保護者の真髄 その2
公爵邸にたどり着いた少し後のこと、エルシアとケトは二人揃って素っ裸で首をひねっていた。
「これなあに?」
「分からないわ……」
二人の前には、不思議な形の金属の筒。壁からにょきりと突き出たそれの上に、小さなレバーが付いている。
旅の汚れを流すと良い。
部屋に荷物を置いてもらった後、そう言われて案内されたのはお風呂だった。
確かにその申し出はありがたい。道中濡れた布で体を拭いてはいたが、やはり沢山のお湯に浸かる心地良さには敵わない。驚いたことにこの屋敷には広い浴室がいくつかあるそうで、ガルドスも別の風呂に放り込まれているようだ。
エルシア達が脱衣室のドアを開けると、侍女が二人控えていた。入浴のお世話を致しますと言われた時は何事かと思ったものだが、どうやら貴族の女性はそれが普通らしい。
「え!? それってまさかガルドスにも……」
「いいえ、元々お手伝いするのは女性だけですよ。髪が長いと皆様苦労されますから」
「あ、そうなんだ。良かった……」
それを聞いたエルシアは、急にそわそわしはじめて侍女に質問していた。どうやら別の浴室で風呂に入っているはずのガルドスのことが気になったらしい。
結局二人は首を振り、侍女には脱衣所から出てもらった。何とか二人だけで浴室にたどり着いた訳だが、そこに現れたのがこの”蛇口”という装置である。お風呂への道のりはまだまだ長い。
「えっと、この取っ手を右だっけ」
「うん。そう言ってた」
エルシアは恐る恐るハンドルに手をかける。ぐっと右に力をかけると、大した抵抗もなくすんなりと回った。隣にいたケトが目を丸くする。
「お水でた。すごい」
「地下から魔法でくみ上げているって話だけど……。これ一体どういう仕組みなの?」
筒の先からちょろちょろと水が流れている。ハンドルを元に戻せば水も止まる。それだけでも感心するのに、流れる水に手を浸してみて、エルシアは更に驚いた。
「あったかい!」
熱すぎず、ぬるすぎないお湯が、蛇口から流れ出す。もう何が何だか分からないと、エルシアはぼやく。
「便利ね、魔法技術って。これさえあれば、もう私たち水汲みなんかする必要ないじゃない」
「わたしもやりた、……へくちっ!」
「おっと、さっさと体洗って湯舟に浸かりましょ」
急いで体を洗うことにした二人だが、続いて何種類もある石鹸と、湯舟に張られたお湯から香る、謎の香しい匂いに度肝を抜かれることになるのだった。
―――
食事をするのにお作法があるなんて、ケトは初めて知った。肉はフォークで、スープはスプーンを使えばいいのではなかったのか。
真っ白なクロスの掛けられた大きなテーブル。椅子におっかなびっくり座った三人は、待ちかねたはずの料理の皿を前にして、真っ青な顔をしていた。
「……なんで、フォークが三本もあるんだ?」
ガルドスが不安を露わにする。あちこち見まわした彼は、部屋の隅で佇む給仕の女性と目が合った瞬間、慌てて皿に視線を戻した。そう、ここにも侍女がいて、彼らを見ているのである。
その様子を見ていれば、大小さまざまなフォークの中から、お気に入りのものを選べばいいという訳ではないことくらい、流石のケトでも分かる。
そもそも目の前にあるこれは、スープなのか。それとも煮込みなのか。
後ろに立っている給仕の人が、「鹿肉のシチューです」とわざわざ紹介してくれたそれは、ケトが知っているシチューとは全くの別物だ。肉がゴロゴロしていてとんでもなく良い匂いを漂わせている。
これだけ具があるのなら、スプーンを使うのはおかしいのではないか? フォークにすべきだろうか?
途方に暮れた視線を上げると、ガルドスと目が合った。お互いに目を瞬かせることしばし、二人はそろって隣のエルシアの方を向いた。一足先に食事に口をつけていた彼女は、シチューを食べるのにスプーンを使っている。
そこまで確認してから、再度ガルドスとアイコンタクト。これまた二人そろって、スプーンを手に取った。
「……ねえちょっと、私だってあやふやなんだから。あんまり参考にされても困るって」
「この前掛けのこと、分かったのお前だけだろ。エルシアがいなかったら俺はなんかの飾りだと思いこんでたんだ。めちゃくちゃ邪魔な位置に飾り置いとくんだなって、偉い人の常識を疑うところだったんだぜ? 頼れる人が他にいないんだよ。ていうか何でお前、作法知ってるんだよ」
こそこそと呟きながら、各々がスプーンを手に取る。ちなみにスプーンは二本。大きい方を使うらしい。エルシアは妙に歯切れ悪く、視線を逸らした。
「……マーサさんが食堂を始めるときに、色々調べたの」
「シアおねえちゃんすごい」
「ちょっと、ケトまでやめてよ。これで間違ってたらすごく恥ずかしいんだから」
夕食の場として用意されたお屋敷の一室は、三人の他誰かが食事をとっている訳ではない。がらんとした部屋で給仕係の視線を感じながら、肩を縮めて食事をとっているのだ。
ケトはスプーンで、大きな肉の塊を掬い上げて齧り付いた。長時間じっくり煮込まれたであろうそれは、ほろほろと口の中で崩れ、えも言えぬ風味が口の中に広がる。
それこそ、人生で一度食べる機会があるかないかというような、とっても高級なお食事。でも、こぼさないように気を遣うし、後ろには人が突っ立っているしで、ケトにはあまり味が分からなかった。
―――
ついでにケトはまた一つ知った。
ベッドは柔らかすぎると眠れない。これは驚きだ。
エルシアと同じ部屋ではあるが、いつものように隣で寝ている訳ではない。別々のベッドで、別々の毛布をかぶって眠ったのだが、どうやらそれがいけなかったようだ。
どうやらエルシアも同じだったようで、夜中何度も寝返りを打つ音が聞こえていた。ブランカの家の、狭くて少し硬い、シアおねえちゃんのベッドが恋しい。
「そろそろ起きようか……」
となりの毛布がもぞもぞ動き、エルシアがもそりと体を起こした。カーテンの下ろされた薄暗い室内でも、姉の余り機嫌の良くなさそうな様子がケトにも分かった。もぞもぞと丸くなって、布団の中で縮こまる。
「……ねむい……」
どれくらいそうしていただろうか。コンコンとノックの音が聞こえ、二人揃ってドアの方を見つめる。
「失礼いたします。ケト様、エルシア様」
返事を待たずに開かれたドアから現れたのは、落ち着いた意匠の侍女服を着た女性。なぜか、二人続いて部屋へと入ってきた。ここに来て、また侍女である。意識しすぎだと分かってはいても、もはや監視されている気分である。
「おはようございます。よくお眠りいただけたでしょうか」
「……ええ、お気遣い痛み入ります」
エルシアが掠れた声で答える。侍女二人は恭しく頭を下げた。
「アルフレッド様がお呼びです。ご支度の後、食堂へお願いいたします」
「分かりました、ありがとうございます」
エルシアの返答を聞いても、侍女はその場から動こうとしない。「あの……?」というエルシアの戸惑った声を聞いて、ケトは頭を上げた。
「お召し物をお持ちしております。まずはこちらにお着替えを」
目が覚めてきたケトは、侍女たちが腕に服を掛けていることにようやく気付いた。持ってきた替えの服より、ずっと質の良さそうなそれに困惑しつつ、ケトはエルシアを仰ぎ見てギョッとした。
彼女は目を細めて口を開く。言葉遣いも口調も柔らかいものだったが、彼女が抱える内心の強い拒絶を確かに感じ取れたのだ。
「申し訳ありません。私どもにはあまりに勿体ないお話です。服であれば私たちも持って来ておりますから、そちらではいけませんか?」
「本日、ケト様は王城にお上がりいただく予定です。身嗜みを整えていただかなければなりません」
エルシアはしばし黙りこむ。その手が胸元にのびかけて、途中で止まるのが分かった。
「……私もケトも、領主様の元に住まう民の一人です。アイゼンベルグ様の家名の元で、孤児の身でありながらも、今は満足な暮らしを送らせていただいている自覚があります。その感謝をありのままの姿で伝えるまたとない機会です。荷物の中には余所行きの服もありますから、その服を着て、謁見させていただくことをお許しいただけないでしょうか」
呆気にとられた様子の侍女二人を前に、エルシアは深々と頭を下げる。
ケトには、その言葉もその行動の意味が分からない。しかし、ここはエルシアに続くべきだというのは確かで、姉に続いて慌ててちょこんと頭を下げた。
侍女の片割れ、先に部屋に入ってきた女性がしばし悩んだ挙句、返答した。
「……畏まりました。ですが、我々にその許可を出せる立場にはございません。朝食にはアルフレッド様も同席される予定です。先に伝えておきますので、そちらから回答いたします。朝食の席にはお持ちいただいた服をお召しいただいて構いません」
「ありがとうございます。平民の我儘でお手を煩わせること、どうぞお許しください」
「滅相もございません。……お召し替えの手伝いはいかがいたしましょう?」
「普段から着慣れている服です。お言葉は嬉しいのですが、一人で問題ありません」
「承知いたしました。では、お召し替えが終わりましたら、そちらの呼び鈴を御鳴らし下さい」
「はい。分かりました」
最後に頭を下げた侍女たちは、部屋の外に出て行く。音を立てないよう静かに閉められたドアを睨んで数秒。エルシアは大きなため息をついた。
「はああ……。朝から寿命が縮んだ」
今度こそ右手が胸元に伸ばされ、服の上から何かをギュウと掴む。同時にケトは、彼女の警戒心が少し緩むのを感じ取った。
しかし今のやり取りは一体何だったのだろう。
流れるような会話の応酬。お互いややこしいくらい丁寧な言葉遣いを使い合っていたし、聞き覚えのない単語がいくつか出てきた。今日着る洋服の話だと言うのは分かっても、侍女が何をしたかったのか、エルシアが何を怖がったのか、少女にはさっぱり分からない。
「さて、何とかなったことだし、着替えるわよ」
「ねえシアおねえちゃん、今のお話どういうことだったの?」
こういう時はエルシアに聞くのが一番だと、ケトは良く知っている。どんなことを聞いても、エルシアは優しく丁寧に分かりやすく教えてくれるのだ。しかしこの時ばかりは、彼女がしばし悩んでいるのが分かった。
「そうねえ……。一言で言うなら、今日の洋服はケトの大好きな紺のワンピ―スにさせてくださいって頼んだのよ」
「ほんと!?」
少女はぴょんとベッドから飛び降りて、荷物を漁りはじめたエルシアに駆け寄る。エルシアは寝癖でボサボサのケトの頭を見て、「先にその頭なんとかしなくちゃね」と笑った。




