大事なもの
小さい頃から、あの子だけを見ていた。
周りから、厄介者扱いされていたアタシにただ一人、優しくしてくれた男の子。
雨宮 日向君。
幼稚園の頃、アタシは親の再婚で引っ越し、転園した。
人の口に戸は立てられないとは、よく言ったもので、どこから広がったのか、親が離婚していることはすぐに幼稚園に知れ渡った。幼い頃には意味なんて理解していないだろうけれど、離婚、離婚と聞いたばかりの言葉を使いたい年頃だ。アタシは新しい居場所で散々からかわれることなった。
親が離婚してる!コイツと結婚すると離婚するぞ!
ってね。
それはもう、うるさいほど言われたっけ……。
誰も好き好んでそんなこと言うヤツと結婚なんてしない。
家では再婚したてでお互いしか見えていない両親に、あまり構ってもらえない日々が続いた。今思えば、ふたりの時間を邪魔する私は単純に厄介者だったのだろう。最低限のことはしてくれたし、今は生活費を貰ってるから、今のアタシに親への不満はないけれど、幼い頃は別だ。
幼いながらに、この世界に自分の味方なんていないって、そう思った。
まぁそれでグレて今みたいなアタシになったわけだけど、そんな幼いアタシにも希望の光が差し込んだ。
日向君だった。彼はきっと覚えていない出来事。
「ぼくのおべんとう、いっしょに食べよ!」
その日、アタシのお弁当はいつもからかってくる男子たちに、こぼされてしまった。どうやらそこまではする気はなかったようで、こぼれたお弁当を黙って見ているアタシに何も言わず、男子たちは慌てたように走って逃げていった。その後でこぼれた食べ物を拾い集めるが、さすがに食べれそうになかった。
よっぽど困った顔をしていたのか、それとも日向君が優しさに溢れていたのか、棒立ちになっていたアタシに声をかけてくれたのだ。あの時のことは今でも鮮明に覚えている。
気を遣っていることを隠そうと無理に明るく笑う日向君の表情。
日向君がわけてくれたお弁当のおかず。
ごはんにかかっていたふりかけ。
全部覚えている。
あの時、アタシは無表情だったけど、自分にも優しくしてくれる人がいるんだって、心底嬉しくて嬉しくて、涙を我慢するのに必死だった。これで泣いたらせっかくの日向君の好意を無駄にしてしまうと幼いながらに考えたのだ。泣いたらこの子に悪いからと。
そうしてお弁当を無言で食べ終えた時、日向君が言ったのだ……
「あのね、かなしいときは泣いてもいいんだよ。それが自然?なんだって、ぼくもおしえてもらったんだ。そうすると楽になるって、ガマンしなくていいんだって!」
今まで、どんなにからかわれて、どんなに嫌で、どんなに寂しくても我慢していたアタシに、その言葉は魔法のように心の中に入ってきた。
だから泣いた。
思いっきり泣いた。
日向君は最初ビックリしていたけど、そっと手を握ってくれた。泣き声を聞きつけて大人たちがやってくるまで、アタシと日向君はふたりでそうしていた。あの時の手のぬくもりが癒しをくれて、思いっきり泣いたことで、それまでふさぎ込んでいた気持ちがスッキリ晴れたような気がした。
あの時からだ。
雨宮 日向という存在が、アタシにとっての全てになった。
自分には味方はいないと思っていた幼いアタシに差し伸べられた優しさ、あの頃のアタシにはそれだけで充分で、その他は目に入らなくなった。幼稚園に行くのが嫌じゃなくなったし、むしろ唯一日向君に会える場所だから張り切って行くようになった。幼いアタシにはまだ、急に話しかける勇気はなかったけど、少しでも近くにいようとしたし、いつでも日向君を見つめていた。それが、自分にとって一番大事なものだから。
だけど、いや、だから気付いた。
日向君にとっての全てが、自分じゃないことに……。
日向君はいつもある女の子と一緒に行動していた。
一ノ瀬涼香。彼女は日向君の幼馴染だった。ふたりは生まれた頃から一緒で、家が隣同士で、家族ぐるみの付き合いをしていて、アタシにはない繋がりを彼女は持っていた。彼女と一緒にいる日向君は生き生きとしていて、嬉しそうだった。
アタシにとっての全てが日向君であるように、きっと彼女が日向君にとっての全てなんだと、理解するのに時間はかからなかった。
最初から、大事なものは手に入らないと突き付けられたのだ。
だけど、理解するのと納得するのとは別だ。
なんで? なんで彼女が? なんでアタシじゃないの? 幼い自分にはそうそう納得できることではなかった。
本当は彼女の立ち位置に自分が居たい。けれど、日向君は別の人を望んでいる。それなら……。
アタシは、日向君の隣が空くのを待つことにした。無理やり引き離すのは日向君をアタシが傷つけることになってしまう。それは自分でも望まない展開だ。
日向君はアタシにとっての光だ。今は触れることのできない存在。けれど、いつかきっと、その時は来る。
大事なのは、タイミングを逃さないこと。
それからは直接、日向君には近づかないようにして、彼を観察していた。話をしたのも、幼稚園のときだけで、それ以降ない。だから日向君はたぶん覚えていないと思う。幼い頃の事だから無理もない。まったく関わらなかったから、同じ幼稚園だったことも、もしかしたら覚えていないかもしれない。
でも、アタシは忘れない。
そうして、遠すぎず近すぎず距離を保ってアタシは日向君を見つめていた。小学校、中学校、高校受験も日向君の志望校を調べて、もちろん同じ学校を受けた。
そうこうして日向君を見つめて過ごすうちに、高校生になる頃には、日向君のことなら大抵は知ることができた。
家の場所、日向君の部屋の窓、好きな食べ物、よく買い物に行く場所、細かい癖や好み。
いつでも動き出す準備はできていた。
そうして、焦らず待っていたアタシに、その時は巡ってきた。