悪運の代償
「ハァッ、ハァッ、ハァッ」
息も絶え絶えに、ラグナは走り続ける。
走り逃げ回るのはいつものこと、盗みをやる上でそれだけは欠かせない。
だから、足の速さと体力には自信がある。
だが、
「なんで、なんでだ……!」
いくら走っても、背後から迫る一角の魔獣を引きはがせない。それどころか、徐々に距離が狭まっているいるような気さえする。
それもそのはず、ここはアルマイアとは違って足場が不安定な森の中。いつものパフォーマンスを発揮することができないのは当然のことだ。
そのため、この森の中を動き回ることに関しては一角の魔獣に軍配が上がる。
「このままじゃ……」
このまま走っているだけでは、いつか必ず追いつかれる。だから、何か行動を起こさなければ。
「一瞬でもいい、あいつの動きを止める方法があれば……」
逃げ切ることができるかはわからない。でも、一瞬、ほんの一瞬だけでも一角の魔獣の動きを止めることができれば、距離を離すことくらいはできるはずだ。
目下の課題は、どうすれば一角の魔獣の動きを止められるのか。
手元にあるものは壊れている魔道具と、袋に入っていた貨幣が少々、あとは羽織っているボロ布、以上だ。
あたりを見回してみても、あるものは木や草のみ。一角の魔獣の足を止められるようなものは見つからない。
「――キエエエエ!」
「な!?」
ラグナが走りながら思考を巡らせる中、耳を劈くような鳴き声とともに現れたのは一つの影だ。
見上げればそこにいたのは一角の魔獣とは別の、鳥型の魔獣。
人の体よりも大きな翼と、どんな獲物もたやすく切り裂くことができるであろう鋭い鉤爪を持っている。
そして、唐突に現れたそれはラグナに絶望する隙も与えず、鉤爪での振り下ろし攻撃を行う。
「っ!!」
モロに食らえば即死確定の一撃。それを頭で理解する前に直感で察したラグナは、限界を超えた超人的な反応を見せる。
とっさに横へと飛び、空中で体を捻ることで間一髪の回避に成功したのだ。
「う、おぁっ!?」
しかし、その攻撃の余波により大きく吹き飛ばされ、結果的にはダメージを負ってしまう。
「痛っつ……」
体を何度も地面に叩きつけられ、全身擦り傷だらけ。死なずに済んだとはいえ、痛みに動きを阻害される可能性があるため、まだ動き続けなければならない体に傷を負ってしまったのは大きな痛手だ。
もっとも、それもこの場を切り抜けられればの話だが。
「――――」
砂煙の中、二つの怪しい光とラグナは目が合った。
自身の体のサイズを大きく上回る影に見下ろされ、恐怖で体は動かない。
「動け……動けよぉ!」
叫び、恐怖に対し反抗的な意思を見せるが、体は正直だ。ちゃんと感覚はあるのに、倒れた体を、足を、動かすことができない。
そうこうしている間に、鳥型の魔獣はラグナの方へと近づいてくる。
「や、やめろ! 来るな!」
ゆっくりと近づく鳥型の魔獣に、ラグナは叫ぶことしかできない。
それを意にも返さず、ラグナを足元にする距離まで接近すると、鳥型の魔獣は大口を開けラグナに狙いを定めた。
「ぁ」
迫る大口を視界に入れながら、ラグナは自身の死を悟る。時間の感覚が次第にスローになり、脳内に流れるのは走馬灯だ。
記憶の中に幸せを感じた時間はほとんどない。あるのは母と過ごした短い時間だけ。それも、ほとんど掠れてしまっている。
だから、走馬灯に流れるのは他者に虐げられ孤独に過ごした五年間のクソみたいな記憶だった。
――俺は一体、何のために生まれてきたんだ……。
ラグナは自身の運命と世界を恨み――しかし、その時は訪れなかった。
「――――ッッ!?」
「……あぇ?」
声にならない叫び声が聞こえたのと同時、ラグナの頭に赤い液体がぶちまけられる。それが魔獣の血液であることを理解したのは、強い鉄の臭いが鼻の奥を刺激した瞬間だった。
「一体、何が……?」
突然血を吐き出し、苦痛に顔を歪めながら横転する鳥型の魔獣。見れば、腹の横には大きな穴が開いている。
それをやったのは、
「お前は……」
鳥型の魔獣が睨んだ先、視線をたどるとそこにいたのは一角の魔獣だ。
角は血で赤く染まり、それが鳥型の魔獣に穴を開けた犯人であることを物語っている。
「……まさか、助けてくれたのか?」
一瞬、そんな甘い考えが脳裏をよぎるが、違う。
「ッ!?」
――殺気。
一角の魔獣から放たれる、身を切り裂くような強い殺気が、ラグナにその考えは誤りであると分からせる。
お前は俺の獲物だと、そう言っているような。
「キエッ!!」
その殺気を払いのけ、鳥型の魔獣が一角の魔獣へと反撃を行う。
どういう仕組みか、翼を広げるとそこから数多の羽が射出された。その一つ一つは強力で、地面に突き刺さった時の衝撃が少し離れたラグナにも伝わるほど。
一角の魔獣はそれを軽々と躱し、木を足場にして鳥型の魔獣へと迫り――
「――――」
目の前で繰り広げられる魔獣同士の戦い。置いてけぼりのラグナはあっけにとられる。
数瞬した後、「あ」と声を漏らし、見ている場合ではないと気付いた。
「今のうちに……」
起き上がり、体が動くことを確認し、魔獣に背を向けて走り出す。
目的地なんてない。ただ、生き残りたい一心でラグナは足を動かし続けた。
▼△▼△▼△
――いったい、どれくらい走った? あとどれくらい走らなきゃいけない? 俺はこの先、どうすればいい?
走り、疲れ切った体。碌に回っていない頭の中は、答えの出ない疑問に埋め尽くされる。
「――ぁ、れ」
ふいに力が抜けて、ラグナは膝から崩れ落ちる。
体は燃えるように熱く、全身から汗が吹き出し、視界はぼやける。もう、限界だ。
「ここ、は……?」
体を休ませ、ぼやけた視界が少しずつ正常に戻ると、今いる場所の風景の異常性に気が付いた。
森の中であることに違いないが、木も草も生えていない広間のような場所。中央には大きな岩が鎮座しており、奇妙なことに広間の周りには根っこから丸々引っこ抜かれたような木がいくつも横たわっている。
「……縄張り」
聞いたことがある。魔獣は他に見える形で自身の縄張りに痕跡を残すと。
この掘り起こされたような地形がそうなら、ここにいるのは非常に危険だ。
「ここから、離れねぇと……」
休みたい体に鞭を打って、力の限りに立ち上がる。足はプルプルと震え、一歩でも動こうとすれば倒れてしまいそうだ。
「――!?」
瞬間、敏感になった鼓膜が微かな音を拾う。ガサガサと茂みの中を通るような音だ。それも、少しずつこちらに近づいてきている。
まさか、ここを縄張りとしている魔獣が帰ってきたのではと、嫌な予感を覚え、首だけを動かして振り向くと、
「なんで、まだいんだよ……」
全身を赤に染めた一角の魔獣。ラグナにとって絶望を具現化したような存在が、そこにはいた。
血に塗れているが、傷はない。おそらくはあの鳥型の魔獣を倒してきたのだろう。
「……もう、好きにしろよ」
途端、ラグナの胸中を諦めが支配する。
魔獣の恐ろしいほどの執着心と、体力が限界に達している事実から、ラグナが諦めの選択をとることはもはや必然と言えた。
もう、恐怖に震える力すらも残っていない。もう、楽になりたい。
「――ぅ、ぁ」
生を諦めた瞬間、気力だけで動かしていた体がプツリと糸が切れたかのように崩れ落ちた。
受け身も取れず、正面から倒れたことで顔面を強く打ち付ける。
死を受け入れたラグナはその痛みに無関心。鼻から溢れ出す血液も、死ぬことに比べれば些細なことだ。
次に人間に生まれ変わった時は黒髪ではありませんように、なんて思いながら、
――ドスッ
直後、ラグナの頭上を風が通り過ぎ、硬いものがぶつかったような鈍い音が響き渡る。
唯一動かせる頭を動かし視線を上げると、そこには角が岩に突き刺さった一角の魔獣の姿があった。
「なに、やってんだお前……」
幸か不幸か、ラグナはその場に倒れることで一角の魔獣の突進を回避したらしい。
一角の魔獣はどうやら角が抜けなくなったようで、短い脚をバタバタと必死に動かす姿は滑稽そのものだ。
「は、はは……」
一角の魔獣の間抜けな姿と自身の悪運の強さに思わず笑いがこみ上げる。
諦めるしかないあの状況、まさか生き残ることができるなんて欠片も思っていなかった。
「俺は、まだ……」
生きてこの森から出られる可能性が生まれたことで、死んだ魚のようなラグナの目に光が宿る。
しかし、その希望も束の間。
「……今度は、なんだ」
その異変は足元、もといラグナの体の下、地中から生まれた。
「グオオオオ!!」
大地震とも言える揺れを起こし、咆哮とともに地中から飛び出したのは岩の塊のような魔獣だ。
あまりにも巨きなその体躯は、小さな山のよう。魔獣よりも『怪物』と言った方が適切だ。
広間の中央にあった大きな岩は、どうやらこの怪物の体の一部だったらしい。
そこに一角の魔獣の角が突き刺さったことでこの怪物を目覚めさせてしまった。
「は、はは、ははは……」
希望から再び絶望へと落とされたことで、ラグナの感情は滅茶苦茶だ。笑う以外の選択肢が見つからない。
運よくここに隕石が落ちてきて、運よく自分だけその衝撃に巻き込まれないような奇跡でも起きない限り、この場をどうにかすることなど不可能。
これが悪運の代償だと言うのなら、神は相当な悪趣味だ。
「ガァ!」
岩の怪物は足元に横たわるラグナの姿を見つけると、それを眠りを妨げた元凶であると認識し、巨大な前足で地面ごと薙ぎ払う。
満身創痍のラグナにそれを回避する手段などあるはずがない。体中に衝撃が走り、ラグナの体は宙に投げ出された。
「が――」
ぐるぐる、ぐるぐると回り続ける世界。
三半規管は使い物にならず、もう、どちらが上か下かもわからない。
――今度こそ、死んだな。
そんな他人事のような感想を頭の中に思い浮かべ、重力に引っ張られる感覚を全身で味わいながら、ラグナの意識は深い闇の底へと沈んでいった。