スタンピード その3
覚悟していた衝撃も痛みも来なかった。
その代わりに、何かが思い切りぶつかったような鈍い音が、ガルドスの鼓膜を揺さぶる。
やられた? もう俺は死んだのか?
最期の最期で、エルシアの声が聞こえた。いつものぶっきらぼうな「ガルドス」と言う呼び方ではなく、久しく聞いていなかった幼い頃のあだ名で。
なんだか懐かしくなって、彼は口角を少しだけ上げた。
「げっほ、ごっほ!」
場違いな感慨を抱いた罰だろうか。次の瞬間、ガルドスは盛大にむせかえってしまう。
これは土煙だろうか? 激しい機動で息が苦しいのに、土のにおいで息ができない。
どう見ても死んでいない。何が起きた?
咳き込みながら視線を見上げると、そこに何かが立っていた。
小さな影が、オーガの棍棒を受け止めている。オーガどころか、振り回された棍棒よりもずっと小さな姿。
細い手足、そして何より背の中ほどまで伸びるくすんだ銀髪。
「げほっ、……ケト?」
そこにいるのは、酷く小さな女の子だった。
ついこの間、受付嬢と見守っていたはずの小さな背中が、びくともせずに佇んでいる。
手には一振りの短剣。それをただ前に突き出しているだけ。それだけで魔物の剛腕と互角に張り合う光景は、どこか現実離れしている。
エルシアが貸したという安物の短剣は、ガリガリと耳障りな音を立てながら棍棒にめり込んでいた。彼女が、その見た目からは想像もできない程の力で魔物を押し込んでいる。そのことに気付くまでに、ガルドスは少しの時間を要した。
オーガも突然現れた乱入者に驚いたようだった。表情筋を持たないはずのその顔が、どこか歪んだように見えた次の瞬間、オーガの巨体が吹き飛んだ。
「えいっ」
ケトが鍔迫り合いの姿勢のまま、空いている足で蹴りを叩き込んだのだった。身長の低さのせいで、敵の脛に当たった蹴りは、異常な威力を爆発させた。
頑丈な魔物の足があらぬ方向にへし折れ、それでも殺しきれなかった勢いが体をひしゃげさせた。後ろにいた不運な魔物たちはその巻き添えだ。
「な、な……!?」
ガルドスの口から言葉にならない呟きが漏れる。
どう考えても異常な力だった。
本来、オーガの力は人間のそれをはるかに凌ぐ。ガルドスだって鍔迫り合いなどもってのほかだ。
大男の全身全霊をもってして、ようやく数秒を持ちこたえられるかどうかのはずの事を、この少女は簡単にやってのけている。それどころか、鍔迫り合いのまま重心を入れ替え、蹴りまで叩き込んだのだ。目を疑って当然だ。
ふと、ケトの足元の地面が粉々にひび割れていることに気付く。オーガの棍棒を受け止めた時の衝撃で叩き割ったのだろうか。そんなことをして、あの小さな足は大丈夫なのか? この土煙もそれで生じたのか?
そこまで考えたガルドスは、はっと我に返った。
呆然としている暇はない。どう見ても異常な力だが、依然として窮地を脱したわけではない。彼も少女もまだ魔物に囲まれてはいるが、ケトの登場に怯んだ今なら、突破して門まで後退できるかもしれない。
「お、おい、今のうちに逃げるぞ……」
少女の肩へと伸ばした手が途中で止まる。ケトの右手から眩いばかりの光が輝きだしたのだ。
「なんだってんだ、これは……」
呆然と見つめるしかないガルドスの前で、漏れ出ていた光が少女の手に集まっていく。
ただ漫然と光るだけだった光。それが意思を持ったように蠢き、円陣の形に収束する。文様も何もない、ただ輝くだけの円盤が、大小合わせ六重。眩しさに目を瞬く。
「魔法……?」
あまりの眩しさに手をひさしにして顔を背けたガルドスを尻目に、ケトは手を前にかざした。魔法陣が一気に広がり、ひときわ大きな光がケトの手元で弾けた。
「えいやあっ!」
その瞬間、少女の手から光の奔流が噴出した。
ケトが指し示す方向へ一直線に伸びたそれは、通り道にいた魔物たちを文字通り消し飛ばしていく。
その様子は、貫くとか、燃やす、という表現では収まらない。正しく消失させると言った方が正しい。
ケトの後ろに立っているはずのガルドスにまで、そのチリチリとした熱が届いた。少女がゆっくりと手を動かすたびに、まるで破城槌のような奔流の向きが変わり、別の魔物へと殺到していった。
光と熱が魔物を覆いつくし、ようやくケトの手元の光が消えてなくなった時には、彼女の前にいた魔物は残らず消えていた。骨一つ、残らなかったのだ。
地面には焼け焦げた跡がくっきりと残り、あまりの熱に景色が揺らめいている。人間も魔物も関係なく、呆然と少女を見つめていた。まるで悪夢でも見たかのように、現実離れした光景が受け入れられなかったのだ。
その光景を作り出したのがケトなら、その硬直を破ったのもケトだった。辺りに陽炎が立ち込める中で、ゆらりと魔物へと振り向く。
「ガアアアア!」
その視線に耐えきれなくなったように、ゴブリンが叫び声をあげて飛びかかった。ガルドスには目もくれず、ケトに向かって一直線に向かっていく。
ガルドスが我に返って予備のダガーを引き抜いた時には、しかしそこに少女の姿は既になかった。ケトが先ほどまでいた場所の地面が砕け散り、パラパラと土塊が舞う向こうで、飛びかかったゴブリンが吹き飛ばされて、くしゃくしゃになっていた。
小さな体が、矢のように魔物の群れの中に飛び込んでいく。突如突っ込んできた破壊の嵐に、魔物の群れが恐慌状態に陥る。
ぎゃあぎゃあ騒ぐ魔物たちの中をケトの短剣が切り裂く。コボルトをぶん殴り、ウルフは蹴とばされて吹き飛ぶ。オーガすらケトが振り回した短剣の餌食だ。
エルシアもまた、その光景に震えていた。
ショックで鳥肌が止まらない。もはや戦闘ではない。人間離れした力による一方的な蹂躙が行われているように、彼女の目には映った。
あまりに衝撃が強すぎて、ガルドスが助かったという安堵すら麻痺してしまったようだ。握ったままのショートソードがカタカタと震えている。
だがオドネルは違ったようで、額に汗を浮かべながら呟いた。
「まずいな……」
「……え?」
肩に担いだ冒険者の顔を窺う。
「あのチビちゃん、単に力が強いだけで、使い方がまるでなっちゃいねえ。剣の振り方なんて子供のままごともいいところだぞ」
「振り方……。そんなことまで分かるの?」
「ある程度経験積んだ奴ならすぐ分かる。それくらい酷いぞ。あれじゃガルドスだけじゃ支えきれねえな。いずれ後ろから襲い掛かられて一巻の終わりだ」
戦場に視線を向ける。
衝撃から立ち直ったガルドスも同じことを考えたのだろう。彼はケトの後ろにぴたりと張り付くように移動し、ダガーを振るっていた。
「た、助けに行かないと」
「ああ、今なら魔物どもも浮き足立ってる。あの力があれば全滅させることだってできるかもしれない。このチャンスを逃さない手はないぜ……。痛てぇ」
そう言って、オドネルが体を捻る。腰に括り付けていたロングソードを鞘ごと外したのだ。
「こいつをガルドスに渡してやれ。剣がなくちゃいくらあいつでも厳しいだろうからな」
ようやく門までたどり着く。
耐えきれなくなったようにへたり込んだオドネルを衛兵に預けて振り返る。受け取ったロングソードに視線を落とし、エルシアは覚悟を決めた。
「ケトちゃんの援護に行くわ! 動ける人はついてきて!」
もはや閉門のことなど頭から抜け落ちていた。
後続を待っていられず、叫ぶなり門の外へと飛び出す。目に映るのは先程より明らかに数の減った魔物たち。それでも自分達より魔物の方が何倍も数が多い。まだまだ数の優位で押し切られてもおかしくない状況だ。
エルシアにロングソードは重すぎる。
無理に振るうことを諦め、変わりに右手のショートソードに力を込める。
急がなければいけないのは百も承知だが、魔物の群れを突っ切ることは不可能だと分かり切っている。戦場を横目にぐるりと回りこみ、比較的魔物の少ないところへ向かうしかない。探すまでもなく、すぐに先程の魔法の通った道が目についた。
「熱い……、これなら!」
厚底のブーツ越しでも熱を感じるそこに、魔物はほとんどいない。靴という道具を持たない魔物たちにとって、この熱は耐え難いのだろう。まだ陽炎の立ち上る地面を踏みしめ、エルシアは全力で駆け始めた。
ズン、という腹の底に響く音が前方から轟く。何事かと視線を上げたテレシアの上を、オーガの巨体が通り過ぎていく。
恐れをなしたコボルトが、エルシアの脇を駆け抜けていった。突き進むエルシアには目もくれていない。魔物よりもずっと魔物じみた怪力を誇る少女に気を取られているためだろうか。
だからエルシアは、魔物に囲まれているとは思えない程にすんなりと進むことができた。血なまぐさい空気を肺一杯に吸い込んで、大声を上げる。
「ガルドス! ケトちゃんは!?」
「ここだ! 援護を!」
大混戦の中、魔物に囲まれてる二人が見えた。
ケトの手が光って、ゴブリンとコボルトが一緒くたになって弾ける。ケトの後方、彼女の死角を狙ったウルフは、ダガーを逆手に握るガルドスの牽制によって下がらずを得ない。その脇からゴブリンが飛び出してきていたのを、大男が拳で殴りつけていた。
「使って!」
ガルドスがちらりと自分の方を見たのを確認してから、エルシアは左手のロングソードを鞘ごと彼へ滑らせた。残念ながら剣を投げる程の腕力は彼女にはないのだ。
いくらエルシアといえど、もう分かっていた。なるほど、オドネルの言った通りだ。ケトが見ているのは前だけ、横や後方に回り込んでくる敵に全く対処できていない。多数を相手にするこの状況、ケトを一人にしてはすぐに包囲されて終わりだ。
「ケトちゃん! 気を付けて、後ろががら空きよ!」
剣を受けとったせいで隙ができたガルドスの隣に飛び込む。そのままショートソードを突き出せば、別の魔物の影から飛び出したコボルトが喉笛を貫かれ、がくんと力を失った。
「ケトちゃんを守るわよ! ガルドス!」
叫びながら、ショートソードを大きく振るう。武器の使い方が違うなどと言ってはいられなかった。とにかく広い範囲を守らねばならない。ちまちまと一体ずつ突っついている訳にはいかないのだ。
「分かってるさ、正念場だぞ! 凌ぎきれ!」
受け取った剣を鞘から抜き放ち、ガルドスが叫んだ。エルシアはその隣に並び立ちショートソードを構える。
この状況を打破するためにはケトの力が不可欠だ。ケトに弱点があるのなら、それを埋めるのが自分達の役割だと、二人とも言葉を交わさずとも分かっていた。




