パラドックスな世界
「君は禿げではない」
一人の教授が言った。彼の向かい側にはいくらか癖のある黒髪の男が平然と立っている。
「そのとおり」と男は言った。
どちらかというと教授のほうが髪は少ない。彼の白髪のラインは徐々に後退を始めていた。
背恰好は二人とも同じようなものだ。教授は黒のスーツをピッチリと着こなし、中年の男はネクタイのない白いワイシャツと、鼠色のズボンをはいていた。
「君のその豊かな髪から一本だけ毛髪を抜き取ったところで、君は禿げにはならない」
「いかにも」
男の腹は、世間の大半の中年男性に対するイメージと同じように膨らんでいた。反対に教授の体躯は細く、頬もいくらかこけてている。
「ならば君の頭から一本だけ抜き取らせてもらおう」
教授は男に歩み寄ると縮れた髪を親指と人差し指でつまみ一息に引きぬいた。
教授のやり方がうまかったせいか、男は痛みを感じなかった。
「そしてまた、君の頭から髪を一本取り去ったところで君は禿げにはならない」
「もちろん」男は自信をもって答えた。
「それでは――」
教授は男の頭上で鋭く右手を一閃した。
「――君の髪を一本ずつ取り続けたところで、君は永遠に禿げにはならない」
男の髪は儚くも空を舞い、はらはらと桜の花ようにゆっくりと落ちて行った。男の足元はまるで床屋の床のような有様だ。
いつの間にかきれいさっぱりと髪のなくなってしまった滑らかな頭部をなでながら、
「私は……禿げではない」と男はつぶやいた。
「まったくもってその通り。君は禿げていない」教授がうなずきながら言った。
どこからか届く光が、男の禿げた頭で反射した。
「少し歩こうか」と教授はかすれた声で提案した。
男は髪のない頭を触りながらうなずくと、歩き始めた。
「ちょっと待ってくれ」後ろから声がかかる。
足を止めて振り向くと、教授が男の前に進み出た。そして、五十メートルほど先を指さす。
「向こうにホワイトボードが見えるかい?」
教授の視線の先には、白い背景と同化していてわかりづらいが、たしかにホワイトボードが置いてあった。
他には何もない。二人とボードが存在しているだけだ。
真っ白な地面を教授が足で指し示す。
「あそこをゴールとして、二人で競走をしよう。ただ、私のほうが年寄りだから少しだけハンデをもらいたい」
「いいですよ」
「ここにしよう」
教授は男から大股で五歩離れると、止まった。
「それだけでいいのですか?」男が訊く。
老人である教授が、たったこれだけのハンデで勝てるとは思えなかった。
「これでいい。馬鹿にしてもらっては困るからな。それに一つ宣言しよう、眠らないウサギは必ず勝てる」
教授は微笑みを浮かべた。
「では始めようか、よーいドン」
掛け声とともに男が走りだした。前を行く教授はなんと歩いている。だがしかし、差はどんどん詰まっていくもののいつまでたっても追いつくことができない。
教授が歩みを止めずに振り向いた。
「どうしたのかね。私は歩いているんだから」
男はさらに走る速度を上げた。スーツ姿は目前なのに、どうしても追い抜くことができない。
そうこうしている間に、ホワイトボードのもとに着いてしまった。ほぼ同着だったが、ほんのわずかに教授のほうが速かった。
「いったいどんな手品を使ったのですか」男が息を荒くしながら訊いた。
「なにも」
「だったらどうして」
「君が勝てなかったのか、かね。それは簡単、私のほうがゴールに近かったからだよ」
教授はマジックを取り出すとホワイトボードに図をかいた。
二つの点を並べているだけの簡潔なものだった。
「君が、私が最初にいた場所へ着く頃には、私はいくらか進んでいる。そして次に君が、私のもといた場所に着いた時、私はほんの少し進んでいる。それを永遠に繰り返してごらんなさい。君は私に追いつけないまま、私はゴールしている」
教授は二つの点を少しずつ動かしていく。
ゴールに遠いほう――つまり男が追いついたかと思うと、教授をかたどった点はすでにそこにはいなかった。
「さて――君は神を信じるかね?」教授は唐突に尋ねた。
「はい」男は首を縦に振った。
「私は信じていない。それに創造主が世界を作ったとも思っていない。君は神がいることを証明できるかね?」
しばらく考え込んだ後、男は口を開いた。
「いいえ」
「私は神がいないことを証明できる」と教授は言う。「もし神がいるとすれば、彼は全知全能だね?」
「そうです」
「全知全能ならば、すべてのことを説明できる。そうだね?」
「ええ」
「ということは、彼は全知全能の神なんていないことを証明できるわけだ。もし証明できないのなら、彼は全知全能ではない。つまり神ではない」
「…………」
男は返す言葉がなかった。
「それからもうひとつ」と教授は言った。
「君が産まれてから、君の細胞が死んでは新しい細胞が作られている。君が赤ん坊のころにあった細胞はすべて死んで、新しいものに入れ替わった。言うなれば、君は君自身でなくなっているわけだ」
いつの間にか、男の姿は跡形もなく消えていた。
「それでもなお、君は君自身の存在を信じるかね?」
読んでくださりありがとうございました。
パラドックス、説明不足かもしれませんが、もし興味を持ってくれたなら、調べてみると面白いと思います。