エルシア その3
一段、また一段と。
エルシアは食堂へ続く階段をゆっくりと踏みしめる。隣に寄り添う少女の温もりを確かめながら、一歩ずつ、大切に。
思い返せば色々なことがあったと、そう思う。
少女に出会った春。
絶体絶命の町を救ってくれた。共に旅をして、両親に別れを告げた。
少女の姉になった夏。
必死に町中を駆け回った。自分の腕の中に抱きすくめた。
少女へ捧げた秋。
王都に向かうその手を握った。危ない橋を渡って、取り戻した。
そして今、エルシアの隣にケトがいる。こんなエルシアを頼ってくれて、信頼してくれて、心の内を見せてくれるケトがいてくれる。それがエルシアにとってどれほど幸せなことか。
少女がこの気持ちを知る日は、果たして来るのだろうか。でも、少しでもそれを伝えたくなってしまって。
だから、これはお礼だ。
「さあ、ケト」
「シアおねえちゃん?」
食堂の扉の前で、手を離す。キョトンとした顔のケトに、心の底から湧き上がる笑顔を向けて。
「そのドアを、開けてみて?」
―――
――お誕生日おめでとう!
扉を開けたケトを待ち構えていたのは、そんな言葉だった。
「ふえっ!?」
驚きに少女の肩が大きく跳ね、混乱の小さな声が漏れる。
その視線の先で、沢山の人がケトに笑顔を向けていた。
後ろについてきていたガルドスが、ミーシャが笑う。
ジェスはぶっきら棒な顔をしつつもこちらをチラチラ窺い、サニーとティナがぴょんぴょんと飛び跳ねる。オドネルが渋い顔をくしゃくしゃにして、ミドは大声を張り上げる。ロンメルが満足そうに笑い、マーサがニコニコ顔を厨房からひょっこりと出し、エドウィンがジョッキを片手に、ナッシュが食事をつまみ食いしようとし、ロジャーが強面の目じりを下げて。
それだけに留まらず、道具屋の親父さんが、復興の時にお手伝いしたマチルダのおばちゃんが、よくお買い物に行くパン屋のおじいちゃんまでいる。
その周りには常連さんが沢山いて、何故か衛兵隊の若者が交じっていて、口々にケトを祝うのだ。
人によって贈る言葉は様々だ。「めでたい!」なんて何がめでたいのか分からないし、「ふん」とそっぽを向いたのは、何ともジェスらしい。「飲むぞお!」という掛け声はもはや趣旨からかけ離れている気がするが、口にしたロジャーの表情は笑顔に違いない。
どこからか白猫のミヤがフロアにもぐりこんでいて、ケトに向かってみゃーと鳴く。
「えっ? ええっ!?」
心底驚いた様子のケトは、右を見て左を見た後に、エルシアを見上げる。その顔に微笑み返し、エルシアも口にする。
「十歳のお誕生日、おめでとう、ケト」
どうやら少女は驚きで言葉も出ないらしい。口をパクパクしてようやく出てきたのは、どうして、という混乱の声。
「貴女のことだもの。誕生日くらい知っているに決まっているでしょ?」
「シアおねえちゃん……」
「さあ、皆に応えてあげて」
そう促してあげると、ケトは慌てたように正面を振り向いた。口々に騒いでいた面々が、示し合わせたようにスッと静かになる。
「えっと、ええっと……」
きっとどう言っていいのか分からないのだろう。そわそわとフロアを見渡した少女は、やがてギュウっと目をつぶって大きく息を吸い込んだ。
「ありがとぉーーーーっ!!! うれしいぃーーーーっ!!!」
その後の喝采は、間違いなくギルド始まって以来の大騒ぎに違いなかった。
―――
「ほれ、大樽出して来たからじゃんじゃん飲みな! ケトちゃんはホットミルクだ」
「おおーーーっ!」
「えっ?」
「ケトちゃんケトちゃん。うちのチビの服があるから持ってけ!」
「えっ?」
「バカたれ、そんな小さい服もらったってケトちゃんが困るだろ」
「あんだと、エドウィン、サイズは同じくらいのはずだぞ!?」
「ちっちゃいのはいらない……」
「おーい、お代わりくれい」
「ロジャー、どう見ても飲みすぎだ」
「おう、ケトじゃねえか。お前さんも一杯どうだ」
「ひええ」
「ちょっとちょっと、ケトにお酒なんて勧めないでよ!」
「ミヤ!」
「みゃー」
「チーズばっかり食べてあきない?」
「みゃー」
片っ端からもみくちゃにされ、目をぐるぐる回しながらフロア中を歩き回る。何が起きているのか分からなかったのも最初だけ。休みなくかけられる声に、少しずつ少しずつ実感が湧いてきた。心の内から溢れ出す気持ちに、段々と口元がほころんでしまう。
大人たちの間をすり抜けて、小さな影が二つ飛び出してきた。
「おめでとうケトーー!」
「ケトーーっ」
「サニー! ティナ!」
三人で手を繋いで、フロアの真ん中でグルグル回る。
「おめでとうーー!」
「ありがとうぅーー!」
ひとしきり笑い合った後、振り返って少年にも声をかけた。
「ジェスも来てくれたんだ!」
「わ、悪いかよ」
「ううん、嬉しい……!」
相変わらずの仏頂面が、ほんのり赤く染まる。「ジェス照れてるー」とサニーがからかったので、彼はうるせえと言い返した。
いつものやり取りに笑っていたケトは、ふと真顔に戻った。
「ねえ、ジェス」
「なんだよ?」
「その……、えっとね。ごめん」
少女の小さな声は、周囲の喧騒に紛れて少年にしか届かなかったようだ。目を丸くしてキョトンとするジェス。
「な、何で謝るんだよ?」
「だって……。ジェス達は、こんな風に一人ひとりお祝いなんてしてもらえないでしょう? 私だけズルいなって……」
孤児院では、誕生日をのお祝いを年に一度まとめて行う。
一人ひとり祝うには、孤児院の子供が多すぎる。金銭的にも時間的にも余裕はないのだ。それに、そもそも誕生日が分からない子が多いという事情もある。
そんな中、ここまで盛大に祝ってもらったケト。とても嬉しくて、同時に申し訳なくなる。
「……それで、いいんじゃないか?」
「ジェス?」
「こうして沢山の人に祝ってもらえるのは、お前がケトだからだろ。みんながお祝いしたいって思えるような、そういう良さがケトにはあるってこと、俺も良く知っている」
正面からまっすぐに少女の顔を見て、臆面もなく言ってのける少年。ニヤッと笑って彼は続けた。
「いいじゃんか。よく分かんない馬鹿力より、その方がずっとケトの力だ。もらえるもんはもらっとけって」
「……うん!」
年齢が縮まって、一つ差になった少年を見上げる。少しだけ追いついたはずの彼なのに、なんだかとっても大人びて見えて、ケトは思わず顔を赤らめた。
「ああっ! ケトが照れてる!」
「ジェスも照れてるーー!」
うずうずと乱入する隙を窺っていたサニーとティナが、ここぞとばかりに割って入った。その言葉に慌てた二人は、ぎょっとして振り向く。
「照れてないもん!」
「照れてねーし!」
意図せずに言葉が被ってしまって、ケトはジェスと顔を見合わせる。そんな二人を眺めて、サニーとティナは、また笑った。
―――
「おかえり、ケト」
「シアおねえちゃん……」
ようやくエルシアの元に戻って来る頃には、ケトは両手いっぱいの贈り物を抱えていた。ジョッキを片手にエールを飲み干そうとしていたエルシアが、少女の方を見て噴き出す。
「あらまあ、随分沢山もらったのね」
「うん」
「ありがとうって、みんなにちゃんと言えた?」
「言ったよ」
「よろしい、流石は私の妹ね」
ついて来ていたジェスたちに贈り物を持ってもらって、微笑むエルシアの元へ。
「突然で驚かせちゃったかな?」
「……シアおねえちゃん」
「なあに、ケト」
ふらふらと姉に歩み寄る。シアおねえちゃんの、優しくてあったかくって、良い匂い。まるで花につられる蝶のように、ケトはエルシアの胸に縋りついた。
「ケト……?」
柔らかな声が耳朶をくすぐる。姉の体に顔を押し付けたまま、ケトは小さな声で聞いた。
「どうして……?」
「うん?」
「どうして、わたしの誕生日が分かったの?」
ケトは自分の年を伝えた覚えこそあるが、いつが誕生日かなんて話をした記憶はない。孤児院のみんなと知り合う中で、生まれた日など何の役にも立たないものだと、そう思うようになっていたから。
だというのに、エルシアはいつの間にか知っていて、ケトに気付かないように準備をしてくれて。こうして、ケトを祝ってくれて。
「秘密」
「ふえっ?」
「なんてね。ギルドカード作ったときに教えてもらったじゃない」
胸から顔を離して見上げると、姉はいたずらっぽく笑っていた。そうして、彼女はケトを抱きしめ返しながら、囁くように言った。
「おめでとう、ケト」
その言葉を、その想いを。姉の温もりを感じ取った瞬間に。ケトの目からポロリと涙が一粒落ちた。
「ケ、ケト?」
驚いたような、戸惑ったようなエルシアの声が頭の上から降って来る。いけない、とケトは慌てた。このままじゃエルシアを誤解させてしまう。
「シアおねえちゃん……」
「ごめん、静かにお祝いした方が良かったかな……?」
「ちがう、ちがうの……」
本当なら、血も繋がっていない、何の関わりもないケトなのに。誕生日のお祝いなんてする必要なんか欠片もないのに。
エルシアはこんなにも、こんなにも、ケトを想ってくれている。一生かけたって返しきれない喜びを、ケトに与えてくれる。
少しでもいい。何か、何かお返しをしたい。心の内から湧き上がる、歓喜と、感謝と、安心と、愛おしさを。これほどまでに幸せな気持ちを、エルシアにもあげたい。
でも、どうしてここまでしてくれるのか分からなくて。どうすればお返しできるのかなんて、ケトにはもっと分からなくて。
ケトはただただ泣きながら、素直な気持ちを囁いた。
「シアおねえちゃん、大好き!」
その瞬間、ケトは視た。
目を見開き、体を震わせ、心は幸福一色に染まり。エルシアのすべてが喜びに満ち満ちて。
隠し切れない感情を湛えて、栗色の瞳が近づく。やがて、少女のおでこと、看板娘のおでこが合わさって。
「ケト、私も大好き……!」
「ほんとに、ほんとうに、ありがとう。シアおねえちゃん……!」
「うん……。うん……!」
町のギルドの片隅で、看板娘と少女はただ泣きながら、互いの温もりと幸福を抱きしめ合った。
―――
ガルドスは、下の喧騒を背にして階段を上がる。
二人が落ち着いた後で、エルシアはケトに外套を贈った。
それを着たケトは泣き腫らした顔のまま、大はしゃぎでフロア中を練り歩いて踊り回っている。騒ぎはもう最高潮を迎え、やんややんやの大喝采だ。
そんな中、ケトをフロアに送りだしたエルシアが一人、静かに場を去っていったのだ。
あれだけの大騒ぎの中で、気付いた者はほとんどいなかった。そう言うガルドスだって、お手洗いにでも行ったのかとしばらくは気にしなかったのだが。
その彼女が戻ってこない。
違和感を覚えて、しばらくチラチラとドアを窺っていたものの、看板娘は一向に戻る気配を見せなかった。何となく気が向いたガルドスは、酔い覚ましも兼ねて探しに行ってみることにしたのだ。
秋の空気がひんやりと肌を撫でる。
食堂を離れると、しんとした静けさが彼を包んだ。階段を登り切った先に、青い月明かりに満ちていて、何だかいけないことをしているような変な気分になってしまった。昔いたずらした時に、よくこんな気分になっていたっけ。
人のいないロビーへ。彼女は果たしてそこにいた。
窓辺に佇んで、月明かりにぼんやりと揺れる細い影。こちらに背を向けているからだろうか。今にも翼が生えて飛び立ってしまいそうだ。
声を掛けることも憚られる、静かな美しさ。けれどもガルドスはその姿に妙な胸騒ぎを感じてしまう。
なぜだろう。エルシアが消えてしまいそうな、そんな錯覚を覚える。まるで王都で泣いていた彼女に感じたような、覚束ない不安。いい大人が何だか怖くなって、ガルドスはその静けさをあえて断ち切った。
「エルシア……?」
「ガルドス」
彼女はちゃんと振り向いてくれた。
なんだかこちら側に戻ってきてくれたような気がして、彼はほっとする。こちら側ってなんだ、とガルドスは説明できない感情に戸惑う。
「どうしたの?」
「中々戻ってこないから、探してた。エルシアこそ、どうした?」
「……ちょっと、飲みすぎちゃって。少しだけここで酔い覚まし」
「確かに、今日は随分と飲んでたな。酒弱いのに」
「そんな気分だったのよ」
隣に立って、二人で外を眺める。
何のことはない、いつも通りの風景。取り立てて眺めがいい訳でもなく、向かいのパン屋や民家が立ち並ぶだけの町の片隅。
でもその時ばかりは、青白い光のお陰でどこか幻想的に見える。
「綺麗ね……」
「ああ、夢の中みたいだ」
素直な感想を漏らしたら、何故か目を丸くされた。
「……貴方には似合わないわ」
「うっせえ、ほっとけ」
自覚はある。そっぽを向いたまま答えると、すぐ隣からクスクス笑いが聞こえた。いつも通りの彼女の反応に胸を撫で下ろしながら、つられて苦笑する。
肩の力を抜いて笑い合うことしばし。ガルドスはふと左腕に重みを感じて、目を見開いた。
「エ、エルシア?」
「何よ」
「……。顔、赤いぞ」
「うっさい、貴方だって同じじゃない」
目の前の窓ガラスにうっすらと見える二人の影。それが、いつの間にか寄り添って映っている。ガルドスの肩に頭を預けたエルシアの頬が、赤く染まっているのが分かる。
きっと自分も似たような顔をしているのだろう。心臓が跳ねまわって、どこか行ってしまいそうだった。
窓ガラスのエルシアが、そわそわと視線を動かす。精一杯のアプローチ。彼女もまた慣れないことをしたせいで余裕がないのだと分かり、ガルドスは赤い顔のまま笑った。
「何よ」
「いや……」
重みを受け止める肩を少しだけ動かす。外れた頭に一瞬顔を強張らせたエルシアが、後ろに回された大きな手に肩を抱かれたことで、その表情を和らげる。
「お前、小さな女の子にしか興味ないんじゃないのか?」
「まだそんなこと言ってんの?」
からかい半分にそう聞いたら、腕の中のエルシアは呆れたようにガルドスを見上げた。余裕の表情を浮かべて微笑み返してやると、彼女はどこかバツが悪そうな顔をして「まあ……」と口にした。
「やっぱりみんなからはそういう風に見えるよね……」
「さっきのは、完全に愛の告白だったろ」
「ふふ、確かに。もしかしてガルも疑ってた?」
「……ちょっとだけな」
「バカねえ」
彼女がガルドスにもたれかかる。重みが増したはずなのに、それでも随分と軽い彼女が、どこか遠くを見つめていた。吐息の音さえ聞こえそうな距離で、桜色の唇が動く。
「私は、あの子とそういう関係にはなれないわ。そもそも求めているものが違うもの」
「……」
「ううん、なれないはちょっと違うかな。きっと私は、そういう関係を築くことだってできたはず。あの子はまだ、恋がどういうものか知らないから」
下の食堂からどっと響く笑い声が、二人の元まで届いた。
「でも、それは私にとっても、あの子にとっても碌な未来を招かないわ。互いに依存しきって、二人だけで世界を完結させることになる」
「……つらいな」
「ええ。その関係はすぐに私とケトを殺す。近い未来で必ずそうなる。それなら拾わない方がまだマシよ」
エルシアをかき抱く手に力を込める。彼女は応えるようにガルドスの胸に頭をこすりつけた。どこか、ケトが姉に甘えるときの仕草に似ていると、大男はそう思う。
「あの子も私も、皆がいるから生きていられる。皆に支えられてここに居る」
「エルシア?」
「それを知っていること。その生き方を教えてくれた、大好きな人に抱きしめてもらっていること。……ね、ガル。こんなに幸せな人間、他にはいないわね」
ガルドスの腕の中で、エルシアがくるりと回転する。
「だから、ガル」
正面から見つめ合えば、潤んだ瞳に赤らんだ頬が視界一杯に広がり、ガルドスは思わず目を奪われる。
蕩けた表情で、まるで愛を囁くように。エルシアは、言葉を紡いだ。
「あの子を、お願い」
「えっ?」
「これからは、私に教えてくれたことと同じことを、貴方があの子にも教えてあげて。世界はこんなに幸せに満ちているんだって、貴女は決して一人じゃないんだって」
「何、言ってるんだ?」
エルシアがガルドスに縋りつく。両手でシャツに爪を立て、首元に頬をこすりつけ、彼女は囁いた。
「カウンターの処理済みの書類の引き出し。天板を二重にしてあるの」
「エルシア……?」
「もしも本当に必要だと思ったら、私が分からなくなったら、そこを見て」
「なんで、泣いているんだ……?」
「ごめんなさい。本当に、ごめんなさい……」
ガルドスの腕から温もりが消え、彼女が離れる。
とっさに力を込めた大きな手から身を捩って抜け出し、エルシアは涙に濡れた瞳で笑った。
「ねえ、ガル。私は貴方に、恋していました」
「シア……?」
「私、随分長いこと席開けちゃった。もう戻るね」
「シア!」
最後にぐいと目尻を拭い、大男を置き去りにして、エルシアは地下へと続く階段へと駆けだしていった。




