路地裏の攻防戦 その1
「ママぁ……。パパぁ……」
「ケト。大丈夫よ、ケト」
「やだよお……。こわいよぉ……」
「大丈夫よ、大丈夫。私がここいるわ。怖いことなんて何もないから……」
呻くケトを、エルシアは優しく抱きしめる。夜闇の中、少女の背中に回した手でそっと背中を撫で続けた。
早く目が覚めれば良いのに、と思う。悪夢なんて消し去ってあげられたら良いのにと、そう思う。どちらもできない姉には、ただ抱きしめてやるしかなくて、それが何とも不甲斐ない。
大丈夫、大丈夫と声をかけ続けていると、少しずつ嗚咽が静まっていく。少女の涙がエルシアの胸元に染みて、冷たさが胸に痛かった。
それから少しして、少女がゆっくりと身じろぎした。
「……シアおねえちゃん……?」
「目が覚めた?」
腕の中の少女を見下ろして、長いまつげを濡らす涙をそっとぬぐう。ケトはぐずぐずと鼻を鳴らしながら、再びエルシアの胸に顔をうずめた。姉の寝巻を掴む指に、きゅうっと力がこもる。
「怖い夢を見たのね……」
「ううぅ……」
「怖かったね……、大丈夫、もう大丈夫よ」
小さな頭を抱え込んで撫で続けていると、徐々にくぐもった泣き声が落ち着いてくる。少しずつ力が緩んで、やがて再び静かな寝息が聞こえてきた。
少女が魘されるのは、何も今日が初めてではない。
最近少しずつ減ってきたとはいえ、ブランカに帰って来た直後は、それこそ毎日のように魘されていたのだ。そのたびにエルシアは、小さな体を抱きしめてやっていた。
もう怖いことなんてないのだと。ここはケトにとって安心していい場所なのだと、そう言い聞かせるように。ただ、頭を、背中を、優しく撫で続ける。
閉じられた瞼にたまった涙を拭ってあげてから、エルシアも目を閉じた。
夜明けまではまだ時間がある。せめて朝まで、ゆっくりと休めるといい、そう思った。
―――
カーテンの隙間から差し込む朝日に促されて、ケトは目を開いた。
名前も知らない鳥が窓の外で鳴いている。日差しに照らされて映るのは、整ったエルシアの顔。普段はキリっとしている姉なのに、寝顔はなんとも柔らかく可愛らしい。かすかに口を開いて寝息を立てるその表情はどこか幼く見えて、ケトはエルシアのそんな顔も大好きだった。
夢を見た気がする。
中身を詳しく覚えている訳ではないが、いつもの暗くて怖い夢だ。ケトにはそれがよく分かった。
断片的に思い出すのは、大きなかがり火と、暗い森の中。洞窟の中に響き渡る叫び声。見知った家の変わり果てた姿。あまりの恐怖に悲鳴を上げると、毎回エルシアが抱きしめてくれて、それでようやく目が覚めるのだ。
そんな時は大抵、現実の自分もエルシアに抱きしめられている。
ふとした瞬間に押し寄せる寂しさだって、姉に縋りつきさえすれば紛れると、ケトの心の奥が知っている。胸がポカポカと温かくなって、ケトは姉へと頬を摺り寄せた。
グリグリと頭を押し付けていたケトは、ふと、エルシアの胸元にこつんとした感触を感じた。そちらに視線をやると、普段はシャツの下に隠しているエルシアの指輪がシーツの上に転がり落ちているのが視界に入った。
エルシアのお守り。事あるごとに姉が服の上から感触を確かめているのを見るに、どうやら大事なものらしい。
思わず手を伸ばして掴んでみる。朝日に照らされて、きらりと光る金色が眩しい。
不思議な指輪だった。指の背に来る部分が大きく広がっていて、そこに複雑な文様が彫られている。ケトは本物の指輪というものをこれしか知らないけれど、お話の中に出てくるものは宝石なんかが付いているものではないだろうか。この指輪にはそれがないのはなぜだろう。
実際に手に取ってみたケトは、ふと内側に模様が彫ってあることに気付いた。よく見ればその模様が文字であると分かって、ケトは心を躍らせる。
文字もエルシアが教えてくれた。本を読む楽しさは孤児院のサニーとティナが教えてくれた。毎日少しずつ、少しずつ、知っている単語が増えていく。それは、ケトの世界が少しずつ広がっていくことを意味しているのだ。
――ら、い、る、え、る。んーと? し? あ、あが二つある……り、あ、す、て。んー? い?、ね……?
知らない言葉だ。内側にぐるりと文字が刻まれているせいで、どこから始まるのかすらよく分からない。
だけど、ある程度音は分かるようになった。それは姉にアルファベットを教えてもらったからこそ、出来るようになったこと。
目を凝らして読み取って、小声で口に出して。そんなことをしていたら、いつの間にかエルシアが目を開いて、ケトを見つめていた。
「……文字、読めた?」
普段の彼女からは想像できない程ぼんやりした声が、ケトの鼓膜を優しくくすぐる。ケトは指輪から手を放して、エルシアの胸に頬を寄せた。
「読めた。でもね、なんか全然よく分からなかったの」
「そっかあ」
キュっと優しく抱きしめてくれたのが嬉しくて、ケトはへにゃへにゃと表情を緩めた。
―――
ジェスの父は、英雄だった。
母が流行り病でなくなってから、男手一つで育ててくれた父。昼は冒険者として食い扶持を稼ぎ、夜は夕食を作って一緒に食べる。
確かに酒を飲めばうるさいし、外でギルドのお姉さんにちょっかいをかけているのは聞いたことがあったけれど、大好きな父だった。
酒場にも行かず、日が暮れるころになると急いで帰ってくる父。「お前がでっかくなるまで、守ってやりたいしな!」と事あるごとに口にしていた父。絶対に口には出さなかったけれど、ジェスの夢は父親みたいな腕利きの冒険者になることだった。
その父が、死んだ。
他の冒険者から、話を聞いた。彼は魔物の襲撃から町を守って死んだのだと、そう言っていた。皆が、口を揃えて言った。「彼は英雄だ。最後まで退かずに、町を守ろうとした」と。
柩の中の父は、まるで眠っているようだった。普段は大口を開けて鼾をかいているのに、この時ばかりは口を閉じて静かに横たわっていた。こんなのおかしいと、ジェスは情けなく悲鳴をあげた。
親類のいないジェスは、天涯孤独の身になった。呆然としながら、父を殺した襲撃が”スタンピード”という名前だったと知り、その原因が掴めないことを知った。だからと言って、彼に何ができる訳でもなかった。
呆然とするジェスを他所に、あれよあれよという間に時間は過ぎていく。町の復旧に目途が付き、気付けば十一歳のジェスは、一年間だけ孤児院に入ることになった。
今でも、悪い夢を見ているんじゃないかと思うことがある。
暖かい毛布にくるまっていても、ジェスは早朝に目を覚ます。それは昔からの日課。理由なんて決まっている、ギルドに向かう父を見送るためだ。ほら、もうそろそろ目を開く時間で。
暗闇の中、ジェスは目を覚ました。
周囲には沢山の寝息。少し肌触りの悪い毛布の感触。一瞬自分がどこにいるのか分からなくなる。父さんはどこだろう……?
辺りを見渡した少年は、また絶望に突き落とされる。いくら探しても、父はもういない。ジェスは今日も、慣れない孤児院の水汲み当番でしかない。
「ちくしょう……」
上手くいかないときに父がついていた悪態が、口の端から零れ落ちた。重たくひなびたカーテンの隙間から、朝日が零れ落ちている。それを見ながら、ジェスはぐいと目じりに付いた滴を拭った。
ジェスの父、冒険者カーネルは英雄だった。
そしてまた、英雄のいない今日が始まるのだ。
―――
男は人目に付かない路地裏に潜んでいた。
町の中でも、空き家の多い西側の片隅。気の良いギルドの常連から、治安の悪いこのあたりを指して”西町”と呼ぶのだと教えてもらった。
指定された場所に向かいながらも、男は尾行の確認を欠かさない。もっとも、お人良し揃いのこの町の住人は、自分のことを欠片も疑っていないとは思うが。
差し込む朝日が、今日に限って恨めしい。男は影から影へと渡り歩きながら、一軒のあばら家に入る。
これから会う者達の内、顔を知っているのは取り仕切り役の一人だけだ。恩ある”彼ら”からの紹介とは言え、警戒するに越したことはない。いつ何が起きても対処できるよう、男は細心の注意を払いながら廊下を進んだ。
鞘に入ったままのロングソードに片手に添えつつ、反対の手でドアを開けると、複数の人影が佇んでいるのが見えた。それなりに広い空間に、数は六。瞬時に判断する一方で、男は声を発した。
「すまない、遅くなった」
値踏みするような視線が一斉にこちらを向く。
そのどれもが酷く疲れたような色をたたえているように見えるのは、決して気のせいなどではないだろう。どうせここに集まった者たちの境遇など大差ない。傍から見れば、きっと自分も同じような目をしているはずだった。
「それでは、始めましょうか」
無言で視線を交わす気まずい時間を断ち切るかのように、部屋の奥にいた人影がぽんと手を打った。目立たない色の外套の下から、白いローブがちらりと覗いた。
自分に声を掛けてきた人間。”彼ら”に紹介された通り、やはりこの人物が今回の取り仕切り役のようだった。
「まず、あなた方のご協力に深い感謝を。皆さんお互い初対面だとは思いますが、今回は目的を同じくする者同士、是非とも有益な関係を築いていただきたいと思います」
慇懃無礼な言葉遣いが、”彼ら”とよく似ているように思える。隣の人影が、くたびれた剣の柄を撫でながら、口を開いた。
「御託を並べたって、やることは人攫いなんだろう? なら下手に慣れ合うより、とっとと終わらせた方が良い」
男はあえて何も言わなかったが、心の中では全面的に同意した。
取り仕切り役は、温和そうな眉をへの字に曲げ、心持ち残念そうな顔をして見せた。
「確かに、皆さんにお願いすることは、大っぴらにできるものではありません。辛い状況にある皆様にこのようなお願いをするのは、私も心苦しいのです……。しかし、この国の法では、彼女を救い出すことができません。そのためにご協力いただきたい。この救出が、彼女にとっては救いとなると断言しますし、それだけの危険を侵す価値はあるとお約束します」
部屋の中の人間たちの反応は様々だった。中には、ふんと鼻を鳴らす者、様子を窺う者もいるにはいたが、だが、人影の大半は深く頷く者ばかりだった。
きっと、この十数日の経験がなければ、自分も頷く連中の一人だったのだろうと考え、男は渋い顔をした。
「では、早速本題に入りましょう。先程も言った通り、あなた方には一人の少女をこの町から助け出して欲しいのです。このままでは、彼女はその強大な力を良いように利用される恐れがある。我々はそれを止めたいのです」
それがどこまで本当の話か、男には分からない。だが、”彼ら”に返しきれない恩がある以上、どんなことであれ自分はやるしかないのだろうと、男はそう思う。
”クヴァルデコーク”という名のおかしな名前の取り仕切り役は、部屋にいる男達をしかと見据えて、こう言った。
「保護をお願いしたい少女ですが、名前をケトと言います。アッシュブロンドの目立つ色の髪をしていますから、目印にすると良いはずです」
男は爪先を眺めた。名前を聞いても今更驚くこともない。元々自分はこの為にブランカに来たのだから。
隠しポケットの内側の、財布の重みがぐんと増した。クシデンタの町で待つ妻子の顔が目に浮かぶ。
中に入っている額は ケトの姉の計らいで予想よりもずっと多かった。元々の計画の報酬をアテにして、全く期待していなかった収入だが、その分素直に嬉しく、そして心苦しい誤算だった。
「悪いな……」
呟きは音にならないうちに消えた。まだ朝も早い。あの姉妹はまだベッドで寝ている時間だろうかと考えて、彼は後悔した。




