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雪の道へと  作者: 雨慮
6/12

雪の道へと6

 


 雪を被った谷戸の村。段々になった畑を横切り坂道を下ると、ずっと見えていた大きな屋敷の前に辿り着く。

 門扉の閂に錠前は無く、鉄格子の隙間から手をこじ入れ外す。キィーと音を立てて門扉が浅く積もった雪を押しのけ、出来た隙間から屋敷の庭へ踏み入った。

 

 館の玄関にも鍵は掛かっていない。重い扉を開けて入ると暖かい空気の流れを感じ、館の中に呼び掛ける。

「誰か、居ますか?」

 ティセの声は玄関広間から中央の階段で分かれた左右の廊下へ消える。

「どっちに呼び掛ければいいの。」

 何度か呼び掛けたが返事は無く、手袋を脱いで温い空気を感じた左の廊下へ進む。

開きっぱなしの扉から暖かい空気が漏れてくる。中を覗くと広い部屋に豪奢な調度品が置かれ、レース越しに差した光が陰影を現し、暖炉の前の重厚な椅子からは白い頭髪が垣間見えた。

「あの、こんにちは。」

 声に気付いてないのか白髪は動かない。半歩ずつ近付き、もう一度声を掛ける。

「こんにちは。」

「あら、どなた?」

 その白髪のお婆さんは座ったまま細い声を返した。ティセは一瞬躊躇い、緊張した声で続ける。

「あの、わたし旅をしてて。」

「女の子ね? こちらへ来て、顔を見せて頂ける?」

 ティセはお婆さんの傍まで行く。膝掛の上に毛糸玉と編針。顔には紅を差し、髪も綺麗に整えられている。

「手を…」

 お婆さんが掌を上に向けている。ティセは右手を差し出し、細かな皴の刻まれた細い指に触れる。冷たい、冷たい手。

「もう片方も見せて頂戴。」

 リュックを下ろし、絨毯の上に膝を折って左手も差し出す。

「寒くないですか?」

 暖炉の火は消えかけている。

「ええ、外は寒かったでしょう。火を大きくしましょう。」

「わたしがやる。」

 立ち上がろうと体を捩るお婆さんを制して暖炉の前に行く。バケツに入った石炭をスコップで掬い入れるも、熱を持った赤は見えなくなった。

「火が消えた。」

「机に火打ち石があるの。」

 老婆が椅子の脇の小さな机を見る。その上には毛糸玉や編まれた小物があり、その中に捩れた形状の火打金があった。

「これ?」

「そう。それと紅い石を。わたくしに任せて。こんなになってもやれますから。」

 ティセは火打金と紅い玉髄の道具を渡す。

「わたを持って。熱いから編み物に乗せていいわ。」

 編み物に紛れたわたを取り上げ、お婆さんの手の下で構えると一度の打付けでわたに火が点く。

「ゆっくり息を吹いて。気を付けて。」

 ティセは言われた通りに火種に息を吹き掛けながらふらふらと暖炉に近付く。顔の前で大きくなった火種を暖炉の石炭の上に置くと、既に石炭は赤く燃え始めていた。

「点いて…点いたわ。」

「よかったわ。」

 お婆さんは顔を綻ばせた。



 外套を脱ぎ絨毯の上に座る。お婆さんは毛糸を編んでいる。

「お嬢さん、椅子を持って来なさいな。」

 部屋の真中にはお婆さんが座っている物と同じ椅子が机の周りに三脚ある。ティセはその椅子の角を軸にして歩かせるようにして運び、脇机を挟んでお婆さんの隣に座った。

 お婆さんはずっと膝の上で編針を動かしている。ティセは靴を脱ぎ、脇机から編針を手にして短く切れた毛糸を編む。

「毛糸、使っても良いですか?」

 集中しているのか返事は無かったが、彼女はこちらを見て微笑む。

「お腹、空いているでしょう。家にある物なんでもどうぞ。」

「いや…」

「台所は家の反対側。御馳走を作ってちょうだい。」

 お婆さんはそれ以上何も言わずに手を動かしていた。



 カチンと壁に付いたつまみを動かしたが照明は点かない。寒く薄明るい調理場は思いの外広く、石窯や幾つもの焜炉の口があり、中央には大きな調理台が置かれていた。

「何もかも大袈裟ね。玄関の扉は重いし、暖炉も少し屈めば入っていけそうな程。」

 少し探すと籠に入った野菜や小麦粉、僅かに燻製の肉も出てきて調理台に並べる。

「でも食べ物は二日分ね。」

 寒さに身震いする。

「ごちそうって何? おじいさんは決まった物しか作れなかったし、ハルラの家で出てきた物なんて作れないわ。」

 石窯が暗い口を開けている。

「母親の料理なんて、覚えてないから。」

 石窯に背を向ける。

「まず、火が要るわ。」

 調理場を出る。


 調理場で見つけた片手鍋に燃える石炭を入れ調理場に戻る途中、用も無い階段の前で立ち止まる。暗い踊り場を見つめ、廊下の壁に掛かる燭台一つにつき一本、長いままの蝋燭に火を灯していく。

 途中でその灯に照らされた扉を開けた。扉の向こうは食堂の様で長い机の上に枝分かれした燭台や銀の給水器が置かれ、お婆さんの居る部屋と同じに半端に開いたカーテンの隙間から真っ白なレースが覗く。ティセは厚手のカーテンをきっちりと閉じた。



 部屋に赤い暖炉の火だけが見えている。

ティセは料理を乗せた盆を持ち暖炉の側へ行く。

「良い匂いだねぇ。」

 盆を自分の椅子に乗せ、脇机の上を片付ける。一つの蝋燭で暖炉の火を取り、食堂から持って来た燭台の先に火を灯し、料理と共に机に置いた。

「ここでは食べ辛くなあい?」

「平気。」

「美味しそう。見ているだけで幸せになるわ。」

 机の上には決して見目の良くない料理が高価な食器に盛られている。

「野菜と豆を煮た物と、こっちは小麦粉の生地で包んで茹でたの。」

「そちらの小鉢は?」

「これは…失敗しただけ。」

「そう。冷めないうちにお食べ。」

 ティセは料理に手を付ける。

「食べないの?」

 暫くしてティセが聞くと、お婆さんは笑みを浮かべ糸を編み始めた。



 食後に暖炉の灯りで二人並んで毛糸を編む。

段が終わって一息吐く。料理は半分近く残っている。

 お婆さんが言う、出来上がったら貰ってと。

 少女は分かったと返す。

 お婆さんが言う、ありがとう、と。

少女はその言葉ただ聞いていた。



 空気の冷たさに目を覚ます。暖炉の石炭は燃え尽き、蝋燭は溶け切っている。

残っていた料理は冷め、膝から落ちた毛糸の乱れた編み目が夜の眠りを覚えている。

 椅子から滑り下りて、座面に凭れて伸びをする。お婆さんに目を向けると膝の上で編んだ物から編針が外れていた。

「出来たの?」

 ティセは立ち上がりお婆さんの傍らに立つ。

毛糸は手袋の形になり、それを編んでいた手は仕事を終えて動くことは無い。

「ねぇ。」

 小さな肩を軽く揺する。その手で薄くなった白髪を梳く。

しんとした部屋の空気が頬をなぞり、少女は部屋の外へ駆け出した。廊下に靴音が響き、重い玄関扉を押し開ける。雪に足跡を付け半開きの門をすり抜け、走る。

遠く、見えなくなるまで。



 屋敷に戻ったティセは時折冷めた料理を食べながら毛糸を編む。老婆の顔には布が被せてあり、暖炉では空になったマッチの箱が燃えている。


「交換。」

 毛糸を編み上げたティセはお婆さんの編んだ手袋を手に取り、自分の編んだ襟巻とも膝掛とも言えない代物を老婆の肩に掛ける。

「これ、貰っていくわ。」

 リュックに手袋と火打ちの道具を入れて背負い、部屋を見渡す。窓の側まで行くとカーテンを思い切り開けた。レース越しの白い光が溢れて、お婆さんの元へ戻る。

「きっと、こういう時…。ありがとう。」

 最後に椅子の後ろから顔は視ずに両手で丁寧に布を取った。



 玄関広間でシャンデリアを見上げ、外に出る。

門の周りの雪を足で除け、瞼を閉じる。柔らかい雪が降りて来て、門を閉じた。




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