夕暮れの窓辺で その4
黄昏空の下、表通りをケトと二人でゆっくりと歩く。
人通りは依然として多いが、流石に昼間程ではない。エルシアはケトの小さな右手を握って、鈴の鳴るような声に耳を傾けた。
「それでね、ジェスがどうしても剣の置物がほしいって聞かないの。サニーとティナが、もう持っているんでしょって言っても全然ダメでね。結局買っちゃったんだよ」
「それは……、何ていうかジェスらしいわね。後で後悔するわよ」
昼の間に散々店を回ってきたケトは、今日の出来事を報告するのに忙しい。日中に比べれば日差しも強くないから、帽子は露店に置いて来た。そのお陰で、少女の顔が良く見える。
ふと、エルシアの視線が一軒の露店に吸い寄せられた。馴染みの雑貨屋が出している露店。店主の親父さんが暇そうにあくびをしているのが見えた。
「……知らなかった。絵本、売ってたんだ」
「うん?」
店先に並べられたとりとめのない商品。その中に何冊かの本を見つけたのだ。表紙を向けて並べられた本の中に色とりどりの絵を認めて、エルシアはケトの手を引いた。
「ねえ、ケト。ちょっとそこのお店に行ってみようか」
「うん? うん」
ニュアンスの違う「うん」に笑いながら、店先へ。近づくと、親父さんが二人の影に気付いて顔を上げた。
「お、いらっしゃい。エルシアちゃんとケトちゃんじゃないか」
「こんにちは、親父さん」
「こんにちは」
ぺこりと頭を下げて、軒先の商品を眺めるケト。その隣でエルシアは店主に話しかける。
「ねえ、奥の絵本を見せてもらえない?」
「ああ、絵本か。三冊あるんだが、どれだい?」
「あるやつを全部、見せて欲しいんだけど」
絵本、という言葉に反応したのだろう。ケトがバッとエルシアの顔を見上げた。所狭しと並べられた品物をごそごそとかき分けた親父さんから、エルシアは絵本を受け取った。
「シアおねえちゃん?」
「約束したからね。どれか一冊、買ってあげるわ」
目を丸くする少女に微笑みを返す。しばらくボケっとエルシアを見上げたケトは、やがて花開くような笑顔を浮かべる。
「ほんと!?」
「ええ。じっくり選んでね」
「うん……。うん!」
今度の「うん」は、喜びに満ちた声だった。
食い入るように絵本に飛び付いて、見比べ始めた少女。その目は真剣そのもので、エルシアは邪魔をしないように道具屋の主人と視線を合わせた。
「嬉しそうだなあ、ケトちゃん」
「読み書きができるようになったら、絵本買ってあげるって約束したから」
「ここまで愛されてると妬けちまうな。その服、前にウチで買っていったやつだろう? 随分手を入れてるじゃないか」
「お陰様で、ケトの一張羅になったわ」
「……本当に、ケトちゃんはエルシアちゃんとこに来て幸運だったな」
ふと視線を感じて、そちらへと振り向く。ケトが一冊の本を抱えて上目遣いにエルシアを見ていた。
「決まった?」
「うん。これがいい」
表紙には、女の子とお城の絵。空には龍の姿も描かれている。抱えて離そうとしないその姿が可愛くて、エルシアは吹き出してしまった。
「”龍の少女の物語”……。親父さん、これいくら?」
「一五〇ラインなんだが、そうさな、良いもん見せてもらったから一二〇ラインにまけとくよ」
「それは助かるわ。ねえケト、お勘定できる?」
せっかくなので問いかけてみると、少女はうんうんと唸り始めた。
「一二〇、一二〇……、銀貨で一枚と、ええっと、大銅貨が二枚?」
「うん、当たりよ。大分算術も身についてきたみたいね」
財布からケトに言われた通りの金額を取り出す。残り少なくなってきた貯金だが、惜しさは全く感じない。紺のワンピースを買った時には大分渋っていたことを、エルシアはふと思い出してしまった。
親父さんに銀貨と大銅貨を手渡そうとしたエルシアは、ふと遠慮がちに服の裾を引っぱられていることに気付いて動きを止めた。
「……ねえ、シアおねえちゃん」
「うん? やっぱり他のにする?」
「ううん、これがいいんだけど、……えっとね」
珍しく言い淀んだケト。その顔を見て何か訴えたいことがあるのだと気付き、エルシアは首を傾げた。
「どうしたの?」
「えっと……、その……、いいの?」
「良いも何も。約束したじゃない。読み書きできるようになったらって」
「そうだけど、でも……」
「ケト?」
少女が戸惑う素振りを見せる。
一体どうしたと言うのだろう。少女の瞳が不安に揺れるその理由が、エルシアには分からない。
黙り込むことしばし。ケトはようやく小さな声で呟いた。
「わたし、シアおねえちゃんに何もお返しできてない……」
「えっ?」
眉を下げたケト。開かれたその小さな口から、ポツリポツリと言葉が零れ出す。
「どうしてこんなにしてくれるんだろうって、ずっと思ってた。ご飯作ってくれて、お洋服つくろってくれて、一緒のお布団で寝てくれて、お仕事の時もちゃんと見てくれて。さらわれた時もすっごくがんばって探してくれて。わたしをおうちまで連れて行ってくれて」
「……」
「変なこと言ってごめんなさい。でも、なんでだろうって、どうしてこんなによくしてくれるんだろうって、考えるんだけど分かんないの。わたし、シアおねえちゃんの役に立ってない。何にもしてあげられていないのに……」
上目遣いで言葉を紡いでいたはずの少女が、少しずつ俯いていく。その代わりに、エルシアの服の裾を掴む手に力が入っていった。
「ねえ、ケト……」
「……うん」
消え入りそうな小さな声。
少女は怖がっていた。今の言葉で、エルシアとの関係が崩れてしまわないかと怯えているのが、力のこもった指先から姉にも伝わる。
だが、聞かずにはいられない。
少女には分からないのだ。これほどまでに気遣ってくれるエルシアの心が、分からないのだ。
慣れないうちは受け取ることに精一杯であっても、それはやがて不安へと繋がる。何もお返しできないせいで、いつか自分から離れてしまうのではないかと、とても怖くなるのだ。
その心細さを、覚束なさを、姉はよく知っている。
何を隠そう、エルシアは割り切ることでその恐怖と折り合いをつけた人間なのだから。
嗚呼、とエルシアの口から声にならない吐息が漏れた。まるで昔の自分を見ているようだと、そんな感慨を抱く。
縋っているのは、エルシアの方だ。与えられているのはエルシアの方だ。
ケトには分かるはずがないけれど、エルシアはもう沢山のものを少女からもらっているのだから。
ただの孤児では、エルシアに拾うことなどできるはずもなかった。ケトだからこそ、エルシアは拾うことを許された。
いつか自分の気持ちを理解してくれるであろう子。いつか自分と同じ壁に突き当たるであろう子。そんな人、この世界に二人といる訳がない。
自分の服の裾を掴む小さな手に、エルシアはゆっくりと自分の手を重ねた。柔らかく微笑んで、口を開いた。
「ね、ケト」
「……うん」
「この後、もう一か所付き合って欲しい所があるの。いい?」
少女は真剣な顔で看板娘を見上げた後で、こくりと小さく頷いた。
―――
手を繋いで、表通りから外れる。
夕陽が二つの影を照らしだす中、ケトはエルシアに寄り添うように、ぴたりと体をくっつけて歩いていた。繋いだ手とは反対の手で、彼女は絵本を大事そうに抱えている。
エルシアは意地が悪い。
これから伝えることが、少女にとって更なる混乱を招くであろうことを予感している。きっと今の彼女にとって、意味の分からない話になることを確信している。
市場の区画はとうに通り過ぎたから、人通りなんてほとんどなくなってしまった。なんだかただの散歩のようだ。時折ちらちらと顔色を窺うケトに、不安そうな顔をする必要はないよ、と微笑み返して、エルシアは見えてきた建物を指さした。
「……ギルド?」
人気のない通りでひっそりと佇むその建物に、ケトが不思議そうな声を上げていた。
いつも持ち歩いている鍵で、表玄関を開ける。建て付けの悪いドアを開くと、カランコロンとベルが音を奏でた。
「誰もいないね?」
「今日はお休みだから」
西日が差し込むロビーはがらんとしていた。
いつもとなんか違う、と呟いたケト。
エルシアが鍵をしまうために手を離すと、彼女はとても心細そうにエルシアを見上げた。繋いだままの方が良かったな、と罪悪感を抱きながらエルシアは奥へ進む。ケトは何も言わずについて来た。
最近のエルシアは柔らかく笑うようになったと、親しい人は皆、口を揃えて言う。普段はそうかな、なんておどけているエルシアだけど、本当は自分自身が一番自覚しているのだ。
当然の話だ。自分の心なんて、自分の願いなんて、他ならぬ自分が一番知っているのだ。
ゆっくりと窓辺へ歩み寄る。
本を抱え、窓ガラス越しの夕陽を見つめる少女。その銀の髪と瞳に朱色がきらめいて、エルシアはそれを美しいと思った。自分の亜麻色では、こうはならないから。
「……きれい」
ケトが外を見て呟く。静かに佇むケトに「そうね」と呟いてから、少女に体を寄り添わせる。後ろから両腕を回して、その小さな体をそっと抱きしめた。
「……ケト」
「シアおねえちゃん?」
不思議そうな少女の声。少しだけかがんで、首筋に顔をうずめる。
「私ね、今とっても幸せなの」
聞こえるのは、自分の声と少女の息遣いだけ。
まるで世界から誰もいなくなってしまったかのようだ。いっそこのまま二人だけで、なんて馬鹿な事は言えないけれど。せめて今、この瞬間だけはこうしていたい。
「貴女がさっき言っていた、何もお返しできないってやつ。あれ、ちょっと違うわ」
「え……?」
囁くような声。耳元で口を開けば、ケトが応えるようにエルシアの手の上に小さな手のひらを乗せてくれた。
「貴女はただ気付いていないだけ。毎日貴女の隣で、笑って、泣いて、悩んで。本当は全部、私にはできないって、ずうっと諦めていたことだったのに。それ私にくれたのは、ケト、貴女なのよ」
顔が見えなくても、今の少女がキョトンとした表情をしていることぐらい、看板娘には分かった。切なく笑って、耳元で囁く。
「ねえ、ケト。貴女には、私の心が視えているのかな? 今、私はどんな気持ちでいる?」
ケトがゆっくりと首を回して、エルシアを見つめたのが分かった。きっと今、そのくりくりした目を丸くしていることだろう。胸の奥をくすぐられるような気分。今、ケトが自分を視ているのだと、分かった。
「……嬉しくて、暖かくて、ふわふわしてる」
「他には?」
「……寂しくて、切なくて、ひんやりしてる。いつもは視えないのに……」
「普段は猫被ってるから。きっと視づらいでしょう」
上目遣いのケトの瞳に自分が映る。亜麻色の癖っ毛と、栗色の瞳が、銀色に染まる。
彼女の目は全てを視通す。彼女が告げたエルシアの心は間違いなく本心だ。だからこそ、エルシアは我慢せずに素直な心を吐き出せる。
「……寂しいのは昔から。それでいい、そうして生きていくんだって覚悟を決めてた」
「……シアおねえちゃん?」
「でもやっぱり、切なくて、冷たくて。貴女に会ったのはそんな時よ」
初めて会って一か月、エルシアは何も気付かなかった。ギルドの職員として、孤児院の子と接するように、ケトと接した。
それが根底から覆ったのは、魔物の襲撃の時。町の戦士たちが度肝を抜かれる一方で、エルシアだけは全く異なる種類の衝撃を受けていた。
「ようやく仲間を見つけた、戦う貴女を見てそんな気がしたわ。その子は私よりもずっと小さくて、守ってあげたいなって思ったの」
言葉にしながら、エルシアは苦笑する。本当に、なんて傲慢な考えだろうか。自分はどこまでも救いようがない。
「それから、私が思った通り貴女は沢山の喜びを私にくれた。何が、なんて言われても困るわ。いっぱいありすぎるし、どれもケトにはピンと来ないだろうし」
「分かんない……」
「難しいことばかり言ってごめんね? 簡単に言うなら、そうね……」
目を伏せ考えることしばし。簡単な言葉で、ケトにこの気持ちを伝えたい。
「ありがとう」
「え?」
「私を受け入れてくれて、ありがとう。私に拾われてくれて、ありがとう。……私の妹になってくれて、ほんとうにありがとう」
胸の前に回した腕から、少女の鼓動を感じる。自分の心臓もまたとくん、とくんと脈打って、少女の体温と溶け合う。
自分が言いたい事が、彼女に全て伝わる日。
もしそんな日が来たなら、そのとき既に日常は崩壊していることだろう。自分がいつかケトの元にいられなくなることを、エルシアは知っている。だから煙に巻いて、その日が来なければ良いなんて、そんなことを看板娘は思ってしまうのだ。
この幸せがいつまで続くかなんて分からない。
エルシアは、今の生活が奇跡のような偶然で成り立っていることを知っている。だからこそ、今のうちに伝えたい。
息を吸って、想いの丈を口にする。
「ねえ、ケト。私、貴女を守るわ。何があっても、たとえ貴女の隣にいられなくても。貴女が私を必要としなくなるまで、絶対に、貴女を守り抜いてみせる」
「……シアおねえちゃん?」
「だからお願い、ケト……。その時が来るまで、ずっと私と一緒にいて」
ケトの戸惑いを肌で感じる。
彼女はきっとエルシアが何を言っているのか、半分も理解していないのであろう。それでも、少女は一番受け取ってほしい想いを受け取ってくれたようだった。
重なったケトの手に力がこもる。小さな体を摺り寄せて、心地良さそうに目を閉じて、少女は看板娘に囁き返す。
「……うん。ずうっと一緒だよ。シアおねえちゃん」
夕暮れの窓辺で、二つの影はいつまでも寄り添っていた。




