王都再び その1
2019/10/29 追記
扉絵を掲載しました(作:香音様)
夜闇を切り裂く馬のいななき。吹き付ける風。
馬の背にへばりつくように視線を下げると、前足に蹴とばされた小石が顔のすぐ近くで弾けた。
たまらずに頭をあげようと首を動かした瞬間、今度は背中側から「頭を上げないで! 死にますよ!」という叫び声にエルシアは殴りつけられた。
一体自分にどうしろと言うのか。悪態の一つも出そうになるのも仕方ない。
直後、エルシアの顔のすぐ脇を魔法の光が飛んでいった。腹の中で渦巻いていた文句は一瞬で消え失せ、馬を追い抜く形で前方へ抜けていった光を目で追う余裕もなく、彼女は更に身を縮ませる。
エルシアは馬を挟み込む両足に力を込めた。いくら後ろの黒ローブが支えてくれていると言っても、これだけ揺れていてはいつ落馬してもおかしくない。落ちたら最後、襲撃者の餌食だ。
元々乗馬などほとんどしたことがない。それこそ昔、ガルドスのいたずらに付き合された時以来かもしれない。あの時も酷い目にあった。
「け、剣を返して」
「なりません、騒ぐと舌を噛みますよ。森を抜けたらすぐに援軍と合流します。それまで我慢を!」
せめて護身用に武器の一つくらいと、黒ローブにかけた声は一蹴された。襲撃者に射抜かれないよう頭を下げたまま振り返れば、更に後ろ、馬の背にくくり付けられた荷物の中から、自分のショートソードの鞘が覗いているのが見えた。
「また来ます! 掴まって!」
男の声とともに数条の魔法と矢が殺到する。その直前で強引に手綱を引かれた馬は、全力疾走のまま、無理やり体勢を変えた。
慣れない体がバランスを崩す。エルシアの体が大きく傾けば、”影法師”のがっしりとした手に引き戻される。
エルシアが痛みに呻く声も何のその。姿勢を戻したことを確認した後、黒ローブの男が肩から外した手をそのまま後ろにかざした。
ローブの下のポーチに忍ばせた小瓶の一つが輝き、男の手に魔法陣が展開される。
撃発。
発射の衝撃でガツンと馬が揺れる。光の槍が一瞬で伸び、あやまたず襲撃者の馬を直撃した。
苦悶のいななきが後方から聞こえ、すぐ隣を走っていた別の馬を巻き込んで転倒する。落馬した襲撃者の悲鳴と怒号は、真っ暗な闇の中に消えていった。
ほっと息を吐いたのもつかの間、また黒ローブが馬の方向を変えた。必死にしがみつくエルシアを嘲笑うかのように、別の方向から矢が降り注ぐ。
なんて差だろう、とエルシアは歪んだ笑みを浮かべた。
王都に向かうにしても、町娘として暮らしていた時の方がずっとマシだったとは。普通は逆ではないのか。何かの皮肉みたいだった。
これが、エルシア・アリアスティーネ・エスト・カーライルの現実。
別に敬えなどと言うつもりはこれっぽっちもない。だが剣を取り上げられ、初めての乗馬に軋む身体を叱咤して、夜の森を疾走する今の状況はあまりに酷い。ブランカに背を向けてまだ二日と経っていない。これを宿命と言う言葉だけで片付けられる程、エルシアも人間としてできてはいなかった。
「このまま森を抜けます! 掴まって!」
後ろの黒ローブのことを考える。
以前聞いた”ラッド”と言う名も、どうせ偽名に違いない。思えば既に蚤の市の時期から、もしかしたらもっと前から監視はついていたのだろう。旅装で変装した彼の顔には見覚えがあった。
あの時はまだ、エルシアは町娘で居られた頃だ。当時はケトの監視だったはずだ。
面と向かって聞いても、彼は本名を教えてくれなかった。名も知らぬ相手を信用できるはずもないのに。結局エルシアは彼の言う通り、必死にしがみつくことしかできないのだ。
彼の僚騎は足止めのため後に残った。そのお陰でエルシア達への攻撃が先程まで途絶えていたのだ。攻撃が再開したということは、彼の同僚の安否も分かった者ではない。
エルシアは首を振った。とにかく考えるのは後回しだ。
今はとにかく生き延びなければ。幸い、援軍がいるという森の端はもうすぐだ。
木々の切れ目で馬が跳び、胃が宙返りする感覚を味わう。こればっかりは幾度経験しても慣れることはないと、エルシアがぐっと腹に力を入れたその瞬間だった。
ひときわ大きな衝撃が彼女を襲った。
馬の悲鳴、回る視点。空と地面が逆になった視界の先に、先程まで乗っていた馬が宙を舞うのが見えた。しなやかな左足に突き刺さる矢。飛び散る赤黒い液体は、断じて汗なんかじゃない。
やられた。
妙にゆっくりと進む視界の中、一拍遅れて状況を理解したエルシアは、思わず目を閉じ、歯を食いしばる。体を縮ませて受け身を取る以外、もはやできることがなかった。
「がッ!」
背中からしたたかに打ち付けられる。肺が強く押しこまれ、エルシアの口からうめき声が飛び出た。一度体が跳ねるほどの衝撃に受け身など意味もなく、為すすべなくゴロゴロと草の上を転がり、やがて止まった。
衝撃でぼんやりした頭。肩が痛いが、何かおかしい。
致命傷も免れないと思ったのに。痛いは痛いが、覚悟していたほどの痛みが来ない。代わりに酷く息苦しくて、地面に倒れ伏したまま喘ぐしかない。
エルシアは恐る恐る目を開く。
背の高い草の生い茂る草原のただ中、エルシアの目の前で何かがもがいていた。
苦しみながら、必死になって立ち上がろうとするたびに、後ろ脚から血が噴き出た。倒れるたびに、悲鳴のようないななきが漏れ出る。
「げほっ、げほっ……。うう……」
咳き込みながらも、エルシアは何とか上体を起こした。立ち上がることすらできない馬の代わりに、せめて立ち上がれる自分が傍にいてやらなくては。思考のまとまらない頭で這うように考えた。
「けほっ……。……やばっ!」
ふらつく頭を振り、痛みに呻きながらようやく思考が回転し始める。何が起きた、状況は? エルシアは慌てて後ろを振り返る。
雑草の間に黒ローブが倒れていて、そこでようやく理解する。彼が下敷きになって、エルシアを庇ってくれたのだ。それこそ肩の痛みや息苦しさ程度で済んだことに感謝しなくてはいけない。エルシアがこうして立てていること自体、奇跡のようなものだ。
よろめきながら慌てて男の傍に向かい、ひざまずく。
泥にまみれて荒い息を漏らす黒ローブを仰向けにしようと肩に手を掛ける。瞬間、男が痛みに呻いた。
「っ! ご、ごめんなさい」
「……殿下」
「どこが痛むの? 荷物の中に薬あるんでしょう? すぐに持ってきて……」
「エルシア様」
ラッドがエルシアの手を掴んだ。怪我人とは思えない程強い力で、エルシアは驚いた。
「できる限り時間を稼ぎます。ここからお逃げください……」
「何を言ってるの、そんなこと……っ!」
男がもがく。地面に血がこぼれたのが見えて、そこで初めて男が決して浅くない傷を負っていることを知った。
背後から沢山の蹄鉄の音が響く。最早こちらに逃げる手段がないことを知っているのだろう。少し離れた場所から襲撃者が馬から降りる音が聞こえた。
背筋に悪寒が走る。まずい、追いつかれた。
息が荒い。
左肩の鈍痛を無視して、エルシアは”影法師”の腰元に手を伸ばした。ロングソードを抜き放ち、襲撃者たちに向き直る。
自分が非力だということはよく知っている。冒険者時代、そもそもロングソードもレイピアも振るうには重すぎて、わざわざショートソードに持ち替えたくらいなのだ。
案の定、構えた剣はズシリと重い。目の前の男達に敵う訳がないと、エルシア自身が一番よく分かっているのだ。
襲撃者は七人。いずれも革鎧を着た、どこにでもいそうな冒険者の格好だ。特徴的なのは全員が覆面をしていることくらいか。口元に布を巻き、ほとんど顔は窺えない。
だがもちろん、彼らが冒険者などではないことも分かり切っている。正体を隠し、エルシアを狙う敵。そんなもの、思い当たるものはいくらでもある。
男たちの中に見覚えのある目が混ざっていることに、エルシアは気付いた。
エルシアは自分に言い聞かせる。
落ち着け。相手の正体は分かっている。目的だって推測は簡単だ。
今の自分にできるのは、どうにかして時間を稼ぐこと。先程ラッドから、援軍が来ると聞いたではないか。森を抜ければ、という言葉も覚えている。そう時間はかからないと信じるしかない。
不安には目をつむってエルシアは口を開く。少しでも威厳を感じさせられるように、ただの小娘だと侮られないように。裏返りそうになる声を必死に鎮めて、ぐっと胸を張った。
「貴方、ディクトリとか言ったわね」
「……」
「私を殺しに来たの? 母の時のように」
「……」
答えない暗殺者にエルシアは鼻で笑ってみせる。精一杯の虚勢。バクバク鳴っている心臓も見ないフリだ。
ディクトリが一歩こちらに踏み出すのを見て、エルシアは更に言葉を張り上げた。
「つまらない男ね。龍神聖教会は喋り方すら教えてくれないの? それとも私が間違っていたから、答えてくれないのかしら」
「……」
落馬の衝撃が残っているのか、それとも焦りか。自分の揶揄も今一つ振るわない。ディクトリは顔色一つ変えなかった。淡々と、着実に距離を詰めてくる。
「私を連れ去りに来たなら、そう言えばいいのに……」
呟く声は決して大きくはない。ディクトリは全く表情を変えなかったが、周囲の襲撃者が数名、ピクリと眉を動かすのが見てとれた。
これ見よがしに、うんうんと頷いて見せる。
「確かに私は国の忌み子。立場だけ見れば、龍神聖教会の旗頭に据えたいという気持ちもよく分かる。王家から排斥された娘なんてそういるものじゃない。貴方たちの大義名分にも合致することを考えれば、十分に価値があるはずだもの」
「理解しているなら大人しくすることだ。暴れなければこちらも手荒な真似をするつもりはない」
ようやく、ディクトリからくぐもった声が帰って来た。下がりたい気持ちをぐっと押さえ、エルシアは仁王立ちしてやった。
「でもね、残念ながらその望みは叶わぬと知りなさい。私は貴方たちが大嫌いなの。貴方たちの良いように使われるくらいなら、こうした方がまだマシと言うものよ」
言うなり、エルシアは剣を振り上げた。予想以上に重い剣先にふらつきながらも、視線を敵から離さない。
所詮は小娘の腕、向かってきたところで問題にはなるまい。そう侮ったであろう襲撃者たちが、次の瞬間一斉にギョッとするのが分かった。
「さあ、どうする?」
自らの首元に剣を突き付け、エルシアは暗く笑った。
寸前で止めるつもりが、手元がふらついたせいで少し切ってしまったようだ。自分では見えなくても、血が首元を一筋流れ落ちるのが分かった。
後ろにいた男たちの表情が変わる。目を見開く者、ピクリと肩を震わせる者。口元を隠していたって、感情は消せない。ディクトリだけが平然とした顔で佇んでいたが、他の人間がこちらの思惑通りの反応をしてしまったことに気付いたのだろう。足を止めると、少し顔をしかめた。
「……その程度の悪あがきでどうこう出来る訳でもあるまいに」
「そうかしら、少なくとも貴方たちの思惑に一泡吹かせることはできる」
「別に貴様が勝手に首を切ろうと構わない。生きたまま捕らえろと言うのは、あくまで可能であればの場合だ。最悪、王家の手元に届かなければそれでいい」
エルシアの言葉にも微動だにせず、ディクトリは答えた。
まずい、とエルシアは思った。脅しがはったりだと分かっているのかもしれない、それとも本当に自分が死んでも構わないと考えているのか。
「……私をどうするつもり?」
「どうせ予想はついているのだろう。説明してやる必要はない」
「自分の生き死にくらい、きちんと判断した上で決めたい。それくらい融通利かせてくれても良いんじゃない?」
少しだけ焦った素振りを見せてやる。なるべく自然な動作を心がけて、首元からロングソードをほんの少し離してやった。
自分の中に迷いがあると思わせなくては。交渉の余地があるのだと思わせる必要があるのだ。これで相手が揺らがなければ本格的に後がない。
「貴様は総本山に連れていく。そこから先は俺の知ったことではない」
「総本山……、ベルエールだっけ。また、私を軟禁でもするつもり?」
「……王家の罪を我々に擦り付けるのはやめてもらいたいな。いい加減早く決めろ」
「そう焦らないでよ。こちらは生きるか死ぬかの瀬戸際なのよ? その上つい昨日の朝まで、ただの田舎者だったんだから、流石に酷だと思わない?」
エルシアの背中を冷たい汗が伝った。
ベルエールとは龍神聖教会の本拠地だ。色々ときな臭い噂を聞く、海に面した南の都市。
王都で聞いた、南への騎士団駐留。これは間違いなくベルエールへの牽制であると、エルシアは確信している。言うなれば、この国でもっともエルシアがいてはいけない場所だ。
援軍はまだか。いい加減虚勢を張るのも限界だ。
今から先日のブランカ襲撃の非難でもしてみるか? いや、ケトにはできる限り注意を向けたくない。ディクトリが苛立つ気配を感じとり、それを言葉にされる前にエルシアは続けた。
「結局、国と教会のくだらない諍いは続いている訳ね。なるほど、旗頭として私以上の人選はない、か」
「いつまで喋っているつもりだ」
ディクトリの目は揺らがなかった。
端から何も期待していない、感情の死んだ目。第二王女の生死など、きっと本当にどうでも良いと思っているのだろう。その目を見て、エルシアの口から飾らない本音が一言だけ漏れた。
「……憐れな奴」
「何か言ったか?」
「いいえ何でも。……そうね」
革のブーツ越しに足首を軽くつつかれる。草に紛れて見えなくとも、すぐ後ろの黒ローブの意図は察することができた。ゆっくりとため息を吐いてから、エルシアは暗殺者をまっすぐに見据えた。
「決めたわ」
「ほう」
「私、まだ死にたくない。どんなに見苦しくとも、どんなに意地汚くとも、生きて、生きて、まだやらなくちゃいけないことがあるんだから!」
ゆっくりと、剣を首筋から遠ざける。相手に分からぬよう、柄を握る手に力を込める。
そう。
せめてケトの身を守り抜くまで。それまでエルシアは死ねない。
王都に行けば、王女の権力を使って後見につくなり、護衛をつけるなり、きっとまだできることはあるはずなのだ。
ディクトリがピクリと眉をひそめた。こちらの雰囲気が変わったのを察したのかもしれない。だが、もう遅い。
「おいッ!」
「それまでは、絶対に、死なないっ!」
剣を一気に引き戻す。重さにたたらを踏みながら、両手で思い切りぶん投げた。くるくる回転しながら敵に向かって飛ぶ剣の軌跡を目で追う余裕もなく、その場で身を伏せる。
直後、もがきながらも何とか身を起こした黒ローブが、手持ちの魔導瓶全てを起動させた。
その手には三重の魔法陣。目も眩ませるほどの光が輝き、宙に何本もの光の矢が浮かび上がる。一拍置いて、身を伏せたエルシアの頭上を飛び越えて、それら全てを敵に向かって叩き込んだ。
馬が悲鳴をあげ、光の何本かが、男たちへと突き刺さる。
驚くべきことに、ディクトリは自らに向かって飛ぶそれを、全てを剣で叩き落とした。流石に眩い光は防げなかったのだろう、目がくらんだようにふらついた中での神業だった。
光の矢が頭上を飛び越えた瞬間、エルシアは全力で踵を返した。
ラッドに駆け寄り、思い切り体を引き上げる。傷に触ったのだろう、男の口から響いた呻き声は無視して、腕を自分の肩へと回す。自分の背よりも大きな男が耳元で怒鳴った。
「何しているんです、先にお逃げくださいと言ったでしょう!」
「怪我人は黙ってなさい!」
「この程度では、すぐに体勢を立て直されます! 今度こそ逃げきれなくなる……!」
「うるさいッ! それでも、生き延びるための努力ぐらいしてみせろッ!」
じれったいほど歩みが遅い。ちらりと振り返れば、まだ襲撃者の大半がふらついているのが見えた。ラッドの言う通り、先程の魔法は見掛け倒しだったようだ。直撃を受けた襲撃者が起き上がるのを見て舌打ちをする。
その中でディクトリだけがまっすぐにエルシアを睨みつけていた。視線だけで殺されそうなその目を見据えて、エルシアは呟く。
「死ぬもんか! 死んでなんて、やるもんか! ……うわっ!」
黒ローブの男に半ば押し倒される形で、突然エルシアはひっくり返った。悪態をつこうとしたところで、エルシアもそれを見る。
空を駆ける幾条もの光の槍。その一本一本が殺傷力のある強力な魔法だ。あやまたずに駆け抜けたそれらは、七人の襲撃者に突き進んでいく。
襲撃者の中で、ディクトリが真っ先に体を動かしていた。
防御魔法を展開し一撃を弾くと、そのまま飛び上って別の一撃を回避。乗ってきた馬の向かいに着地した所に魔法が叩き込まれ、馬が悲鳴をあげた。
そこから先はエルシアの目では捉えきれなかった。応射を交えながら、暗殺者の姿が木々の向こうへ姿を消していく。
後ろから沢山の蹄の音。それが、革ではなく、金属の鎧が立てるカチャカチャと言う音と共に近づいてくる。
「逃がすな! 追い込め!」
どこかで聞いた青年の声が後方から響く。その声に応えるように、エルシアの左右を馬に乗った騎士が駆け抜けていった。彼らはあっという間に散開し、そのうちの数騎がエルシアを守るように取り囲む。
更にその後方から魔法の光が轟く。森へと向かった光槍の魔法が、轟音を立てて木々に突き刺さる。まるで卵の殻を割るかのような容易さで、一抱えもある木が何本も砕けていった。
「ご無事ですか、エルシア殿下」
呆然とへたり込むエルシアに、一騎の騎士が近づいてきた。良く見ればその馬には、他の騎士と違い、華美な装飾がされた文官の服装を着込んだ男が乗っている。
馬から降りた彼が、エルシアの目の前でひざまずいた。胸元に輝く紋章は、紛れもなく彼が高位の貴族であることの証。
思わず、エルシアの口からその名が零れ落ちた。
「……アルフレッド?」
王女にひざまずいているはずの貴公子は、しかしその目に鋭い光をたたえて、エルシアを睨みつけていた。




