エルシア その1
2019/10/14 追記
扉絵を掲載しました(作:香音様)
自分が初めてケンカした日のことを、今でも思い出すことがある。
金の指輪。捨てられる直前に母から渡されたそれは、幼い頃の自分にとって、何よりも大切な宝物だった。
捨てられて、歩き疲れて、ようやくたどり着いた孤児院で。
自分はひたすら隅にいて、ただただ縮こまっていた。当時の記憶はもう朧げだけれど、いつも寂しくて泣いていたように思う。
時間さえあれば、よく指輪を取り出して眺めていた。母からもらった贈り物の中で、唯一自分の手元に残ったもの。とても大事にしていたし、首から紐で下げてずっと離さなかった宝物だった。
それを、少し年上の男の子に取られた。
確か季節が秋から冬に変わるころだったから、孤児院に来て数か月は経っていたはずだ。
体を洗うときはそれを外しなさい。どの子だったかは定かではないが、そう言われたから、なくさないように服に包んで置いておいたのがいけなかったらしい。
水浴びを終えた時には、それがなかったのだ。
血の気が引いた。それはもう、目の前が真っ暗になって、倒れんばかりだった。
下着のまま部屋の外に転がり出たら、そこに少年がいた。そういえば「これを探しているのか?」とか何とか言っていたように思う。
その手に揺れる金色の輝きを見た瞬間には飛びかかっていたから、何を言っていたか正確なところは定かではない。何とかそれを手につかもうと、滅茶苦茶に腕を振り回したことははっきりと覚えている。
手加減など全くしなかったから、結構酷い怪我を負わせたはずだ。事実、彼の額の片隅に今も残る小さな傷跡は、自分が引っかいてできた傷だ。
もっとも、当時何も見えていなかった自分は、その少年の名前がガルドスということだって覚えていなかったのだが。
大人になった今もまだ、彼がその時のことを後悔しているようだ。いつだったか、ミーシャから聞いたので、そのことだって知っている。
でも、自分にとっては、もう違う。
あのケンカこそ、初めて他人に興味を持った出来事になったのだ。
自分の殻に閉じこもり、人の話も聞かず失敗しては、癇癪ばかり起していた幼い自分。それを変えようと思った始まりの出来事は、紛れもなくそれだ。
だからやっぱり、ガルドスには感謝している。
院長と力自慢の男の子達に取り押さえられてゼイゼイ息を切らしながら、ようやく落ち着いた自分は、そこではじめて不思議に思ったのだ。
あの子はどうしてこんなことをしたんだろう、と。
騒動の後、自分も彼も一緒になって院長からお説教を喰らったことに納得いかなかったこともある。だから翌日、わざわざガルドスに聞きに行ったのだ。もう指輪を取られないように、今度はしっかりと握りしめて。
「ねえ」
「な、なんだよ」
顔中に包帯を巻き、あちこちに引っかき傷をこしらえた少年が、不機嫌そうにこっちを見た。ぶっきら棒な口調なのに、ちょっと腰が引けているのが面白かった。
「なんでゆびわとったの」
聞きたいのはそれだけだった。ずばり問いただすと彼は「悪かったって」とまた謝った。
「そうじゃなくて。なんでゆびわとったの」
もちろん自分はまだ怒っていたけれど、聞きたいのは別のことだ。だから、彼の言葉を遮ってもう一回聞いた。
「なんでって……」
「これはわたしのたからものなの。さいごにもらったたからものなの。あなたのものじゃない。なのになんで?」
ぎょっとした顔をした少年は「カタミかよ……」と呟いた。当時は”形見”という言葉を知らなかったから、じっと丸い顔を睨みつけた。
ため息一つ吐いた彼は、諦めたようにようやく口を開いた。自分とはそれ程年も変わらないはずなのに、なんだか偉そうで嫌だなあ、なんてことを思っていたっけ。
「お前さあ、いっつも隅っこにいて、人の話聞いてないだろ。そういうの困るんだよ。教えてやっても全然聞かないし。だからお前の大切なものを取っちゃえば、話くらいできるだろうって思ったんだよ」
思いもよらなかった言葉を聞かされて、目をぱちくりと瞬く。しばし言葉の中身を考えて、分からないことを片っ端から聞いて行くことを決めた。
「こまる? なんで?」
「俺たちは、ちゃんと仕事をしないと生きていけないだろ? そりゃ確かに院長先生が面倒みてくれているけどさ。できることをしないと冬に食べるものがなくなっちまう」
「なんで? なんでなくなっちゃうの?」
「そりゃお前、俺たちは親なし子だぞ。自分達で金を稼がなくちゃ貧乏で死んじまう」
「びんぼうだとしんじゃうの……?」
恥ずかしながら、自分はその時まで母に捨てられたことばかりを考えて、自分の境遇を気にしたことがなかったのだ。
確かにごはんが格段にまずくなったし、服もボロ切れを縫い上げたものに変わったが、それよりも母のことをひたすら思い返していたのだから。
しばらくの間、呆れ顔のガルドスになんでなんで攻撃をし続けた自分は、孤児院と言う場所がどのようなものか、自分の境遇がいかに酷い有様であるかをようやく理解した。
どうやらこのままだと、夕食にはスープすらつかなくなるらしい。それは流石によくないから、呆れ顔の少年にこう頼んだ。
「じゃあ、おしえて」
「え? 何を?」
「いきかたを、おしえて。しんじゃうのはいやだから」
今考えると、我ながらとんでもないことを言ったものだと、苦笑が漏れる。そりゃ少年だって戸惑うに決まっている。
もっとも当時の自分は、お洗濯ってどうすればいいの、と同じような感覚で聞いたのだ。それがどういうことか、深く考えもせず。
案の定、少年はしばらくぽかんとしていたが、やがてニヤッと笑って口を開いた。
嫌な笑みと共に放たれたその言葉を、今でも自分は一言一句間違えずに言える。
「分かった。じゃあお前は今日から俺の子分な!」
自分も自分だが、彼も彼だ。
完全にこき使う気満々じゃないか。なんで生き方を聞かれて、子分になれという回答が出てくるのか。その神経を疑うべきかもしれない。
「あ、そうだ。ねえ、あなたのなまえはなんていうの?」
「はあ!? お前来てからもう三か月経つんだぞ? 今まで何考えて生きてきたんだ、こんの、ちんちくりん!」
お互いに、ロクに考えもしない子供同士のおしゃべりでしかなかった。
でも、と。大人になるまで生き延びた自分は思うのだ。
あの時、自分は間違いなく生き方の一つを教わった。世間知らずの小娘が、この救いようのない世界で生き抜くために、一歩を踏み出した瞬間だったのだと断言できる。
あれから十三年。
成人したエルシアは、部屋の隅で繕い物をしながら、片手で胸元に隠れた指輪を握りしめた。
これはお守り。大切な母の形見。
お守りという呼び方は、別に比喩でも何でもない。最後の最後でエルシアの力になってくれるはずの証だ。
「どうしようもなくなったら、使いなさい」
これを手のひらに乗せてもらいながら、かけられた言葉。
十三年の間、これを”そういう風に使った”ことは一度もない。
それどころか、エルシアにとっては、正にこれこそが自分の人生を縛る呪いであった。どこか見つからない所に捨てようとしては、怖くなって思いとどまったのも一度や二度ではない。いっそあの時、ガルドスがなくしてしまえばよかったのにとすら思ったこともある。
けれども結局、今も指輪は首にかかったまま。
エルシアは自問自答する。
もしもその時が来たら、自分にこれを使う覚悟はあるのだろうかと。間違いなく全てを壊すであろうその力を使えるのだろうかと。
エルシアにはまだ、その答えを出すことができない。
おそらくもう、時間はあまり残されていないというのに。




