表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
看板娘は少女を拾う  作者: 有坂加紙
第六章 看板娘は、
88/173

エルシア その7

「シアおねえちゃん、シアおねえちゃん……!」


 泣きじゃくるケトを抱きしめながら、エルシアは唇を噛みしめた。

 慰めてあげたいのに、自分にはもうそれができない。少女が落ち着くまで背中を撫で続けてあげることすら、もはやエルシアには許されないのだ。


「けほっ、エ、エルシア……」


 何とか体を起こしたガルドスが、掠れた声を出す。痛々しく顔を歪めながら立ち上がったミーシャから、混乱した視線を向けられている。


 全て、エルシアが常に恐れていた視線だ。

 いつかこんな日が来るのではないかと、何度も夢に見ては飛び起きた悪夢だ。


 彼らにも説明しなくてはならない。だが、エルシアにはその前にやらなければならないことがあった。


 注意しながら剣を鞘に納めて、そのまま目を閉じる。


「出てきなさい」


 静まり返った室内にエルシアの声だけが響く。返答はどこからも帰ってこなかったが、エルシアは構わず続けた。


「どうせどこかから見ているんでしょう? 私はもう、逃げも隠れもしないわ」


 瞬きするほどの時間を置いて、黒いローブを纏った男が二人、エルシアの目の前に飛び降りてきた。見上げれば天井板がいくつか外され、真っ暗な隙間が覗いている。どうやらそこから、一部始終を見ていたらしい。


 帯剣した”影法師(シルエット)”達が、エルシアの前に膝をつく。

 ギルドの制服を纏った娘に、大の男二人がひざまずいている光景はどう見ても異様なのだろう。見知った人たちが息を飲むのがエルシアには分かった。


「エルシア殿下。……お分かりかと思いますが」

「……ここまでやっておいて、今更どうこう言うつもりもないわよ」

「では、すぐに移動を」

「どこへ……、なんて聞くだけ無駄みたいね。王都は大の苦手なんだけれど」

「ここは危険ですから」


 淡々とした口調の黒ローブに、エルシアは顔が皮肉気に歪むのを我慢できない。


「危険? こんな忌み子に何の価値があるというの」

「それは殿下が一番ご存知かと。そうでなければ、誰にも知られぬよう隠れて生きる理由がありません」


エルシアは剣を握った手に、痛いほど力を込めた。


「一度、家に帰らせて」

「なりません。数刻前より、町の外で教会本隊が控えているのを確認しています。今はまだ秘密裏に脱出できる範疇(はんちゅう)ではありますが、敵が狙いを”白猫”から殿下に変えた場合、この町が戦場になる可能性も否定できません」


 部屋の空気が揺れるのが、エルシアにも分かった。これ以上引き延ばすのは、確かに得策ではないらしいと、(おぼろ)げに察する。


「……ならせめて、みんなにお別れを言わせて」

「お急ぎください。つい先日の殿下とアルフレッド様との取り決め通り、我々は殿下の監視を主としています。護衛としては最低限に近い人員しかおりません。御身をお守りするにも限界がありますから、決して無茶な真似はなさろうとは思わないように」


 そう。護衛をつけるなら最小限に、と突っぱねたのはエルシアだ。王都でアルフレッドにそう言った。


「……逃げるつもりなんてない」

「アルフレッド様より、十三年もの間”影法師(シルエット)”すら欺き、身を隠し通したお方だということを忘れるなと、申し遣っておりますから」


 ああ言えばこう言う。黒ローブの言葉に皮肉めいたものも感じたエルシアには、もう反論する気も起きなかった。ため息を吐いて視線を落とす。


「……どういうことだ」


 恐る恐る、と言う表現がこれほどふさわしいのも珍しい。声のした方に視線を向ければ、ガルドスが混乱した表情でこちらを見ていた。その後ろにいるミーシャの呆然とした顔も視界に入る。


 恋をした人。親友と呼べる人。エルシアを救ってくれた、とても大切な人たち。

 ただただ、胸が痛かった。果たして彼らに掛けられる言葉などあるのだろうか。どこから説明すればいいのか、エルシアにも本当によく分からないのだ。


「なりません」


 口を開こうとしたエルシアを止めたのは、またしても黒ローブの片割れだった。表情の窺えないフードの下から、抑揚のない声が響く。

 エルシアは冷ややかに言い返した。


「私の大切な人たちよ。説明くらいさせなさい」

「その者たちは、殿下のご事情を知らぬのでしょう? 殿下が話された以上は巻き込むことになりますよ?」

「……止めるな、と言ったら?」

「知った以上は我々も対応せざるを得ません。どうか、懸命なご判断を」


 エルシアは、奥歯をギリと鳴らした。よろよろと立ち上がったミーシャが呆けたような顔で聞く。


「シア? これってどういうこと……? あなたが王女様だなんて……」

「ミィ……」

「その人達は誰? さっきのは一体何なの?」

「……」

「答えてよ、シア……!」


 ミーシャの顔が歪む。詰め寄ろうとした彼女がふらついて机に手をつく。それでも何とか声を挙げようとした彼女を、ガルドスが押しとどめた。


「おい、お前ら。シアをどうするつもりだ」

「……」

「それすらも答えないってか……! ふざけるな、シアは俺達の大切な家族だ。王都に行くってだけであんなに怖がっていたシアを、このままかっ攫ってなんて行かせるかよ……!」


 幼馴染が立ち上がる。その目は相変わらず暖かい光を宿していて、エルシアは思わず息を飲んだ。

 その彼も、しかし”影法師(シルエット)”によって阻まれる。黒ローブは剣に手こそかけてはいないものの、その場にいる者を威圧するには十分な異質さを漂わせていた。


 その中で、大男は一人闘志を剥き出しにしていた。目の前の隠密を睨みつけて、エルシアの傍へと一歩を踏み出す。


「ガルドス……」

「心配すんなよ、そんな奴らすぐに追い払って……」

「ガルっ!」


 思わず上げたエルシアの悲鳴に、彼の足が止まった。


「やめて、お願い……」

「ふざけるな。そんな顔して言ったって……」

「止めてって言ってるの!」


 その言葉に、ガルドスがショックを受けたように立ち止まる。どれだけ心が痛んでも、彼にはそれ以上一歩も進んでほしくなかった。


 だって。もうずっと前から、エルシアの心は折れているのだから。


「ねえ、ミィ……。ごめんね。私の口から、何も話せなくてごめん。信じてもらえないかもしれないけれど、これだけは言わせて」

「シア……?」

「貴女は私の親友だった。いつだって隣にいてくれて、誰にも言えない悩みとか聞いてくれて。どれだけお礼を言っても言い足りないわ」


 息を吐く。もう、親友の傷ついた顔を見ていられなかった。


「ガル……」

「ダメだシア。お前、あれだけ泣いてたじゃないか……!」


 そんなに大声で人が泣いていたことを暴露しなくてもいいのに。まだ、恥ずかしいという感情を持てていることに、エルシアは心から感謝した。


「ケトのこと、お願い」

「ふざけるな! お前がいなくなったらケトは……!」

「……昨日は私、世界で一番幸せだったって胸を張って言える。できれば、私の言葉も忘れないでいてくれると嬉しい、かな……」

「シア!」


 一瞬だけ目を見開いたガルドスが、往生際悪くエルシアを呼ぶ。そんな中で、エルシアの服の裾を引っ張る者がいた。


「……シアおねえちゃん?」

「ケト……」


 蚊の鳴くような声。ケトが目に涙を溜めてエルシアを見上げていた。


 いつの日か。

 いつかどこかでこんな時が来るであろうことは分かっていたはずだ。そのための準備もして、かける言葉も決めていたはずなのに。

 エルシアは少女の無垢(むく)な瞳の中に、恐怖に揺れる色を見る。次の瞬間、エルシアはケトに視られたことを確信した。


「……シアおねえちゃんは、わたしを捨てるの?」

「違う……!」


 準備なんて、何の役にも立たなかった。反射的に返してしまった言葉に、それを思い知る。

 龍の少女は分かっているのだ。エルシアにとって何を言えば一番響くのか。全ては一緒に居たいという無垢(むく)な願いの為に、エルシアの心を抉るのだ。


 今更ながら、少女の無自覚な異常性を痛感する。何も伝えない内から、状況も理解しない内から、相手が最も嫌悪する言葉を選ぶなんて。

 ああ、やっぱり。本当にこの子は普通ではない。


 心の中で悲鳴をあげる自分がいる。

 どうしてこうなってしまったのだ、と。自分はただここに居たいだけなのに、と。何もかも放り出して、大好きな人たちに(すが)ってしまいたかった。心の底から泣き喚いてへたり込んでしまいたいかった。


 それでも、エルシアは両足で立って少女を見据える。

 全て、少女を拾った時から覚悟を決めていたこと。自分に温もりを与えてくれた家族に、エルシアができるたった一つの恩返し。


「ケト」

「いやだ!」

「……私を、()()のね」

「視てない……っ!」

「でも、貴女は私を分かるでしょう?」

「……!」


 きっと周囲の人間には意味の通らぬ言葉の羅列なのだろう。けれども同時に、少女にだけはこの感情の抑揚が伝わっているはずだ。銀が栗色を視通せば、言葉がなくたって伝えることはできる。

 エルシアがそう思った瞬間、少女は慌てたように言葉を紡ぎ始めた。


「行っちゃやだよ。ずっと一緒にいるんだもん! わたしと一緒にいるって約束したんだもん!」

「ケト」

「お家に帰ったら、ご本を読むの。昨日は途中で寝ちゃったけど、今日は最後まで起きてるの! それから……」

「ケト」

「そ、そうだ! 今日はわたしがお皿洗いのお手伝いをするね! シアおねえちゃんは先にお布団入って待ってて! あとね、あとねっ」

「ケト」

「……っ! それだけじゃないもん! 明日も一緒に起きて……、それで一緒に、いっしょに……」


 少女の声が段々と小さくなる。いつしか、エルシアの胸に顔を押し付け、くぐもった泣き声を上げていた。我慢していたはずの目頭が熱くなるのを感じて、エルシアはぐっと腹に力を込めた。


「ねえ、ケト」

「……やだあ……」


 姉である自分がしっかりしなくてどうするのだ。不安にさせてどうするのだ。


「本当はね、私もずうっと貴女と一緒にいたかった。明日も、明後日も、その次の日もずっと。ご本もいっぱい読んであげたいし、同じベッドで眠って、今朝みたいにのんびり起きて」

「……じゃあ!」


 ガバリと顔を上げたケトが、目を見開いて訴える。

 その少女に、エルシアは残酷な現実を突きつけた。


「貴女の力は、それがどれほど危険な事か、分かっているのでしょう?」

「……!」

「それが、貴女の力。貴女の呪い。形は違っても私にもそれがあるからこそ、貴女を守りたいって、そう思ったのよ」

「じゃあ、わたしもシアおねえちゃんと一緒に行く……!」

「できないわよ。私の力は貴女程大きくないから。隣にいては、貴女を守り切れなくなる。本当に、不甲斐ない姉でごめんね」


 縋りつく小さな体を抱きしめる。

 これは、ケトにとって避けられぬ宿命。きっと彼女はこれから、同じようなことに何度も直面するはずだ。

 叶うことならば、その全てから守ってやりたかったけれど。全てを跳ねのけるには、エルシアの力が及ばなかった。それがとても、とても悔しい。


 この子に龍の力などなければ良かった。ただの一人の少女だったら、そうしたら王都に連れていくことだってできたのに。それこそ、自分の正体が露呈(ろてい)することもなかったのに。


 そんな仮定はおかしい。この力がなかったら、エルシアはケトと出会うこともなかったのだろう。ブランカは魔物に蹂躙(じゅうりん)されていたのだろう。きっと、看板娘も少女も、出会うことなく墓の下にいるはずだ。

 全ては偶然の産物。もう、何が良くて、何が悪かったのかエルシアにも分からない。ただ、今は八方塞がりだということだけは、これ以上なく痛感しているのだ。


 だから。


「シアおねえちゃん……!」

「聞きなさい!」


 だから、最初に決めたことだけはやり通す。


「私の全てにかけて。貴女に誓うわ」


 息を吸って。看板娘は少女に宣誓する。


「私は貴女を守り抜く。例え隣にいられなくても」


 銀色の瞳が一瞬開かれ、そして歪んだ。


「そんなのいらないっ! いっしょにいてよ!」

「私は貴女に生きて欲しい。幸せになって欲しい。その方法は、この町の皆が教えてくれるわ。かつての私がそうしてもらったようにね。ならば、私の役目は貴女が幸せを探すことのできる世界を作ること。そのためなら、私はどんなことだって成し遂げてみせる」


 呆然とエルシアを見つめるケト。ゆっくりとその温もりを引きはがす。その小さな両手が、縋るものを失って、力なく揺れる。

 そんな二人を裂くように黒ローブが口を挟んだ。


「殿下」

「……分かっている」


 カランコロンと、離別の音が鳴った。

 一歩、二歩。ただ手だけを差し伸べるケトから離れながら、エルシアはケトに伝える。


「強くなりなさい、ケト」

「え……?」

「貴女が、私の言葉を理解するために。貴女が、自らの手で大切な人を守るために。貴女が、人の悪意を跳ね除けるために。貴女が、自分の願いを叶えるために」

「シアおねえちゃん……。シアおねえちゃんッ!」


 涙は絶対に零さないように。

 必死になってこらえながら、エルシアは最後にケトに微笑んだ。


「貴女に幸運のあらんことを。……大好きだからね、ケト」


 視線を(ひるがえ)して、一歩を踏み出す。


 果たしてこれからどうなるのか、それはエルシア自身も見当がつかない。けれども、ただ一つ分かっていることもある。


 きっと、自分がこの場所に帰ることはないだろう。どんな形であれ、王女エルシアがブランカの冒険者ギルドに足を踏み入れることは、もう、ない。


 必死に涙をこらえる看板娘の後ろ、ゆっくりと閉じられていく扉の向こうから、大切な少女の慟哭(どうこく)が響いたような気がした。


 ぐっと拳を握りしめて、王女エルシアはもう振り返らなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ