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看板娘は少女を拾う  作者: 有坂加紙
第六章 看板娘は、
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エルシア その5

 龍の感覚が異変を感じ取ったのは、ケトがちょうどお昼ご飯を食べ終わるかどうかのところだった。


 なんだろう。妙に背筋がゾワゾワする。

 マーサの作ってくれたオムレツを前に、ケトはフルリと体を震わせた。


「ん、ケトどうした?」


 テーブルの向かいで、いち早く食事を終えていたガルドスがケトの様子に気付いたようだった。その声に、隣に座っているミーシャもちぎったパンを片手に視線を向ける。


「……よく分かんない」


 そう。ケトが感じたのは、これまでとは異なるよく分からない感覚だった。

 龍の力を得てから、しばらく経っているのだ。下手くそなりにも、もたらされる不思議な感覚には慣れてきたはずだ。現に、自分に向けられる敵意には敏感な自覚がある。


 だが、今感じているそれは別物だった。


 強いて言うなら、この間からケトやエルシアを見張っている人間たちに近い物がある。正直に言ってとても鬱陶(うっとう)しいものだが、エルシアから大丈夫だと聞いてからは、時たまちらりと視線を向ける以外は気にしないようにしている。


 その彼らと明確に違う点が一つ。

 見張りは自分の気配をぼやかそうとはしないのだ。今だって、ギルドの屋根裏に二人、潜んでいるのが分かる。その上、彼らも自分たちの存在をケトに知られている前提で動いている節がある。


 では、これは何だというのだ。このぼやけた、しかし威圧感を持って確実に忍び寄ってくるこの存在は。


 今ここに、エルシアはいない。お昼前、食堂に向かうケト達に向かって、仕事を残しているから先に食べてくれと言って、珍しくカウンターに居残っているのだ。


 無性に不安になってきた。ケトは辺りを見回したが、相変わらずエルシアの姿は見えない。今すぐ駆け寄って、抱きしめてほしいのに。心配ないと言ってほしいのに。


 急速に味が消え失せたオムレツを急いで口に放り込みながら、考える。

 突然感じ始めた得体の知れない感覚は、ケトにこれまで思い起こさないようにしていた疑問を思い起こさせていた。


 そもそもの話だ。

 そもそも、この状況はおかしいのではないか?


 エルシアが大丈夫だと言っていたから、深く考えようとしてこなかったけれど。

 これまでずっと、貴族に囲われて自由がなくなる生き方より、今ののびのびと遊べる生活を送るためにエルシアが奔走してくれたことは、もうケトにだって分かっている。

 何をどうやったのか見当もつかないが、エルシアが何か漠然としたものに打ち勝ったからこそ、自分が今ここにいられることも、何となく感じ取っている。


 だが、本当にそれだけなのだろうか。

 勝ったというのなら、そもそも監視などつかないのではないか?


 何が、とは言えないまま、ケトの中で漠然とした不安が大きくなる。自分の知らないところで何か取り返しのつかないことが進んでいるような、そんな予感が止まらない。

 これは龍の感覚? この警鐘は、少女の頭ではまだ理解が及ばない。


 最後の一口を飲み込んで、急いでごちそうさまを言う。


 大丈夫。エルシアに任せておけばすべて上手くいくはずだ。

 だってエルシアはすごいのだ。どんなことだって簡単に解決してくれる。きっと今ケトが感じている不安だって、エルシアに撫でてもらいさえすれば、綺麗さっぱり吹き飛んでしまうに違いない。


 定食は五ライン。財布にぴったりの額がなくて焦る。大銅貨一枚をマーサに渡して、お釣りの銅貨をもらうのがもどかしい。

 「早く、早く」と急き立てて、ガルドスとミーシャと一階へ。ロビーにはいつも通りジェス達が遊びに来ているのが見えたが、とりあえずまずはエルシアに抱き着くのが先決だ。


 とててて、とロビーを横切る。後ろのガルドスたちが困惑したようについてくるのを確かめながら、カウンターに飛び付いた。


「シアおねえちゃん?」


 カウンターは無人だった。

 慌ててスイングドアを押し開けて、バックヤードへ。カウンターの上には受付不在の小さな立て看板が出ていないから、もしかしたら奥の事務室にいるのかもしれない。


「シアおねえちゃん? どこ?」


 事務室のドアを開けても返事はなかった。うず高く積まれた書類が、ただ静かに眠っているだけだ。その静けさが、不安を更に掻き立てる。

 今までエルシアが何も言わずにいなくなったことなんかなかったのに。


 最早、龍の感覚は明らかな警鐘を鳴らしていた。何が起きているのか分からないのに、確実に良くないことが近づいていることを感じ取る。

 使いこなせない力が届ける感覚を、自分の頭は不安と恐怖しか感じ取ってくれなくて、少女は苛立ちを覚えた。


 事務室のドアを閉める余裕もなく、ケトはカウンターから飛び出した。スイングドアが後ろでギシギシと音を立て、まるで矢のように飛び出したケトに、ミーシャがわあと声を上げた。


「シアおねえちゃんどこ!?」


 少女の大声にロビーにいた人たちが視線を向ける。

 昼過ぎのギルドは閑散としていたが、それでも昼飯を済ませたオドネルとミドの二人がのんびりと、孤児院の子供たちと話していたのだ。


「おいケト? 一体どうしたんだ」


 ガルドスが不審そうな声を上げ、そのことにまたしても苛立ちを覚える。これほど明確な脅威に、何故皆気付かない。龍が唸るが、ケトは戸惑う。

 だが、ケトのつたない言葉では、それを表現できない。


「シアおねえちゃんが、どこにもいないの! 何か来るのに!」


 ガルドスが訝しそうにケトを見る。

 伝わらない。自分の言いたいことが伝わらない。当たり前だ。自分でも上手く理解できていないものをどうして他人に伝えられる?

 

 それでも何か言わなくてはと、少女が口を開いた瞬間。

 ギルドの扉がゆっくりと開いた。


―――


 失礼と、乱入者達はそう言った。


 後から後から、白い修道着を纏った男達が入ってくる。その全員がフードで顔を隠し、腰には長剣を携えていた。

 全部で五人。一糸乱れぬその動きは、まるでよく教育を受けた侍従の様だった。


 最後に、壮年の男がドアを潜り抜けてきた。乱入者の中で唯一顔を隠さないその男は、年相応の(しわ)(ひげ)を蓄え、白髪交じりの髪を綺麗に撫でつけている。

 何よりも特徴的なのはその服装だ。白地の長いローブには、他の男とは明らかに異なる金刺繍がこれでもかと織り込まれていた。


「お、おい。何だよあんたら」


 入口の近くで立ち止まった金刺繍の男を中心に据え、五人の白ローブが警戒するように周囲につく。どう見てもお客さんには見えない。

 ガルドスがあげた戸惑いの声を聞きながら、ケトはギルドには明らかに不似合いな男達を眺める。

 ふと、彼らを何度か街で見かけたことを思い出した。金刺繍の男こそはじめて見るが、あの白ローブは見覚えがある。例えば普段歩いているときに、例えば蚤の市で、同じ修道着を着ていた男とよく道ですれ違っていたはずだ。


「失礼、驚かせてしまったようだ」


 室内の視線を一身に集め、金刺繍の男が口を開いた。


「冒険者の諸君、お初にお目にかかる。私はカルディナーノ・ル・ヴァント。龍神聖教会(ドラゴニア)の枢機卿を務める、神の声だ」

「スウキキョウ……?」


 聞き慣れない言葉に思わず疑問を口にしたガルドスに、ミーシャが「教会のすっごく偉い人ってことよ」と耳打ちする。

 その間にカルディナーノとやらは、あまり広いとは言えないギルドの室内を見回していた。


「あの。そんな偉い方がなんでここに?」


 そう問いかけたのは、窓際に陣取っていたオドネルだった。彼と同じテーブルについていた子供たちが、目を丸くしていた。


「うむ。ここに、ケトという幼い少女がいると聞いて会いに来たのだが」


 突然と言うべきか、やはりと言うべきか。

 見知らぬ男に名前を呼ばれて、ケトは体を一瞬硬直させた。

 カルディナーノは口調こそ穏やかではあるものの、その目が全く笑っていないことに気付く。ガルドスも何か思うところがあったのだろう。静かにケトの肩を引き寄せて、その大きな体の後ろに隠してくれた。


「さて、ギルドと言えば受付がいるものと聞いていたのだが、誰か紹介してくれないだろうか。まずはその者に相談するのが筋なのだろう?」

「……うちの受付なら、今ちょっと席を外している」


 答えたのはガルドスだった。声のした方へと視線を向けた金刺繍の男の視線が、その拍子に大男の影から顔を出すケトを捉えた。


「ああ! その子のようだな。はじめまして、ケト君」

「……こいつに何か用か?」


 警戒を増したガルドスが口にした瞬間、顔を隠した修道着の一人が低い声で唸った。


「冒険者諸君、立場を弁えてもらおうか」

「ああ?」

「こちらは我らが主、本来であればこのような場所に出向くことすら恐れ多いのだ」


 ケトは思わず耳を疑った。突然来ておいてその言い草はなんだ。

 視界の端でミドが呆れた顔で言い返そうとしているのを、オドネルに押しとどめられていた。それを意に介さず、カルディナーノは口を開いた白ローブを呼んだ。


「ディクトリ」

「はっ」

「彼らは我が御神を崇める同士ではない。故に今この場で敬意を求めるのは筋が違うと言うものだ。むしろ今の発言こそが御神を貶めるものと知れ」

「申し訳ございません」


 芝居がかった動作で頷いたカルディナーノは、そのままケトへと向き直った。


「我が信徒が失礼した。どうか無礼を許してほしい。……さて、ここに来た用件だが」


 金刺繍の男は、そこでケトを見つめる。ぞわりと全身に鳥肌が立つのを感じた。


「ケトという名の少女が、人ならざる力を有していると噂されているだろう? 君のことだな」

「……え?」


 ケトの口から思わず声が漏れた。目の前の男達もまた、自分の力を求めているのだと理解して、警戒を強める。

 だが、ガルドスは揺るがなかった。落ち着いた声で回答する。


「ああ、またその話か。随分広まっちまったらしいが、根も葉もないただの噂だぜ。ケトは、そりゃあ女の子にしては力が強いほうさ。水汲みとか簡単にこなしちまう。だけどよ。人ならざる、とかいう訳分かんねえ噂は全部でたらめだ」


 ケトは内心で感嘆する。

 まさかガルドスがこれほど落ち着いて上手に嘘を吐くとは思わなかったのだ。王都に滞在していた頃から少し雰囲気が変わったのを感じ取ってはいたが、誤魔化す練習でもしたのだろうか。

 そんなことを考えながら、大きな背中からそろりと顔を出した少女はぎょっとした。視線の先で、カルディナーノが笑っていたからだ。


「ほう、なるほど。……さしずめ王都の貴族に、そう答えろと言われた、というところだろうか。当ててやろう、アイゼンベルグ家の差し金だな」


 ガルドスがギョッとするのがケトにも分かる。ケトも同じくらい驚いて、慌てて背中に顔を隠した。


「図星のようだな」

「そ、そんなことはない」

「無理はするな。事情は分かるからな」


 カルディナーノは微笑みを浮かべて、なおもしらを切るガルドスを見やった。


「憐れなものだ。いざという時の駒としてアイゼンベルグに囲われているのだと、何故分からないのか」

「……何だと?」

「今の王家はくだらぬ無茶をしすぎたせいで基盤が揺らいでいるからな。どこぞの家が大きな力を手に入れてしまえば、辛うじて保とうとしている均衡が一気に崩壊することになる。彼らはそれを恐れているのだよ」


 ミーシャが呆然と「何の話?」と呟いた。それを意に介さずに、金刺繍が続ける。


「だからこそ、アイゼンベルグはこの娘を隠そうとしているに過ぎん。まあ、宰相家としては妥当な判断というところか。どうせ監視もどこかに潜んでいるのだろうがな。いずれにせよ、自分の手元に置いていることに変わりはない。いつか政治の駒として使われることになるぞ」


 今度はケトがギョッとする番だった。この白服達は王都でケトが隠し通した事実を知っている。護衛がついていることも分かっている。ならば、ケトの力についても確信があるに違いない。

 絶句したガルドスの代わりに、ミーシャが声を上げる。


「それじゃあ、あんたたちは何しに来たのよ」

「この少女を王都のくだらん(いさか)いから守るために来たのだ。我々も彼らの争いに巻き込まれていてな、辟易(へきえき)しているのだ」

「突然入ってきて、随分好き勝手言ってくれるのね。偉い人はみんなそうだわ。下々の暮らしなんて普段はどうでもいい癖して、自分の利益になりそうなときばっかり口を出すんだ」


 ミーシャの言葉に、親の分からぬガルドスが頷く。孤児院に暮らす子供たちが「そうだ」と声を上げた。


「我々をあんな貴族たちと一緒にしてもらっては困るな。この町も、スタンピードの被害に遭ったのだろう? ならばその後の国の対応も分かっているはずだ」

「あんたら龍神聖教会(ドラゴニア)は、違うと?」


 言葉に詰まったミーシャの代わりに口を開いたのはガルドスだった。先程の驚きを無理やり鎮め、彼は静かに問いかける。


「我々は神に仕える身だ。権力争いなどという世俗から少女を守ろうとしているに過ぎない。いずれ、こんな辺境の地ではケト君を守れないときが来るぞ。その点、教会は王都や貴族から独立した存在、守ることなど造作もない」

「王都で、龍神聖教会(ドラゴニア)に不穏な動きがあるって噂を聞いた。あんたらもケトの力を利用しようとしているだけなんじゃないのか」

「そのような不埒なこと、神に誓ってありえないと断言しよう。我々はケト君に修道院に入ってもらおうと考えているのだからな」


 カルディナーノとガルドスのやり取りの応酬。ずっと注意して聞いていたのに、何の話かさっぱり分からなくて、ケトは唇を噛んだ。


 まただ。ケトの預かり知らぬところで、自分のことで皆が戦ってくれている。

 ガルドスの背中から、迷いを感じた。複雑な状況に、難しい話に、彼も戸惑っているのだ。それが分かるのに、ケトには何もできない。


 いや、本当にそうだろうか。

 背中に隠れているだけでなく、出来ることだってあるはずだ。

 だって王都で決めたのだ。ケトは頑張って大人になるのだと。何か一つでも、自分を好いてくれる人の為の力になるのだと。


「いやだ」

「ケト?」


 ガルドスの背中の影から、ゆっくりと歩み出る。途端に白服たちの視線がケトに集中し、足が震えそうになった。

 怖い。ガルドスはこんなに視線に耐えてくれていたのだ。しっかりしろ、大好きなエルシアはこんなことでは怯まない。


「わたしは、あなた達とは一緒に行かない。ここが、わたしのお家だもん」


 カルディナーノの目がすうっと細まった。龍の目が、彼の愉悦を捉えてケトに警告していた。


「……ケト君。君の気持は分かるが、現実はそう甘くない。君の力がどれほどのものか、まだ君は幼いから知らぬだけだ」

「わたしの頭が悪いことは知ってる。言ってることぜんぜん分からないもん。それでも、あなたのような”昏い”人についていくつもりはないの」

「ケト……!」


 奥のテーブルからサニーの嬉しそうな声。ガルドスもミーシャも、口の端を吊り上げたが、ケトは真っ直ぐに白服達を見つめ続けた。

 感覚に耳を澄ませる。いくら隠したって、中で渦巻くどす黒い感情を覆い尽くせるものではない。エルシアがケトの前で猫を被り切れないように、人間である以上そこには限界がある。


「……実に興味深い。それも神が与えたもうた力か」

「神様なんて、あなたが一番信じていないじゃないか。あなたの言葉には”昏い嘘”しかない」


 ケトにしてみれば、素直に視て感じとったことを言ったまでだった。それこそ、ただ拒否の意思を伝えたかっただけだった。

 しかし、その言葉を聞いたカルディナーノが「ほう」と呟いた時、はじめてケトは自分がやりすぎたことを悟った。ほんの少し見開かれた目だけが、彼の驚きをかすかに現していた。


「……気が変わった」

「え?」

「君は危険だ。力に(おご)るだけでなく、あることないこと嘯くとは」


 その言葉を皮切りに、カルディナーノは纏う雰囲気を変えた。視線を外さずに、金刺繍に覆われたその奥底を視続けていたケトは、思わず凍り付く。


「なにこれ……」


 怒り、嘆き、焦り、疑念、嫉妬、後悔、憎しみ。それらをごちゃ混ぜにした真っ黒な心の内。何をどうすればそんなことになるのか。視続けていたら気分が悪くなりそうだ。枢機卿は低く、底冷えする声で呟いた。


「可哀想に。俗世で随分と偏った考えを持ってしまったようだ」

「そんなことない。わたしは今幸せなの」


 間髪入れずに言い返す。飲まれたら終わりだ。


「ふむ。どうやらなりふり構っている場合ではなくなったな」

「何を……」


 ガルドスも何か感じ取ったようだ。その大きな体に緊張がよぎる。


「諸君には悪いが、その娘は連れて行く。怪我をしたくなければ、そこから動かないことだ」

「ちょっと本気!? ふざけるのもいい加減に……!」


 売り言葉に買い言葉で叫んだミーシャが凍り付く。途切れた言葉の先で、修道着の男達が一斉に剣の柄に手を掛けていたのだ。


「あ、あんたら正気か……!? 今ここで剣を抜けば、領主様やギルドそのものにケンカを売ることになるんだぞ!」


 流石にここまでの想定はしていなかったのだろう。ガルドスもまた、焦りを滲ませて叫んだ。その手がゆっくりと腰の剣の柄に寄っていく。

 その視線の先で、数々の部下に守られながら枢機卿は笑った。


「ケンカだと? いかにも田舎の野蛮人どもが言いそうなことだ。貴様も王都にいたなら知っているだろう? 正式な宣戦布告こそしていないが、既に幾度も小競り合いが起きているというのに」

「何の話だ……?」

「所詮ここは宰相家の管轄。既にこの町で隠密も確認しているのだ。貴族に直接危害を加える訳でもなければ、敵に決定的な大義名分を与えることにはならんさ。そもそも何年も前から騎士団共も似たようなことをしている。お互い様と言う奴だ」


 ケトは焦る。自分の言ったことが原因のはずなのに、話が理解できない。何を間違えた? どうして剣を抜こうとする? そんな自分に苛立ちながら、枢機卿を睨むことしかできない。


「ディクトリ、武器の使用を許す。あの娘をここまで連れて来い。他は待機」

「仰せのままに」


 視線の先で、白ローブの護衛の一人が恭しく頷いていた。

 そのやり取りを聞いて、ガルドスが額に汗を浮かべる。まずい、彼らは本気だ。

 乱入者達から視線を離さず、大男が低い声で呟いた。


「……ミーシャ、連中が動いたら、ケトを連れて裏口だ。シアを探して、助けを呼んで来い」

「わ、分かった。無茶は駄目だからね」

「当たり前だ。連中見るからにヤバそうだし、バカな真似はしねえよ」


 そのやり取りに、ケトは泣きそうになる。自分の失敗のせいで、みんなを巻き込んでしまった。あの怖い人たちが帰ってくれれば、それで良かったのに。


 ディクトリと呼ばれた男がこちらへと近づく。ガルドスが腰を落として警告した。


「ちくしょう! 今ならまだ間に合う、退けよ!」

「……」


 ディクトリは顔色一つ変えない。ガルドスの警告に返答もせず、ゆっくりと距離を詰める。言葉では止められないと感じたのだろう。ガルドスが、意を決したように叫んだ。


「行け! ミーシャっ!?」


 瞬間、怒鳴り声を上げたガルドスの脇を何かが飛びぬけた。


「痛っ!」


 ケトの隣でミーシャが腕を押さえる。それが、彼女の腕をかすめるように投げられたスローイングナイフによるものだと気付くまでに、一瞬の間があった。


「今のは警告だ。女、これ以上動けば喉に刺す」

「ミーシャ!」

「お前、よくもっ!」


 硬直したミーシャに慌てて駆け寄るケトの後ろで、ガルドスが地を蹴った。

 振り上げた拳。剣こそ抜かなかったものの、当たりどころによっては意識をも刈り取る、本気の一撃。しかし、飛びかかる大男に、ディクトリは冷ややかな視線を向けただけだった。


「愚か者め」


 次の瞬間、ガルドスの巨体が宙を舞った。一回転した挙句、床に叩きつけられた彼が、くぐもった苦悶の声を上げる。彼の下敷きになった椅子が、原型を留めないほどバラバラになる。


「ガルドスっ!?」


 それ理解した瞬間、ケトは悲鳴をあげた。自分の金切り声を聞きながら、更に龍が警鐘を鳴らしたのを感じる。


「黙れ小娘」


 いつ移動した? 突然目の前に現れたディクトリの姿に、ケトは目を見開く。慌てて腕を伸ばしたミーシャが、壁に弾き飛ばされて鈍い音をたてた。


「ちくしょう、ミーシャッ!」


 オドネルとミドが動こうとして、残りの四人に牽制(けんせい)されていた。それを視界の端に捉えながら、ケトは必死に魔法陣を紡ごうとした。


「君が撃てば、傷つくのはケト君の大切な人だ。それを分かっていないようだな」


 ケトの動きを止めたのは、一歩も動かずに後ろで佇む枢機卿の一言だった。彼はせせら笑いながら、倒れるガルドスとミーシャを見据える。


「その二人が傷ついたのは、君のせいだ。それくらい分かるだろう?」

「わ、わたしの……」


 さっきからずっと、あの男は何を言っているのだろう。

 ケトには難しくて分からないのに、弱者を馬鹿にする口調で、カルディナーノは続けるのだ。


「君がもし魔法を放てば、我々は報復せざるを得ん。その時真っ先に犠牲になるのは、そこにいる君のお友達だ」


 うるさい。


「見ないふりをしているようだが、もう分かっただろう? これは紛れもなく君のせいだよ、ケト君。考えなしにその力を使うなら、確実に身を亡ぼすぞ」


 黙れ。


「おかしな気を起こしてみるなら止めんがね。君はきっと一生自分が許せなくなる」

「だまれえええーーー!」


 きっとカルディナーノを睨みつけたケトは、しかし自分の手にまとわせた魔法陣がしぼんで消えるのを感じた。それを見て、枢機卿は満足げに笑う。


「そうだ、それでいい。……ディクトリ、連れて来い」

「はっ」

「やっ、離してえっ!」


 右手を有無も言わさず掴まれて、ズルズルと引っ張られる。足を踏ん張れば抵抗できるはずなのに、ケトにはその勇気が持てない。

 怖かった。それでもし、ガルドスが、ミーシャが傷ついたら? ケトにはどうすれば良いか分からない。


「やだっ、やだあ……!」


 とうとう我慢していたはずの涙が滲む。けれども何かできることもなく、ケトは泣きそうになりながら白服の輪の中に連れていかれた。


「よくやった、ディクトリ」

勿体(もったい)ないお言葉です」

「ちくしょう、てめえらケトを……!」


 遠くでガルドスが身を起こした瞬間、少女の首筋に剣が突き付けられた。突然の恐怖に、ケトの口から引きつった悲鳴が漏れる。剣を持つカルディナーノは刃先を近づけたり遠ざけたりしながら、揶揄(やゆ)するように口を開いた。


「傷つけられたくなかったら、大人しくしていた方が良いぞ」


 その言葉の向け先は、ガルドスとケト、両方だろう。どちらかが動いたら、もう片方が傷つけられる。その脅しだけで、ケトは動けなくなる。恐怖に怯えて震えることしかできなくなってしまう。


「やだあ、はなしてえ……」

「目的は達した。ここに用はない、引き上げるぞ」

「はっ」

「ケトっ、くそったれ!」


 ディクトリから枢機卿へと手渡されたケトは、右手をギリギリと掴まれながら、無理やり引っ張られ始めた。


「いや、いやあっ!」

「存外手間をかけさせる。駄々をこねるような精神はゆっくりと矯正(きょうせい)しよう」


 パニックになって、どうすればいいか分からなくて、右腕を掴まれた男の手に鳥肌が立って。混乱と恐怖で一杯の頭のまま、ケトは叫ぶ。


 足に力を入れたらいいだけではないか。それで逃げられるじゃないか。そう思うのに、先程の警告が耳に木霊(こだま)して離れない。

 嫌だ。ガルドスが、ミーシャが、皆が傷ついてしまうのは、絶対に嫌だ。同じくらい連れていかれるのが嫌で、ケトは悲鳴をあげることしかできない。


「た、助けてっ!」

「静かにしてもらえないか、ケト君。君が静かにしてくれるなら、我々もこの町の人を傷つけないと約束しよう」

「やだあ、助けてぇ……」


 為す術がない。ついて行くしかない。

 それを理解しパニックになったケトの目から、ポロリと涙が落ちる。怖くて、怖くて、思わず頭に浮かんだ名前を叫んだ。


「助けて、シアおねえちゃん……!」


 一度こぼれた涙が、堰を切ったように溢れだす。

 ガルドスも、ミーシャも届かない。顔を歪めながら手を伸ばしてくれているのに、それがとても遠くに感じられて。

 嫌だ、行きたくない、と。嫌だ、傷つけられたくない、と。少女が情けなく悲鳴を上げた時。


「何をしている」


 凛とした声が、ケトの引きずられていく先、ギルドの入口から掛けられた。

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