エルシア その6
「何をしているのかと聞いているの」
入口の扉を背にして、エルシアは怒りに震える声でそう言った。
「シアおねえちゃんッ!」
金刺繍の男に腕を掴まれたまま、ケトは助けを呼び続ける。その目から大粒の涙が次々とこぼれ、床に染みを作り続ける。
少女の嗚咽だけが響くギルドで、その場にいた全員に緊張が走った。
それはきっと、来たのがエルシアだから、という訳ではない。
町のギルドの看板娘が、抜身の剣を男たちに向けていたからだ。
白ローブが一斉に剣を抜く。ディクトリが地を蹴り、一瞬で看板娘のショートソードの剣先に移動していた。流れるような動作で剣を突き付け返すと、白ローブの下から漏れる殺気を隠そうともせず、エルシアを睨みつけた。
「何の真似だ、女」
「聞いているのはこちらよ。私の妹に何をしている」
ガルドスが焦燥に駆られた声で「下がれシア!」と怒鳴る。ミーシャが咳き込みながら「シア……」と苦しそうな声を上げた。
「そこの男、ケトを離しなさい」
目の前に剣を突き付けられているというのに、エルシアは全く怯むことがない。自らに向けられた殺気すらものともせず、白い男達を見据える。
「嫌だと言ったらどうするのかな? 勇敢なお嬢さん」
答えたのはカルディナーノ。嘲笑交じりの返答と共に、ケトはぐいと引き寄せられた。
その拍子に、剣こそケトの首元から離れたが、少女にはどうにもならないことには変わりない。泣きべそをかきながら、乱入したエルシアを縋るように見つめるしかない。
「どんな手を使ってでも、その手を離すしかないようにしてやるわ」
「なるほど。一体何をしてくれるというのか、楽しみだな」
「くだらない御託は沢山よ。いいからケトを離せと言っている」
ケトの手を握ったままのカルディナーノがぶつけた揶揄の言葉にも、エルシアは動じない。
彼女の剣の腕では、すぐに切り殺されると分かっているのに、どうして恐れない? このままではケトのせいでエルシアまで傷つけられてしまうのに。それだけは絶対に嫌なのに。
そんな少女の想いを知ってか知らずか。
ふと、エルシアの栗色の瞳がケトを見つめた。
必死に何かを言いたそうに、そして何も言えないのだと諦めたように。いつも通りの暖かさと、いつもとは違う切なさの入り混じった、形容できない表情。
錯覚かとも思える程に、一瞬の出来事だった。次の瞬間には、視線を戻していたエルシアに、カルディナーノが冷ややかな声で告げた。
「残念だ。流血沙汰にしたくはなかったのだがな」
「私を殺すの?」
「そこを通してくれないのなら、仕方あるまい」
ガルドスが目を見開く。ミーシャが息を飲む。ケトには指の一本すら動かせない緊張感の中で、しかしエルシアは肩をすくめて見せた。
「……殺せるものなら殺してみるといい。その瞬間、お前達は国に仇なす反逆者だ」
芯の通ったよく響く声が、ギルドのロビーを駆け抜けた。「何?」と返した金刺繍を一顧だにせず、エルシアは、ゆっくりと深々と、息を吸う。
そして、町のギルドの看板娘は、取り返しのつかない一言を吐いた。
「我が名はエルシア・アリアスティーネ・エスト・カーライル。貴方はカーライル王国が王女の一人を手に掛けようと言うの?」
―――
その場が静まり返る。
誰も、何も言えなかった。
それはギルドの中で剣を向け合うという異常な事態に動けなくなっていたこともあるし、エルシアが放った言葉がその場にいる者に理解されるまでに、幾ばくかの時間を要したためでもある。
その真っただ中で、ケトは震える瞳で姉を見つめた。
彼女が言っていることがよく分からないのはいつものこと。けれども、ここまで理解できないのははじめてかもしれない。
エルシアが、王女?
「はっ。一体何を言い出すかと思えば……」
場の空気はカルディナーノの嘲りで動き出す。
「戯言にもならんな。子供でももう少しまともな嘘をつくぞ」
エルシアは無言を返答にする。
言葉の代わりに、彼女はギルドの制服の胸元を無造作にくつろげた。粗末な糸で縫われたボタンがいくつかはじけ、空いた隙間から真っ白な柔肌が覗く。
エルシアは、奥にある金の輝きを片手に掴み、ようやく言葉を発した。
「これでも同じことが言えると?」
ケトを掴んでいたカルディナーノの手がピクリと動いた。龍の目に視えた彼の尋常ではない驚きに、ケトは思わず顔を上げる。枢機卿の食い入るような視線が、エルシアの手の中に揺れる指輪に吸い寄せられていた。
「これが何か、分からないとは言わせないわ」
「……!」
しばし流れる静寂。その間にケトは自分の記憶を探る。
いつだったか、寝ぼけながらエルシアのお守りをいじったことがあったっけ。外に変な紋章が刻まれたその指輪には、内側にもびっしりと文字が刻まれていたはず。
思い出せ。それはエルシアが今宣言した、長ったらしい名前そのままではなかっただろうか。
修道着の男と剣を突き合わせたまま、エルシアは言葉を紡いだ。
「本物か、なんて野暮なこと聞かないでね。この王印は我が一族の証。我が名と我が国の紋章が刻まれている。説明なんてなくたって、貴方ならよく分かるでしょう? もし、誰かから買い取ったなんてこじつけを言いだすのなら、そうね……」
凍り付いた空気の中で、エルシアが無表情に続ける。
「十三年前、母リリエラ・アリアスティーネ・アイゼンベルグを殺したのが龍神聖教会の刺客であったこと、私は忘れてなんかいないわ」
エルシアに剣を向けたディクトリの目がスッと細まる。彼もまた、枢機卿と同じように驚いているのだケトには分かった。
「知っているかしら? あの時私と母が軟禁されていた王城の塔には、いざという時の隠し扉が沢山あってね」
ディクトリの雰囲気が更に変わる。枢機卿の驚愕が深まる。
「貴方達が母を殺した部屋の隣。あの倉庫の奥には本城への隠し通路があるの。どう? ここまで言わせたんだから、信じてほしいものね、カルディナーノ枢機卿閣下?」
今度こそ、エルシアに突き付けられた剣が揺れた。枢機卿は言葉に詰まりながら、何とか言葉を紡ぐ。
「……まさか」
ポツリと聞こえた言葉は、恐らく無意識に漏れたものだったのだろう。少したって、枢機卿の掠れた声が響く。
「まさか、本当にあの”女狐”の娘だとでも言うのか?」
「信じてもらえたようでなにより」
エルシアは枢機卿とその護衛達を見渡す。剣を持っていない方の手から指輪を手放し、ゆっくりと横に広げた。
「さてと。それでは、本題に戻りましょうか」
「本題……?」
「貴方たちの選択肢は二つ。よく考えると良い」
一人疑問を呈する枢機卿へ、間髪入れずエルシアは続ける。
場の空気は未だ動揺から戻っていないというのに、エルシアはまるで気にしていない。ケト自身、エルシアの言葉についていけず、ただ茫然と見つめる他ないというのに。
今や彼女は、紛れもなくこの場の支配者であった。
「一つ。このまま私を殺し、ケトを連れて行く。既に南では戦端が開かれている場所があると聞いたけれど、貴方たちまだ宣戦布告していないんだって? アルフレッドからそのあたりの事情は聞いたわ。きちんとした宣言もなく王族殺しをやってのけるのは暗殺と同じだよね。それなりに覚悟が要る決断だと思うけれど」
ケトの背筋が凍る。エルシアを殺す? それは絶対にあってはいけない事なのに、どうしてそんなに淡々と言えるのか。
「ああ、ちなみに。この間から私には監視がつけられているの。彼らも一緒に始末しないと、後々困るわよ?」
生殺与奪の話にしては、エルシアの口調が淡々としすぎている。普段の夕ご飯の献立の相談の方がずっと感情豊かだったと、ケトはそう思う。
「そして二つ目。ケト・ハウゼンとブランカに関するすべての事象から手を引き、町から出ていく。私のおすすめはこれよ。これもアルフレッドから聞いた話だけれど、どうやら王都も随分きな臭いそうね。恐らくこの程度のことで戦争にはならないわ」
もはや、この場はエルシアの独壇場だった。芯の通った声で、エルシア王女は決断を迫る。
「ケト・ハウゼンは、私ことエルシア・アリアスティーネ・エスト・カーライル第二王女が妹。貴方達は今、王女の妹を攫おうとしていると知れ」
看板娘は、自らに突き付けられた剣をそっと押し除ける。今まで見たこともない冷ややかな表情で、彼女は言い放った。
「手を引け。ケトの身も心も、貴方達の好きにはさせない」
―――
「は」
どれくらい無言の時間が流れたのだろう。しんと静まりかえった室内に、枢機卿の声が響いた。
「くはははははははは」
笑い声はどこか虚ろだ。後には誰も続かず、その場にいる者は固唾をのんで王女と枢機卿を見つめる。
「……これはしてやられましたな、エルシア殿下。まさか、あなたが生きていらっしゃるとは。まさか、このような形でお会いすることになるとは」
言葉を並べたカルディナーノが、さもおかしいと言わんばかりの表情を浮かべて、エルシアを見つめた。
「つくづくあなた方親子には困らされるものです。あの”女狐”が産んだ王家の忌み子が、またしても私に牙を剥くとは!」
金刺繍は天井を見上げ、ゆっくりと目を閉じた。大きく息を吐く音がフロアに響く。
再び開いたその口からは、それまでとは少し違う低い声が響いた。
「……ディクトリ」
「は」
「その女に、見覚えはあるか」
ディクトリとエルシアが鋭い視線を交わす。しばしの後、ディクトリはどこか諦めたように呟いた。
「あります」
「いつだ」
「十三年前。王城の”六の塔”で。背格好も髪も違いますが、”女狐”の面影があります」
その言葉に枢機卿が嘆息した。
「……剣を下ろせ」
「……は」
ディクトリがエルシアに突き付けたロングソードを喉元から遠ざける。刃が鞘に納められるカチリと言う音と共に、掴まれていたケトの右手が解放された。
痛いほど握りしめられていたカルディナーノの手が離れた瞬間、ケトは弾かれたように駆け出す。護衛を押しのけて、真っ直ぐエルシアの胸の中に飛び込んだ。
「シアおねえちゃんっ!」
「もう大丈夫よ、ケト」
そう言いながらも、彼女はまだショートソードを下ろそうとしない。
右手で剣を、左手でケトを抱え、彼女は枢機卿を睨み続ける。支えを失った指輪が、エルシアの胸元でふらふらと揺れ動いた。
「……良いでしょう。エルシア様に免じてこの場は退きましょう。まさか”王女殿下の妹君”をお預かりする訳にもいきませんからな」
枢機卿カルディナーノはニヤと嫌な笑みを浮かべていた。
それが虚勢半分、そしてエルシアに向けられた昏い感情半分であることは、ケトにも感じ取れる。嫌な笑みを浮かべたまま、龍神聖教会の長は口を開く。
「しかし、よもや死んだはずの忌み子が生きておられるとは。これから王都は大騒ぎでしょうなあ。殿下のお母上は正妃どころか妾ですらない。かつて貴族たちがこぞって”傾国の娘”と罵った御子がこうして存在していたのですから」
エルシアは、もはや揶揄の相手などしなかった。ケトを抱き寄せて、ドアの前から一歩脇に避けると、外を示した。
「消えなさい。この町から」
「……そうさせていただきましょうか。行くぞ」
金の刺繍が施された白い修道着をはためかせて、カルディナーノがドアをくぐる。その後から次々と、護衛の男たちが続いた。
一時は実力行使に出ようとした男達が、今はあっさりと外へ出ていく。殿になったディクトリがケトの横を通り過ぎる時、看板娘と少女に射抜くような視線を向けてから、鼻を鳴らして背を向けた。
カランコロンと、むなしいベルの音を立てて、エルシアとケトの前で扉が閉まる。
エルシアの表情は、俯いて誰にも見えなかった。




