなかった。
「そうですか……」
彼はそれ以上言葉を発さなかった。いや、私の見る目が正しければ、彼も彼でそれ以上こんな態度の私に対してなす術を持たなかったのだ。
どう見ても女性のエスコートに長けた男性には見えなかった。
だが、おかしなことに彼は、自分が雨に濡れていると言うのに私に傘を差し出したまま、何を言うこともなく、ずっとその場に留まっていたのである。
私は不思議に思って彼に尋ねた。
「あの。雨に濡れてしまいますわ?」
「そうですね」
「いつまでそうしているんですの?」
「あなたが立ち上がるまで」
その言葉を聞いた時、私は続く言葉を全て失った。
いや、それで良かったのだ。
今の私に必要だったものは優しい言葉でも、何でもなかったのだから。
その何でもない何かを、彼はずっと私に向けてくれていた。
初めて人の優しさに触れた気がした。
気付けば、私は泣いていた。
思い出したくない嫌なことも、自分自身を見失ってしまったことも、彼の優しさを受けて心が震えてしまったことも、全て合わせて堰を切ったかのように私の心から溢れ出て、泣くことしかできなかった。
どれくらい泣いていただろうか。
もう彼も私も、傘など何の意味も為さないほど、びしょ濡れになっていた。
それでも彼は、私に傘を差し出してくれていた。
泣いて、吐き出して、一度全部気持ちから何も無くなって。
そうしてようやく生まれてきた私の新たな感情。
それは、彼のためにも私は立ち上がらねばならない。そんな思いだった。
何故なら、私が立たねば彼はずっと私に傘を差していたであろうから。
私のような者のために、彼の時間を奪ってしまうことが憚られたのである。
だけどそれも今更。既にどれ程の時間を無駄にさせていたかも解らず、かけるべき言葉も見当たらず、私はただ無言でようやくその身体を奮い立たせた。
彼は、その傘を普段自分が差すだろう高さよりも高く掲げた。
私より、背が低い方だったのだ。
「もう、良いんですか?」
私の顔を見上げて彼は言った。
「ええ。いつまでも貴方様にご迷惑をお掛けする訳にはまいりませんもの」
私は、少し心が軽くなっていたのを感じていた。
「そうですか……でしたら、僕はこれで。良ければこの傘を使ってください」
「それでは貴方様が……いえ申し訳ありません。既に私のせいでずぶ濡れでしたわね」
「気にしないでください。家、近いので」
「そうでしたか、それならば良かった」
「貴女は、一人で帰れますか?」
「……」
それに対して、どう答えるべきか私には解らなかった。
答えを持ち合わせていなかった訳ではない。
それを正直に話すことで、彼に再び迷惑を掛けてしまうと思ったからだ。
「……何かご事情がおありなんですね?」
「……はい」
私は已む無く答えた。
「もし、よろしければ……僕の家に寄って行きませんか? 母の服もありますから、着替えることくらいはできるかと思いますが」
私は躊躇った。男性を信用してついて行くことに対してではない。彼に迷惑を掛けることに対してだ。
彼に対しては、不思議と猜疑心を持ち合わせていなかった。
「このままでは、二人とも風邪をひいてしまいます」
「……そうですね」
けれども何も持たない私にはその申し出を断ることは出来なかった。
私が小さく頷くのを待って、彼は屈託の無い笑顔を私に向けたと思いきや、すぐに踵を返して私に背を向けた。
「では行きましょうか、案内します」
そう言って彼は一人で歩き出した。
私をエスコートするでもなく、手を引くでもなく、自分の傘を私に押し付けて、ただ一人で歩き出したのだ。
それがこの国の常識的な態度であったのかどうかは私には解らない。
ただ、そんな彼を、私は少し変わった、いや、不思議な方だと思った。
私は思わず少し口元を緩め、彼の後を追って歩き出した。
「あの、ありがとうございます。貴方はとてもお優しい方なのですね」
「僕ですか? とんでもない、ただのモブですよ」
「モブさんと仰るのですか、素敵なお名前ですわね」
「え? いや、名前なら違いますけど……」
「あら? それは大変失礼いたしました」
彼は歩きながら、礼儀も作法も無く顔だけ少し私の方へ向け、名乗った。
「僕の名前は小泉太陽。名前のとおり、チビでデブなモブですよ」
彼がそれを自虐的に発したことくらいは解っていた。
もしかしたら私に対して気後れを感じていたのかも知れない。
だから予め、自らが傷付かないための予防線を張ったのだ。
確かに彼は私の目から見ても冴えない格好をしていた。
私がこの国に来る前、私の周りにいた者達と比較しても、先程私から逃げていった男性陣と比較しても、いや、ただ私の目の前を通過して行っただけの人々と比べても、はっきりと言ってしまえば愚鈍な容姿をしていた。
もしかしたら、この国に来る前の私であったなら、無意識にでも避けていたタイプの男性だったかも知れない。
だけれど私はそんな彼を全く不快に思わなかったばかりか、むしろ好ましいとさえ思っていた。
例え彼が自分を卑下しても、私にとっては間違いなく雨雲を裂いて現れた太陽であったのだから。
「あの、貴女のお名前は……?」
「あっ! も、申し訳ありません」
気付けば、私は自らの名前を名乗ることさえ忘れて、彼の背中を追っていた。
私は雨に濡れて重くなったスカートを少し摘み、一礼をした。
「私の名は、アルテイシア・ローズ・ミラーレイク。フローラ王国ミラーレイク公爵家の長女で……フローラ王国第一王子マクスウェル殿下の元婚約者ですわ」
そんな私に向けられた彼の視線は、初めて困惑の色を見せていた。
お読みいただきありがとうございます。
今作は地文を少し多めにして書いてみようかと思っています。
よろしくお願いいたします。