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雪の道へと  作者: 雨慮
4/12

雪の道へと4



 渓谷の広い河原を上流へ進む。

 空が灰色の雲に覆われ河原の丸い石と同化する。川の渡れそうな場所を探して歩いていると、リュックの中で鍋に入った野菜がゴロゴロと転がっている。

 

 目の前を何かが横切った。右から左へ、左から右へ。天から垂れる糸がその先に魚を付けて振り子の様に揺られている。

「もっと驚いてくれるかと思ったけど上手くいかないね。」

 大きな岩の上から声を掛けられ、振り子を挟んでその人影と目が合った。

「こんにちは。ちょうど魚が掛かってね。つい出来心だったよ。」

 そう言って黒髪の釣り人は笑みを浮かべる。そこに右から左へ、揺られる魚が過ぎ去る前にティセは飛び付き糸を掴んだ。

「おや。その魚をどうするつもりだい。」

「…煮る。んっ!」

 魚が跳ねて顔に水が散る。

「煮られるのは嫌みたいだ。焼いて食べようかな。」

 竿先が持ち上がりティセは糸から手を離す。

「僕はミッハ。君も釣ってみるかい。」



「もう引き上げようか。」

 岩の上から釣り糸を垂らして小一時間、当たりは無い。

「天気も崩れそうだし、ここまでにしよう。」

 ティセは座って水面を見つめている。

「君も強情だね。よし、僕の釣った魚を御馳走しよう。客が来るのは久し振りなんだ、歓迎させてくれ。」

 背中を丸めたまま、ミッハの方を見る。

「いいかい? …分かった。魚は煮よう。」

 ミッハは先に岩から下りてティセに手を貸す。風が吹き、雪雑じりの冷たい雨が顔に当たる。

「降ってきたね。」

 雨が暗く染める河原を二人で走った。



 ミッハの家は木造の平屋で、山際に柱を立てその上に建っていた。

「あまり濡れなくてよかった。」

 ミッハが囲炉裏に炭を足して火箸でかき混ぜる。

「さあて、もてなすと言っても何も無いな。座って待っていてくれ。」

 囲炉裏の傍に腰を下ろすと奥から包丁を持ってミッハが出てきた。

「魚を捌いて来るから、これでも焼いていてくれ。」

 ミッハはティセに餅を投げ渡し出ていった。囲炉裏の灰に硬い餅を埋めていると、ミッハが戻って来て捌いた魚に串を通す。

「やっぱり焼こう。」

 ミッハの言葉にティセは鍋を取り出して中身を見せる。

「なるほど、どういう訳だか準備は出来ていると。…奥に水甕がある。」

 ティセは鍋を持ち斜面側である家の奥へ向かう。ジメジメとした台所で鍋に水を入れて戻ると囲炉裏に魚を刺した串が立っていた。ティセは炭の上に直接鍋を置く。 

「分かった、分かった。五徳を出そうか。」

 ミッハはお手上といった様子で両手を広げた。


「ほら、焼けたよ。」

 ミッハが放って寄越した餅を服の袖で受け取る。

「こんな何も無い所にようこそおいで下さいました。魚と餅で喜んで頂けるかな?」

 ティセ、袖の上で餅を転がしている。

「それがたっぷりの野菜に化けるとはね。切らしていたからありがたいよ。」

「漁師、やっているの?」

「漁師ではないし漁師でも魚ばかり食べてはいないだろうさ。」

「川って渡れる?」

「歩いては無理だね。」

「そ。」

「なんて、僕はここで渡し舟をしているんだ。乗るかい?」

「舟に?」

「そうさ。」

「沈まない、なら。」

「ふっ。いいよ、明日送ってあげよう。久方振りの仕事だ。」

「一人でやっているの?」

「いや、親父達が居たよ。今は…来る筈の奴が中々来なくてね、僕一人で残ったんだ。もうちょっと、てね。」

 ミッハは目を細め、煮え立つ鍋の蓋を開ける。泡が下がり、立ち昇る湯気の中にティセは彼女を見る。

「何かい?」

「魚が、煮えた。」

「そうだね。それでは骨はいかがしましょうか、お客さん。」



「君を送ったら僕も観念してここを離れるかな。」

「ふぉう。」

 餅を食べながら相槌を打つ。

「最後に風呂を沸かそう。後で水を汲むのを手伝ってくれ。」

「ふん。」と頷く

「君は話し相手としては不足だな。」

 特に答えずスープをよそう。

「旅をしているんだろう? 北方には狼の悪霊が出る森が在るらしい。」

 ミッハが声の調子を落として語りだす。

「月明かりの森に巨大な狼の影が痩せた狼の群れを従えて現れるらしい。痩せた狼は直接人を襲わないが、恐れて逃げている内に影の元へ誘き出されて、人の影を食べてしまう。影を無くした人は誰からも視えない人になり、寂しさに駆られると自ら狼の群れに会いに行き食べられてしまうんだそうな。」

「へー。」

 ミッハは首を少し傾げて再び語りだす。

「シヴァスに近い北の寒い町では若い女性が毎年一人、決まって失踪する。そして三年に一人、町外れの廃墟の外で生きて見つかるのだと。見つかった女性は健康だが、失踪していた間の記憶は無かった。しかし失踪した他の女性の顔と名前を知っている事が分かると事件が大きくなり町は混乱…したらしい。その後手掛かりは無いが事件は今でも続いていて旅行者が失踪したこともある。君も狙われるかも、しれないよ。」

「骨があった。」

「…そりゃ全部は取れないさ。さぁ、水を汲みに行こう。」



 外に出ると霙は止んで、散り散りになった雲の隙間から夕焼けが滲んでいる。

「この川は穏やかに見えるが溺れる人は多い。暗い水底に何かが潜んでいるからだ。」

 川に向かいながらミッハはまだ語り続けている。

「浅瀬でも走ってはいけない、川の中に何か見えても追いかけてはいけない。そいつに見つかると水の中に引き摺り込まれてしまうからだ!」

 ミッハの脅かす声に立ち止まる。

「怖くなったかい。」

「うん。戻る。」

「少しは怖がって言いなよ。一人だと日が暮れてしまう。」



 家の張り出した屋根の下に塀で囲まれた風呂場があった。ティセは洗い場から一段下がった土間で風呂釜の乗る窯の火を木筒で吹いている。

「もっと熱くしてくれ。」

 止せばいいのにミッハは水が熱くなる前から風呂に浸かって声を震わせている。

「熱いのが好きなんだ。薪を足して、風を送れ。こいつみたいに。」

 彼女はいつの間にか持っていた笛を鳴らす。

「シュピー、ボコ、ピピュ、げほっごほっ。」

 止せばいいのに水の入った笛を鳴らして咽ている。煙突から出る煙が増え、屋根と塀の隙間から外に逃げていく。

「いい湯になってきた。ここらで一曲。」

 今度は穏やかな笛の音だった。



 家の中からいつまでも笛が鳴っている。ティセはランタンを持って風呂場から家の中に入る。

「やぁ、出たかい。火は消したね?」

「うん。」

「髪を拭いてあげよう。その間吹いてもいいよ。」

 ミッハはティセの座った後ろに回り、肩越しに笛を渡す。

「癖毛だね。妹ができたみたいだ。」

 髪を拭かれながら笛を鳴らすと割れた音が出る。

「手作りの笛だから音を出すのにコツが要るんだ。」

 ティセは割れた音のまま調子を付ける。

「苦しそうな音だ。だけど偶には、乾いた川に雪解けの水が流れ込むような荒っぽい音も良いかもしれない。」


 髪を拭き終えるとミッハは板に弦を張った琴の様な楽器を出してきた。

「これなら音が出るだろう。」

「どう弾くの?」

「さぁ? 僕も弾けないからね。指で弾いたり道具を使ったり、もうお釈迦にしても構わないよ。」

 ティセは指やスプーンで弦を弾いてみる。

「いいね。そのまま適当にやってな。勝手に合わせるから。」

 ティセは一度ミッハを見て、目を伏せると両手を板に乗せた。弦を弾き、旋律を付けてみる。

「なんのイメージだい?」

「…星。」

「お星様か、印象と違うな。」

「遥か遠くで、燃える星。散漫な星の川。」

「なるほど? よし。」

 音が重なる、旋律から外れる。いつしか囲炉裏の火も音に溶け、夜に蠢く黒い川の流れの様に混ぜこぜになっていった。




 川辺に朝霧が降りている。先を歩くミッハはどんどん早足になり距離が離れる。

「舟の準備をするから、君はゆっくり来なよ。」

 細い影が霧に隠れた。


 霧に浮かぶ小舟に彼女が立って遠くを見ている。ティセに気付くと彼女は桟橋に置いてあった鞄と蓋をした箱を舟に積み込んだ。

「霧が薄くなったら出よう。すぐに晴れるさ。」

 彼女の言う通りに河畔の視界が晴れてくる。

「今日は冷える。上流まで行くけど大丈夫かい。」

 ティセは答える代わりにリュックから耳当ての付いた毛皮の帽子を出して被る。

「いいね。耳が隠れて頭に代りの耳が付いているなんて。猫かい?犬かい?」

「知らない。」

 ティセは素っ気無く答えて耳に触れようとする手を躱して船に乗り込む。舫いが解かれ、舟は水棹を使い、岸を離れた。



 ミッハが立って櫂を漕ぎ、舟は川を上る。

「川面ばかり見てないで笛でも吹いてくれ。」

 ミッハが腰布に差してある笛を放って寄越す。

「昨夜の君の調子が耳に付いてしまった。今日は大人しく吹いてくれよ。」

 笛の穴を適当に押さえ、少しずつ息を吹き込む。泡の浮かぶ川面、怪しげな川底の暗流。笛を上手く吹けず音が割れる。舟が軋み船縁で波が弾ける。

「どうして君は…」

 後ろでミッハが何か呟く。船体が左右に大きく揺れ始め笛も吹けない。ついには木箱が滑り転がり、ティセは舟にしがみつく。

「君だけ―」

 目の端に舟を揺らすミッハが映る。振り落とされそうになる、投げ出されそうになる。笛を握る手が川に浸かる。

「私は!」

 苦しそうな声だった。ティセは笛を咥えて息を吹き込む。笛に入った水と空気が混ざり、割れた高音が押し出される。

「…ぉ!」

 最後の言葉は聞き取れず、舟を転がる木箱がティセにぶつかり笛を落とした。



 舟はまだ波に揺れている。ミッハは据わった目で遠くを眺め、何かを呟いている。ティセが起き上がるといつの間にか霧が晴れていた。

「ごめん。」

 ミッハは顔に掛かった水を拭い、震える声でどこかに謝る。それは彼女が舟を漕ぎ始めてからも続いた。



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