路地裏の攻防戦 その13
いくら藁を敷きつめたところで、地下牢の石畳は、それなりに冷えるものだ。
しかし、ランベールにはそこまで居心地が悪い空間には感じられなかった。体をぐっと伸ばしつつ、空になった木皿をボーっと眺める。
流石の彼も、牢屋に入ったのははじめてだった。雨漏りのする地下室でカビ臭いパンを食べる自分を勝手に想像していたが、どうやらそんなことはないようだった。
粗末なベッドではあるが、藁はそれなりに与えられるし、食事だって質素だが、スープとパンの他に一品が付いてくる。先程食事を届けてくれた衛兵に聞いたら、彼らの献立と同じものをもらっているそうだ。あんたのだけ別に作るのは面倒だろ、という言葉にちょっと申し訳なくなった。
捕らえられたと言うのに、どこか心は凪いでいる。例えるなら、ずっと背負っていた重い荷物を下ろしたような気分。唯一の気がかりと言えば、残して来た家族のことくらいか。
終わってみれば、今回の依頼がどれほど自分にとって苦しいものか、よく分かった。
あれこれ理由を並べたところで、自分がやったのはただの人攫いだ。もしも成功していたら、もっと胸糞悪い気分になっていたのだろう。しかし、失敗したせいで自分はこんな場所に放り込まれる羽目になったのだから、人生ままならないものである。
北門の衛兵詰所の地下にある牢屋。
そこがランベールが捕らえられた場所だった。長らく使われていなかったというそこは、突然の罪人のせいで急いで掃除する羽目になったのだとか。
この階にいるのはランベール一人だ。階段を上がった場所に誰かしら衛兵がいるとはいえ、この不用心さは大丈夫なのだろうかと、彼は心配してしまう。
入口の格子がガタついていた。その気になれば突破もできることに、お人良しの彼らは気付いていないのだろう。だが、少なくとも今ばかりは脱獄を試す気にもなれなかった。
どこかで自分は疲れていたのかもしれない。
藁の上に寝転がって、何もすることがなくなって、ランベールはようやくそのことに気付いた。
故郷が魔物に襲われてから、ずっと何かを決め、動き、戦ってきた。失ったものを嘆く時間もなく、必死に生き足掻いて来た。
口元に気の抜けた微笑みが浮かぶ。さあ、今日は何を考えようか。まさか齢三十を過ぎて、自分の心の内を整理することになるとは思わなかったが、こういうのも悪くない。
寝返りを打ったランベールの耳に、ふと誰かの足音が聞こえた。
「二人……?」
見回りの時間にはまだ早いが、何かあったのだろうか。また取り調べかとも思ったが、それにして様子がおかしい。
衛兵の足音とは別に、もう一つ随分と軽い足音が聞こえる。ランベールはだんだんと大きくなる会話に耳を澄ませた。
「……エドウィンさん。無茶ばかり言ってごめんなさい」
「……まあ、今回の騒動に大分尽力してくれたからな。攫われたのはケトちゃんだし」
「ありがとう、ほんと恩に着るわ」
「ロンメルさんから話をもらった時は、とうとう頭おかしくなったのかと思ったんだが。理由聞いてもよく分からんし。……本当に一人で大丈夫か?」
「ええ」
カツン、カツンと足音が響く。通路の蝋燭がかすかな風に揺れたのだろう。鉄格子の薄暗い影がざわめいた。
「……ほら、そこの牢だ。俺は戻るから、終わったら声かけてくれよ」
「ありがとう」
足音が分かれた気配。一つは来た道を戻り、もう一つはランベールの方へまっすぐと向かってくる。やがて地下のひんやりとした空気を割って、一人の女が姿を現した。
「こんにちは。人攫いさん」
女が持つカンテラの火が揺れる。たった一日地下にいるだけなのに、その光が酷く眩しくて、ランベールは目を細めた。
「眩しいな……」
「……あら、ごめんなさい。そこまで明るくない物を借りたんだけれど」
そう言いながら、女はそれでも直接目に入らない場所にカンテラを遠ざけたようだった。
思わず喉の奥で乾いた笑いが漏れる。それを聞いた女が不思議そうに首をかしげるのが分かった。
「……何かおかしかった?」
「いや、誰かしら来るだろうとは思っていたんだが……」
目を何度か瞬いてから、女を見やる。見慣れた制服はいつも通りだが、腰に吊り下げられたショートソードを見て、穏やかではないなとため息を吐いた。
「人選に文句がありそうね」
「いや、予想通り過ぎて。つい笑っちまった」
「そう。それは何よりだわ」
無関心を形にした声。きっと妹の前でこんな声を出すことはないのだろうなと、そんなことを考えつつ、ランベールは問いかける。
「それで? こんな穴倉に何の用だ、受付さん」
鉄格子越しに数歩離れた位置にいる冒険者ギルドの受付嬢を見やる。この距離では手を無理やり伸ばしても届かないだろう。ランベールに暴れる気はないが、とことん抜け目のない女だ。
「答えなんて分かり切っているでしょう? ま、ありていに言えば教えて欲しいのよ、色々と」
「悪党が素直に教えると思うか?」
失敗した自分には、もう彼女への返答を隠す理由もない。
それでも、少しばかり足掻いて見せたのは、彼なりのプライドだ。だってそうだろう。ここですぐにぶちまけてしまうのは、いくら何でも節操がなさすぎる。
「悪党、ねえ……」
口元に手を当て、受付嬢は困ったような表情を浮かべる。想像と違う反応にランベールが戸惑っていると、彼女はうーんと唸ってから、牢の中の罪人を見下ろした。
「でも貴方、わざと捕まってくれたじゃない。悪党というにはお人良しすぎるわ」
「ケトに聞いたのか……」
「ケト? あの子何か言っていたの?」
人の心を”視通す”少女。彼女が姉に何か話したのかと思ったが、どうやら違ったようだ。彼女はそのまま牢の前でしゃがみこみ、ランベールの顔を覗き込む。
では何故そんな言葉が出てきたのだろう。そう訝しんだランベールだったが、次の瞬間目を見開くことになる。
「てっきり絡め手を使ってくるかと思ったのに、素直に逃げるばっかりだし。お陰でいくつか気を回していたのが無駄になったわ」
「何……?」
「私たちがどう動くか、貴方ある程度読んでたでしょ。裏をかく別の手も考えていたでしょうに、貴方はあえて単純な方法を使った」
目の前の女の言葉が理解できなかった。
何を言っているのか分からないのではない。少女に聞いたのでなければ、何故それを知っているのか分からないのだ。
務めて平静を装って、受付嬢を見返す。鉄格子の向こうの栗色の瞳は、まるで罪人の心の内を全て読み取ったかのように、深い色を湛えていた。
「あ、強いて言うなら、貴方以外の人攫いたちを別行動で逃がしてたっけ。良かったわね。貴方の狙い通り、他の五人はこの町から逃げたわよ。そっちは私完全に放置してたから」
「……」
ランベールには黙り込む以外の選択肢がなかった。
ギルドの職員ごときに全て見破られている混乱を、見せないようにするのが精一杯だ。
確かに、別の手はあった。幾重にも罠を張り、本命を確実に逃がす方法が。その手を使わず、ただ愚直に町の脱出を図ったのは自分の判断。それは事実だ。
それでも最短経路を使わないくらいの気は回した。その程度でも普通の人間なら撒けると判断してのこと。そこに手を抜いてなど一切ない。
「あれ、違った?」
女にぐっと覗き込まれる。キョトンとしたその顔が、何故かランベールに酷く恐ろしいものに見える。
「……よく分かったな、その通りさ。正直あんたらのこと、舐めてたよ」
お望み通り唸るように返したというのに、女はなぜか訝しげな表情を見せた。
その口から「舐めてたねえ、本当にそれだけ……?」というつぶやきが聞こえ、ランベールは心底肝を冷やした。それ以上見破られたら、色々と顔も向けられない。
女の亜麻色の癖っ毛が揺れる。大きな目でしばらくぼんやりと罪人を見つめると、その口元ににやと嫌な笑いを浮かべた。
「まあ、これ以上突っ込むのは野暮かもね。ごめんなさい」
「……全部お見通しとでも言いたげだな」
嘲るように言い返すと、彼女はいやいやと首を横に振った。
「まさか! 乗り気じゃない依頼を受けたはいいものの、偵察で敵に情が湧いちゃって、わざと単純な手を使っちゃった、とか。依頼を受けた手前、途中で投げ出すこともできないから、私たちに止めてもらいたかったんじゃないか、とか。そんなことは一切考えていないわよ?」
「……!」
全部見透かされている。下手なことを言うんじゃなかったと、ランベールは後悔した。
確かに、目の前の女の言う通りだ。
途中で自分の取った方法が完全に読まれていることに気付いた。それでも馬鹿の一つ覚えのように町を突っ切ったのは、どこかで自分の悪行を止めてもらいたかったからに他ならない。
自ら諦めることは許されなかった。もしそれをしてしまえば、故郷の復興がままならなくなる。
逃げることもできなかった。もしそれをしてしまえば、家族にどんな危害が加えられるか分からない。
結局自分は、ケトと言う少女のことを、深く知るべきではなかったのだ。何も知らなければ、淡々と依頼をこなすことができたのに。
あの子はつい最近、身寄りを失くしたらしい。スタンピードで両親を殺され、故郷を壊されたのだとか。
あの子はつい最近、受付嬢に拾われて、ようやくまともな生活ができるようになったのだとか。
あの子はつい最近、ようやく故郷に帰ることができたのだとか。誰もいない故郷から、受付嬢に身を摺り寄せて戻ってきたと、ギルドの常連から聞いた。
彼女を知れば知る程、躊躇が生まれる。ランベールの故郷にだっていくらでもいた、親を失った孤児たち。そんな彼女を拠り所から引き離す。何という残酷なことを、自分はしようとしているのだ、と。
知ったから、情が湧いた。受付嬢に寄り添う少女を守ってやりたいとさえ、思ってしまった。少年の後ろで震える彼女を見ていられなかった。
本当に何というザマだろう。”金札”が聞いてあきれる。
「……だとして、何だ? あんたは嘲笑いにでも来たのか、受付さん」
「そんなに私、暇じゃないわ。言ったでしょ? 聞きたいのよ、色々と」
くっきりとした大きな目が、ランベールをしかと見据える。これ以上余計な事を言われたくなくて、ランベールは思わず声を荒げた。
「グダグダと余計な事ばかり言いやがって。とっとと本題に入れ!」
まるで手のひらの上で転がされているかのような感覚。長年培ってきた勘が、目の前の女を指して、危険だと判断している。
ランベールの怒声にも、女はたじろぐ素振りを見せない。その代わり口元に手を当てて考え込む素振りを見せてから、口を開いた。
「そうね、まず最初はこれかな? ケトを攫う依頼を出したのは誰?」
そのませた面に拳をぶち込んでやりたい衝動を押さえながら、ランベールは「知らねえな。クヴァルデコークとか名乗る、ローブを被った男だった」と嘲笑った。
別に嘘は言っていない。事実として知っているのは、”四十八”という妙な名前のみ。正体もある程度推測はついていない訳ではないが、目の前の女に教えたくはなかった。
「それだけ?」
「ああ、それ以外知らない。おかしな依頼を出してくる奴だ、深入りしようとは思わなかったのさ」
「なるほどね。じゃあ聞き方を変えるわ」
女はつまらなそうに地面を見つめて、気負いのない口調で問いかける。
「貴方、誰を庇っているの?」
「……庇う?」
思いもよらない言葉に、思わず聞き返してしまう。
「衛兵隊へ供述した内容は、私も一通り聞いた。スタンピードの被害を受け、生活が困窮していたのは事実。正体不明の何者か、クヴァルデコーク、さん? にケト誘拐の依頼を受けたのも本当。ついでに言えば、それと引き換えに多額の援助を受けたそうね」
「その通りだ」
確かに衛兵隊にはそう答えた。嘘は言っていないし、なぜ人攫いに手を染めたのかと聞かれれば、理由はまさにそれだ。
「でもね、腑に落ちないのよ。貴方みたいな腕利きが、そんなあからさまな悪行の依頼を良しとするとは思えないもの。でも、貴方はそれを引き受けたのは事実だし。ねえ、どうして依頼を受けたの?」
「あんた今自分で言っていたじゃないか。金に困っていたからってな」
彼女の望む答えを返す方向へと誘導されている。それが分かってなお、ランベールは抗う方法を見つけられなかった。
「今回のことと言い、貴方は結構他人を思いやるタイプの人でしょう? いくら生活に困っていたとは言え、そんな男が、見るからに怪しい悪行の依頼を受けるはずがない」
「……はっ。あんたが俺の何を知っていると言うんだ?」
断定するような口調に思わず鼻を鳴らす。初めて会ってから一か月も経っていない。たかだかその程度の付き合いで、自分の人となりを判断されたくはない。そんな思いを込めた言葉は、しかし平然とエルシアに返される。
「”金札”は目立つの。冒険者の登録をたどって分かる情報と、他の町から伝え聞いた噂。人となりはそれである程度は量れるというものよ。クシデンタの冒険者ランベール・バーネットさん」
「……人のこと、あまり根掘り葉掘り調べるんじゃねえよ」
唸るように言い返しても、エルシアは微動だにしなかった。
「そんな貴方が義理立てする相手。一体どんな人か気になるわ。例えばそうねえ……スタンピード復興の援助をしてくれた人、とかなら無下にはできないかな、なんて想像してみたんだけど?」
軽い口調とは裏腹に栗色の瞳が爛々と輝く。その目を見て、ランベールははじめて恐怖を覚えた。
目の前の女は、自分が思っている以上に今の状況を理解している。日常を過ごす仮面をかぶるその姿はどこまで本物なのだろう。彼女は裏で、一体どのように立ち回ってきたのか。
「あんた、どこまで知って……?」
「さあね。私には全然分からないことだらけよ。でもね、昨日言った通り、私はケトを守りたい。そのためならなんだってする。持っている知識と状況からの推測で何とでも考えられるし、打てる手は全て使うわ」
その言葉に、ランベールはようやく気付かされた。
思い違いをしていたのだ。自分を含め人攫いの一味の誰もが、少女の力に惑わされ、本当に警戒すべき人間を見誤っていた。
目の前の女こそが、最も危険な人物。彼女自身が己の非力さを自覚し、周囲を動かすことで自らの力と為すタイプの人間。
相手にしたガルドスとミーシャの連携。自らを囮にすることで状況を整えるまで包囲に気付かせず、満を持しての戦力誇示。そして降伏勧告。いずれも、タイミングが良すぎるとは思っていたのだ。
それを為していたのが目の前の女かと、ランベールは納得する。
ギルドの職員という役職をこれ以上なく利用し、あれだけの状況を作り出した人間。これを危険と言わずして何と言う。
「……あんた、一体何なんだ?」
その言葉は取り繕うこともできず、口の端から零れ落ちた。
亜麻色の髪を揺らし、栗色の瞳を光らせ、彼女は答える。
「私はエルシア。この町のギルドの職員よ」
口から漏れた「……ギルドの職員だと?」という言葉は、意図せず掠れた。
「……あの小娘のほうが、まだ可愛いもんだった」
精一杯の敵意を持って睨みつけても、看板娘はまっすぐに見返すだけ。その瞳がガラス玉のように思えた。
「あの子なんかより、あんたの方がずっと、”化け物”だ」
その言葉が相手に届いた瞬間、ランベールは鳥肌が立つのを自覚した。
看板娘の口角が歪に上がる。自嘲するような微笑みを浮かべた彼女は、どんな魔物よりも、化け物に相応しい表情をしていた。
「今更気づいてもねえ。ランベールさん?」
「……!」
「貴方の言う通りよ。私は”化け物”。私と相対して無事でいられるとは思わない事ね」
エルシアは、ほの暗い笑みを浮かべて罪人を見下ろした。
「さあ、人攫いさん。洗いざらい喋ってもらうわよ」
―――
ギルドへの帰り道をたどりながら、エルシアは思考を巡らせる。
市場の片隅、通りは買い物客で人通りも多い。
おそらく町の人たちは今回の騒動を単なる人攫いだと捉えているだろう。現に、エルシアも王都へ提出するギルドの報告書にそう書くつもりだ。
だが、事はそう単純ではない。
その下に蔓延る何か。それがこの程度で諦めるとは思えない。
スタンピードの復興を支援し、人々の心を掴む。そうして恩を売ってから、お願い事という名の命令で、他者を動かす存在。
ケトを狙ったのは、その”何者か”で間違いない。どこからか、少女の異能の力の話を聞きつけて、確保しようとしたのだろう。
そして、懸念点はもう一つ。
先程ランベールから聞いた、人攫いの一味を監視していた人間。
”金札”をして、辛うじて察知できるかどうかというからには、潜み、隠れることに秀でた隠密に違いない。
ランベールに依頼をかけた敵が、彼らの動きを見張るために遣わした可能性。それも考えなかったわけではないが、エルシアは違うと踏んでいた。
確かに人攫いの一味は寄せ集めだった。それに監視をつけると言う意味で、可能性はある。だが、それならば人攫いの一味に監視の存在を伝えないのは理にそぐわない。
「だとすると、きっと……」
考えが口の端から漏れ、慌てて口を噤む。すれ違った旅人が不審そうな視線をエルシアに向けている。少し考え込みすぎた。
いずれにせよ、今回は敵を退けることができたのだ。とりあえずは良しとすべきだ。自分がなすべきことは揺らがない。
「……私も覚悟、決めなきゃね」
通りの先に見慣れたギルドの建物が視界に入り、エルシアはぐっと拳を握りしめた。




