ケト招集 その1
2019/10/10 追記
扉絵を掲載しました(作:香音様)
夢を見た。
何度も見てきた悪夢だと、エルシアにはすぐに分かった。この後一体何が起きるのか、自分は良く知っている。
振り返ると、延々と続く泥だらけの道。
振り仰げば、延々と続く雨。
視線を戻してから、くたくたに疲れ切った足を必死に動かす。水を吸って重くなった外套が、旅慣れぬ小娘を苦しめる。
傷一つなかったはずの白く細い足も、履き慣れない木靴のせいでぼろぼろだ。あちこちにできたマメが潰れ、痛みが娘を苛んでいた。
”お家”を出てから、どれくらい経ったのだろう。
隣を歩く女性は酷く辛そうな表情を見せていて、もう我儘を言ってはいけないのだということくらい、世間知らずな娘にも感じ取ることができた。
お気に入りのお洋服も、大事にしていた絵本も、全部、全部売ってしまった。嫌だと抱え込んでいても仕方がないと、いつの間にか割り切るようになっていた。
粗末な服と靴に悩まされながら、追手の恐怖に怯えながら。何日もかかってようやくたどり着いたのは、壁に囲まれた小さな町。
夜闇に紛れるように町に入った娘は、女性に連れられて人気のない道を足早に歩く。まるで迷路みたいで、自分がどこにいるのかなんて分からない。隣の女性に聞いてみても、もう少しですよ、と言う返答しか返ってこなくて、疲れ切った娘は口を閉ざした。
大切なことはすぐに忘れてしまうのに、どうでもいいことはしっかりと覚えている。
グネグネと曲がりくねった路地の途中で、娘は立ち止まった。道の先に小さな影を見つけたのだ。生まれて初めて見たネズミに、娘は悲鳴をあげて女性に縋りついたものだ。
だからどうした、という話。もっと覚えておくべきことはたくさんあったはずなのに。
娘の終着点。それはくすんだ白壁の建物だった。
連れの女性は通りに面した表口を無視して、裏口のドアをノックした。扉が開かれる音は雨にかき消されしまったが、扉の向こうから初老の女性が姿を現した。
その時、娘は何と言われたのだったか。
今となっては、それもほとんど思い出せない。娘はただ、母からもらった指輪を握りしめながら、女性とおばあさんの会話が終わるのをずっと待っていた。
そうだ、おばあさんから「これからうちの子になるのよ」と言われた時、ああ、やっぱりもう母には会えないのだと、漠然と察して泣いたっけ。
ずっと、騒いではいけませんと言われていたから、声を押し殺して泣いたことは、娘の記憶にかすかに残っている。
―――
夢は続く。
あちこちが擦り切れた床の上。金色を求めて転がる。
眼下には、少年の呆気にとられた顔。気にせず無茶苦茶に腕を振り回した。
かえせ。それはわたしのだ。そんなことを言っていたように思う。
慌てて寄って来る子供たちとおばあさん。それが酷く気に障る。
私は見世物じゃない。放ってくれればそれでいい。何が当番だ、何がお金の数え方だ。自分は隅で縮こまりたいのだ。金の輝きさえ手に取れば、それもすぐにできるのに。
母に会いたい。ただ、会いたい。
思い切り爪を立てたせいで、少年の額が裂けて血が流れ出す。あの日見た深紅の血の色に、娘は更に猛り狂った。
自分よりも体の大きな子供たちに強い力で抑え込まれながら、娘は叫んだ。
わたしのおまもりをかえせ、と。
―――
夢は続く。
娘は母の言いつけを破っていた。
ほんの少しだけ開いた扉から、そこら中にある布にくるまりながら、隣の部屋の中をそっと覗く。
母には早く行けと言われたのに、どうしても心配だったのだ。隣の女性もまた、震えながら娘の手に回した手に力を込めた。
母と二人、ずっと過ごして来た小さな部屋。娘は他の場所を知らない。
お気に入りは窓の傍。そこから下を見下ろせば、色んなものが見えるのだ。
その窓を覆い隠すように、細い影が二つ立っていた。顔の見えない男と、顔も声も思い出せない母だ。
倒れた燭台には、火の消えた蝋燭。部屋の外からは、時折聞こえる叫び声。何かを打ち付け合う音も、娘には初めて耳にする響きだ。
男が母に「どこにやった」と聞く。母が男に「捨てた」と言う。
あんなに怖い母は初めてだと、怖くなったことをよく覚えている。いつも優しいはずの母が、こんな声も出せるのかと、幼心に衝撃を受けたことを覚えている。
何だか笑える。自分はもう、母がどんな声をしていたかも思い出せないのに。
嘲笑っているのにどこか誇り高く、母はただ立っていた。それは男が母の胸を刺した時も変わらなくて。だから母が倒れ伏すまで、娘は悲鳴を上げずに済んだのだ。
―――
夢が終わる。
エルシアはふるりと体を震わせた。
一瞬自分がどこにいるのか見失って、目をしばたたく。差し込む朝日に現実感を取り戻すまで、少しばかり時間がかかった。
傍にある温もりに目をやれば、銀の髪の少女がすやすやと寝息を立てていた。
嫌な夢だった。
もう何年も見ていなかった悪夢。とうの昔に折り合いをつけたはずなのに、今になってエルシアを苦しめる。
心細くなって、隣の少女を抱きしめた。起こさないように優しく、それでいてどこか縋るように。
寝巻の薄い布越しに、とくん、とくんという少女の鼓動を聞こえて、エルシアはようやく安心することができた。
大丈夫、私だけじゃない。
ケトだって、ガルドスだって、ミーシャだって、皆が通ってきた道だ。
たまに酷く不安になっても、そのことを考えれば落ち着ける。自分だけが辛い思いをした訳じゃないのだから、感傷に浸るのは傲慢というものだろう。
「でも……」と口からこぼれ出た心の欠片は、酷く切ない声になってしまった。
今だけは、とエルシアはケトの首元に頭をうずめる。もう少しだけこうやって、甘えさせてほしい。貴女が目を覚ましたら、いつものシアおねえちゃんに戻るから。
―――
エドウィン・ボードランドはその日、南門の警備にあたっていた。
王都への街道に繋がる南門は、町へ出入りする人の往来が最も多い、ブランカの玄関口だ。
だからこそ、警備につく人間も忙しくなる。衛兵たちの間で”ハズレ当番”なんて言われるそこは、とにかく不評の持ち場だった。
とは言え、スタンピード後の一時的な商人の増加も落ち着きを見せた今、少しは仕事も楽になっているはずだった。
昨日当番に当たった同僚達も、ほっとした顔をして少しは落ち着いてきたかな、などと軽口を叩いていたことだし。
そう思っていたはずだったのに。
油断しきっていたエドウィンは、その時ばかりは極度の緊張に包まれていた。
「ま、まさか、このような田舎町にわざわざいらっしゃっていただけるとは……」
「すまないね、突然押しかけたりして。迷惑をかける」
そういって微笑む貴公子は、普段見かける旅人や商人とは一線を画する雰囲気を漂わせていた。気品ある金髪に、飾り立てられた豪奢な服装は、ブランカの町ではまずお目にかかることがない。
「め、滅相もありません。ですが、アルフレッド様がいらっしゃるとは思いもよらなかったもので。満足にお出迎えもできず申し訳ございません」
「ああ、いいんだ。気にしないでくれ。いつもの視察とは違って、突然の訪問だからな。何もそんなに仰々しくする必要はない」
従者や護衛を数多引き連れて、びっくりするほど豪奢な馬車から降りて来た青年は、一目で高貴な身分の者と知れた。
それもそのはず、目の前のアルフレッド・アリアスティーネ・アイゼンベルグは、このブランカを含む一帯を治めるアイゼンベルグ公爵家の嫡男なのだ。
おまけに彼の父アイゼンベルグ公爵は、現王政の宰相を務める人物。言うなれば目の前の青年は、カーライル王国の文官トップの一人息子ということになる。いくらなんでも、エドウィンのような一衛兵が言葉を交わすなど考えもつかない雲の上のお人であった。
だというのに、目の前の貴公子は、わざわざ馬車を下りてニコニコしながらエドウィンに話かけてきた。哀れな衛兵は、相方ともども思わず震えながら、直立不動の体勢を取ることしかできない。
頭の中が真っ白だ。普通ならあって然るべき先触れも、今回の訪問にはなかった。もしかして連絡をどこかで聞き逃していたのだろうか。もしそうならとんでもないことである。
「そ、それで、この度のご用向きは?」
ガチガチに緊張しながら、エドウィンは口を開く。
目まぐるしく頭を働かせる。スタンピードの被害の視察なら、公爵家の視察官が夏前にやって来たばかり。毎年恒例の税額決定の視察はまだ先のはず。
それなら、この田舎町まで足を運ぶ用件とは何か、心当たりが全くない。
そもそもこの人たちは宿とか取っているのだろうか。食事はどうか。もし何もしていないのならば、誰かに頼んで大至急手配しなくてはいけない。
アルフレッドは目の前の衛兵の混乱を知ってか知らずか、ゆったりと佇んでいた。
「そのことなんだが、一つ頼みがあってね」
目の前の貴人は悠然と微笑んだ。
「今、とある少女を探しているんだ。その人のところまで、案内を頼みたい」




