第五話「出」
重要なことを一つお伝えします。
この回でようやく主人公とヒロインが登場します。今までのは前振りです。前振りに二万文字も使う小説なんて聞いたことありません。
床に眠るのはあまり勧められた行為ではない。衛生的に良くないし、身体はいたくなる。寝返りも打ちにくい。例えば布団を敷いていたとかならばまあわかる。しかし、ここは何年も使われていたのかどうかすら怪しいコンクリート打ちっぱなしのかなり雑な部屋だ。ここにきて最初の仕事が掃除だったのが懐かしいほどには汚い。
縦五・五メートル、幅三メートル、天井高二メートル。地下五階層に渡って広がる基地の、最奥部のさらに最奥部に位置する、大した大きさではないくせに無駄に最重要機密扱いされるのが通称隔離房、正式名称『特殊生物一時保管庫』である。相当危険性の高い生き物を収容するのに使用するものらしく、作ったはいいが一切使われていないらしい。照明はただ一つ、天井から吊り下げられた古びた白熱電球だけだ。
しかし、現在は使われている。先ほど……四月七日午前十時五十七分、完全武装の警備員に両脇を抱えられた状態で、一人の少女がここにやってきた。どういう経緯だか知らないが、恐らく誘拐に近い形でここに連れてこられ、そのまま人体実験にでも使われたのだろう。身体と検査着のあちこちに血が付いており、表情が死んでいる。ここの被検体の標準服であるノースリーブワンピース型の検査着のまま、雑に独房に放り込まれた。髪は黒色で、長い。腰まである。全く手入れされている様子はなく、かなりボサボサだ。美容に関する知識が全くない俺でさえ、これを正常に戻すには相当な努力が必要であることは容易に想像できる。身長は低く、腕や検査着の隙間から見える肋骨からして体重は相当軽そうだ。栄養失調なのだろうか。肌は乾燥している様子で、青白い。低栄養状態だと免疫力が低下するので、こんな汚いところに来るにはあまり適した体型ではない。
ここの独房は、人の形をしたものがある一定期間暮らすことを想定していないらしく、かなり狭い。俺がいるのは看守役としてのワークスペースで、こっちも幅三メートル奥行三・五メートルの狭さだ。だが向こうの幅は二メートル、奥行きは以前測ったら、なんと驚きの一・三メートルだった。少なくとも寝具としての役割が果たせる程度の薄い布が二枚奥行いっぱいに敷かれているのと、あといったいどこの公衆トイレから引っ張ってきたのかわからない正気を疑う古めかしさの和式便座が置かれているだけである。マジで人間入れる予定がなかったんだな。そりゃ二十年間一切使われなかったわけだ。
さて、その少女は今、床に敷かれていた掛布団らしきぼろぼろの布を被った状態で、独房の隅に体操座りで縮こまっている。俺の方を心配げに見るでもなく、自らの置かれた状況に悲嘆して涙を流すわけでもなく、焦点の合わない視点を床に向けてボーッとしていた。全体的に力がない。ただでさえ暗い、劣化した二十年物の白熱電球がさらに光度を落としたようだ。いい加減交換時だろうか。そもそも白熱電球の在庫なんてあるのだろうか。知る限り、白熱電球の在庫よりもニキシー管(ダイバージェンスメーターの数字のやつ)の在庫の方が多い。何に使ってんだか。
しばらく俺は黙って彼女のことを観察した。三十分程度、黙って事務作業をしているふりをしながらちらちらと少女の方を見ていた。驚いた、一切無気力で、何もしない。部屋の隅に縮こまって焦点の合わない視点を床に向けてばかりいる。指をピクリとでも動かすことはなく、呼吸するたびに身体が動く程度だ。少なくとも生きているという各章に近いものを得られただけ相当マシだ。正直さっきまで生きているかどうかすら訝しかったので、生きているという確証を得られたのは大きい。
三十分観察して分かったことが一つある。それは、こちらからアクションをしないとまったく交流が生まれないということだ。お互い無言で、何もしゃべらない。これではまるで二人してコミュ障のネッ友が初めてオフ会であったときみたいじゃないか。
ここで選択肢は二つ。俺の方から積極的にかかわりに行くか、または一切関わらず、向こうが動くのを待つか。前者を選んだ場合、どういった結末が待ち受けるのかは一切予測できない不確定要素の多いルートになる。後者を選んだ場合の結果は分り切っている。お互い一切喋らず、何のかかわりも持たないままどちらかの命が尽きるだろう。確実な結果が得られる代わりにロクな結果にならない。
以上のことから、俺はかかわりに行く方を選んだ。驚かせないようにゆっくりと立ち上がり、彼女に近づく。彼女は俺が立ち上がって立てた唯一の音である椅子の動く音に反応してこちらを見る。正面から彼女の目を見ることになった。そこには何もなかった。目に浮かぶ感情の類は一切見受けられず、まるで凄まじく深い井戸を覗き込んでいるような感覚に陥る。彼女はこちらを直視すると直後、目をそらした。細い腕で強く膝を抱えている。不確定要素が強いとは思っていたが、思ったよりも強いようだ。明らかに臨んだような結末を迎えられそうにない。だがとりあえずアタックだけはしておこう。
俺が鉄格子に触れられるほど近くまでやってくるころには、彼女は自らを極限まで俺から離そうと壁に身体を押し付けていた。もしかしたら壁に埋まるかもしれない。隔離房だという割には安易な鉄格子の錠前を開け、鉄格子の扉も開ける。
「大丈夫か?」
俺は声をかけた。その瞬間、彼女はか細く
「ヒッ」
と声を上げ、膝を抱えていた手で今度は頭を抱え込む。なにかよほど恐ろしいものに出会ったかのような対応だ。そんなに俺の表情が怖いのだろうか、この少女に接触することを俺がそんなに無意識に恐れているのだろうか。俺は優しく微笑みかけながら、さらに近づこうとする。手を伸ばして少女に触れようとした。指が布に触るかどうかという距離まで行ったところで、彼女は豹変した。それこそ、豹に変わったかのような変貌ぶりだった。彼女は俺の伸ばしていた手を左手で掴むと、そのまますさまじい勢いで立ち上がり、反対の右手を俺の首に伸ばしつつ俺を地面に倒した。
「いっ」
思わずいたっと言いかけたが、言い切る前に少女の手が俺の首にかかる。凄まじい力だ。天井から裸で吊るされていた白熱電球のガラスが割れる。そのやせ細った腕のどこからそんな力が湧いてくるのかと思うほどの力で、俺の首の骨が軋む音がする。マズい、このままだと首へし折られる。少女の方を見ると、恐ろしい表情をしている。栄養失調によって顔の骨も結構浮き出てきており、カッ開かれたどす黒い目も含めてまるで凶暴な……なんの生き物だ、これ。怖すぎるぞ。
…………まずい、本気で殺される。俺は両腕で少女が首を絞めている右腕をつかむと、それを引きはがす。なかなかの力だ、ベンチプレス六十キロを二十回連続で上げた記録がある俺の腕ですらかなりしんどい。そのまま反対に俺が馬乗りになる形に少女を倒す。少女は異常なほど暴れ、俺を必死に攻撃しようとしてくる。両手を何とか抑えたが、足の方が暴れに暴れている。いったいどうしたのだろうか、先ほどまでただのか弱い少女だったというのに、急に鬼みたいに……そうか、これ鬼だ。やせ細ったいかにもよわよわしい少女が突然怒り狂った鬼のようになってしまったのだ。本気で何が起きてるんだ。
俺は何とか少女を鎮静化した。急に正気に戻ったらしい少女は、はっと息を呑むとすぐに顔に汗が滲み、ただでさえ青い顔がさらに青白くなる。体が震えだした。あ、マズイ、これと思って慌てて運ぼうとした次の瞬間、彼女は嘔吐した。黄色味を帯びた刺激臭のする液体が彼女の口から吐き出される。胃液しか出てこないあたり腹の中には何も入っていない様子だ。彼女が一通り吐いたところで、俺は彼女を抱えて俺のベッドの上に寝かせる。こちらのベッドも簡素さで言えばなかなかのものだが、あちらのものよりは確実にフカフカで寝心地はいいはずだ。比較対象が比較対象なのでフカフカと言ってもまあ硬いのだけど。
俺は大急ぎで部屋から出るとすぐ隣に置かれている自販機に二百円を放り込んだはいいが、何を買うべきか迷う。胃腸炎だったら確かスポーツドリンクはマズかったはず、脱水ならば逆にスポーツドリンクか、可能なら経口補水液を与えたほうが良かったはずだ。彼女の嘔吐の原因がなんであるかさっぱりわからない以上、いったい何を与えるべきかわからない。
散々迷った挙句、経口補水液を購入した。散々迷ったと言っても迷っていたのはせいぜい〇・五秒程度である。ガタンと音を立てて落ちてきた経口補水液をつかみ、部屋に戻る。お釣りはあとでもいいだろう。少女はベッドに横たわったまま動いていない。相変わらず全くの無気力らしい。俺はこれまでの彼女のことをさっぱり知らないので何とも言えないが、いったい彼女はこれまでどうやって生きてきたのだろうか。
「ほら、飲め」
俺が彼女に経口補水液を勧めると、彼女はそれを素直に受け取って飲んでいた。
「飲み過ぎるなよ、ある程度にしておけ」
そう話しかけるも、頷くこともなければ何か声を出すこともしないので、理解したのかどうか全く理解できない。とりあえず一口二口飲んで一旦それで口を外したので、理解したと思って俺は一旦部屋から出る。前に続く廊下の、こちらから見て右側にある部屋に入り、そこから必要なものを得る。十五年前の新聞が三日分、ビニール袋複数枚、使い捨ての手袋、マスク、雑巾、消毒液を用意する。ノロなら間違いなくウイルスたっぷり入り吐しゃ物なのである程度の防護はしなくてはいけない。そもそも、吐しゃ物は素手で処理するものではない。
部屋に戻ると、少女はペットボトルを持ったまま宙をぼーっと見ていた。いったい何を考えているのかわからないし、あまり知ろうとは思わない。俺は手袋とマスクである程度の防護を固め、新聞で吐しゃ物を回収して回収したものを二重構造にしたビニール袋に入れ、口をきつく縛る。これで吐しゃ物の回収までは完了した。続いて、元々吐しゃ物があったところに雑巾を敷いて消毒液を撒く。一旦廃棄物になるビニール袋を外に出し、追加で雑巾を持ってくる。消毒液を撒いた部分を拭いて、それで一応処理は完了する。
さて……なんで、昼飯前にこんなことやったんだろうな。時刻的に、もうすでに昼飯がやってくる頃合なのだが……
とりあえず、処理できるだけ処理したので、それはそれで良しとしよう。少女はちまちま蛍光法膵液を口に含み、言われた通り少しずつ飲みながらまだベットの上でボケーっとしている。一時的に無気力って呼んでやろうか、あの子。さすがにやらないけど。そんなことを思っているうち、時刻は十二時を回った。昼飯を取りに行かないといけない。取りに行くと言っても、俺はこの二年だったかそれくらい、この隔離房のあたりから出ることを許されていない。この隔離房のところから出ると廊下があり、左右に部屋が一部屋ずつある。出てすぐ右には水分には困らないようにと自販機が設置されている。俺が行けるのはこの範囲までだ。食事は毎食ドア越しに渡される。外部との接触を極力断つためか、Wi-Fiは飛んでこないし携帯はずっと圏外だ。唯一内線とLANが通っているくらいだ。看守まで隔離されてるじゃねえか。いったい俺が何をすることを警戒しているのか知らないが、これではさすがに困るので隠されていた電話回線を用いて無理やりダイヤルアップ接続で外部とやり取りできるようにした。
さて、愚痴は置いといて。廊下に出てみると、扉の前に昼飯らしきものが置いてあるのが見える。どうやら二人分らしい。一応、向こうも彼女のことは人間扱いしているらしい。驚いた、捕まえてきた元人間のモルモットには野草のスープと三日間そこらへんで放置されたパンを与えてると噂の連中が、それなりにしっかりした食事を用意するとは、あの少女一体何をやらかしたんだ。
俺は二人分乗った盆を持って部屋に戻る。今日のメニューは白米、シチュー、サラダ、ハンバーグのようだ。量は少ないが、とりあえず温かいし、味もまずまずだから文句は言わない。恐らく比較的量が多いほうが俺の分、比較的量が少ないほうが少女の分だろう。少女の体形を見て「まあ大して食わんやろ」と思ったのか、あるいは……やっぱ人間扱いしてないのかな。人間扱いしてたらあんな牢屋にぶち込まんもんな。さて部屋に戻ってみると、まだ少女は宙をぼーっと見ていた。意識が地球にあるかどうかも怪しい。
「おい、意識あるか」
俺はそう話しかけた。少女はゆっくりと俺の方を見て、その手に持った盆の上に載る昼食を見るとベッドを降りてきた。そして盆の上に載った料理を覗き込むと、ペットボトルを俺のデスクの上に置いた。この少女、表情も全く見えないから感情がさっぱり読めない。この昼食を見て果たして嬉しく思っているのか、はたまた何も思っていないのか、一切理解ができない。無表情でもなんとなく雰囲気とか目で分かることもあるのだが、この少女の場合いずれも使えない。常に真っ黒いオーラみたいなのを纏ってる雰囲気で感情らしい感情が見当たらない、
「ハンバーグ……」
少女がかすれた声で呟く。喋ったぁぁぁぁぁぁ!え、あ、発声器官息してたの?マジで?すげえ、喋るとは思ってなかった。思わずCM打ち切りになるほど驚いてしまった。ただ表には出さないぞ、これ以上この少女を怯えさせたくない。
俺は一旦デスクの上に盆を置いて、部屋の片隅に放置されているちゃぶ台のような四本脚の机を持ってくると、それを床の上に広げる。じかに座るのもどうかと思うので、一枚しかない座布団を少女側に置く。ただでさえ狭い部屋がさらに狭くなったが、この際仕方がない。盆から少女の分の昼食を取り、ちゃぶ台の上に置く。附属してきた割り箸を割って隣に置く。
「食べていいぞ」
俺がそう言うと、少女は座布団の上に雑に座って箸を取り、小声で
「いただきます」
と言ってから食べ始めた。食べないかと思っていたので意外だった。出会って直後、相手の首を速攻で締めに行って直後に吐いた少女とは思えない。今なら多少の会話はできるかもしれない。
「名前、なんていうの?何歳?」
俺は彼女にそう問いかけた。彼女は半分くらい口に入れたハンバーグひとかけらを飲み込むと、かすれた声で答えた。
「涼風 未黒。十二歳」