はじめてのともだち その9
誰一人汗をかいていないのに表情だけは疲れ切った顔の面々が、ロビーの丸テーブルを囲んで座る。これが訓練後だと、果たして誰が信じるだろう。
あれだけ体を動かしたにも拘わらず、ケトはけろりとした顔をしていた。むしろガルドスがげっそりしているようだ。たんこぶができた程度の怪我であっても、精神的に参っているのだろう。
とはいえ、この展開を予想していたエルシアやロンメルはいつも通り。ガルドスと、それになぜかランベールが暗い顔をしているだけだ。大の男が少女に負けたことがそんなにショックだったのだろうか。あまりに深刻な表情がおかしくて、エルシアは笑いを堪えていた。
一度食堂に降りて、地下の氷室で冷やしてもらっていたお茶を持ってくる。冷たいのど越しをそれぞれが味わうと、少し雰囲気も和らいだ。ちなみにケトだけアイスミルクだ。エルシアにとってこれだけは譲れない。
訓練後の気だるい空気を浴びながら、ふとロンメルが口を開く。
「そうじゃエルシア、ケトに魔法は教えんのか?」
「魔法?」
首をかしげるエルシアに、ギルドマスターは頷く。
「そう、この間娘っ子が使っておったじゃろう? 護身用という意味でも、覚えておいて損はなかろう」
「でも、私もガルドスも魔法なんて使えないわ。見たことだって数えるほどしかないし」
以前ケトに魔法の使い方を聞いた時のことをエルシアは思い出す。
その時の少女の回答は、「あっちいけっておもってピカッてする」だった。もはやエルシアの理解の範疇を超えている。
「魔法は儂が使えるから、いくつか教えてやれるぞ。まあ、理論や原理を本格的に、とまではいかないがの。使い勝手の良いものなら、いくつか覚えておいて損はなかろうて」
「いいの?」
魔法なんて雲の上の話、エルシアはこれまで思いつきもしなかった。目をぱちくりさせて顔を見合わせる亜麻色と銀の髪の姉妹を見て、ロンメルは皺だらけの顔で笑った。
―――
水差しからお茶のお代わりを注ぎながら、エルシア達は耳を傾ける。
「そもそもじゃな。魔法は水の状態を変えている、と言うところは分かるかの?」
「おいおい、いきなり訳分かんないこと言い出したぞ……」
「ちょっと黙っててよガルドス。魔法の話なんてめったに聞けないんだから」
「うん?」
「ちぇっ」
それぞれの反応を見せる面々に、ロンメルはずっと笑っていた。興味深々で聞くエルシア。キョトンとしているケト。ガルドスは早々に撃沈してテーブルに突っ伏していた。ランベールは無言でロンメルとケトを見つめている。
「魔法は、気体や液体、もしくは固体にした水を操るんじゃ。変えるのは圧や温度、形状じゃな。水を収束させ、状態を変え、指向性を持たせる。この一連の動作を魔法と呼んでおる」
氷を溶かしたり、鍋でお湯を沸かすようなものだろうか。いや、全く違う気がするが。
げっそりとしたガルドスを横目に見ながら、エルシアは先を促した。気にならないこともないが、深入りすると隣の大男がやられてしまう。要は使えばいいのだ。
「最近は効率よく魔法を使うために、専用の入れ物を使う方式が主流じゃな。この入れ物の使い方を覚えることで、かなり自由に魔法を使えるんじゃよ」
懐を探ったロンメルは、きれいなガラスの小瓶を取り出した。手のひらサイズの瓶の中には透明な液体が満たされている。
「きれい!」
ケトが身を乗り出して小瓶を見つめる。キラキラと光るガラス瓶は、それなりに価値のあるものだと分かる。ギルドの窓にはめ込まれているガラスとは雲泥の差だ。ゆがみもなければ、曇りも見えない。
「魔法を使う時は、必ずこの瓶に水を汲んで用意をしておく。この瓶がまた曲者でなあ、一本五百ラインもするんじゃよ。しかもある程度使うと劣化して効率が悪くなる代物でな。まず金持ち以外は軽々しく使えるものではない」
「五百ライン!? 俺の鎧を新調できるぞ!」
「その通り。儂もおいそれと使えんの」
金額の話が出てきた時にだけ、ガルドスがピクリと眦を上げた。しかし彼にはそこが限界だったようで、再度テーブルに突っ伏した。
「この娘っ子の不思議なところは、その入れ物がなくても、とんでもない量の水を魔法の源としてかき集めてくることができることじゃ。儂の見立てではおそらく自分の体内の水、それから空気中にある水を周囲から掻き集めているんじゃないかと思うんじゃがの」
しばらく言葉の意味を考えたエルシアは、ふとケトが倒れた時のことを思い出した。
「そういえば、スタンピードの後、ケトがひっくり返ったよね? あの時すごく体が熱かったけど、やっぱり脱水症状だったのかしらね」
「うん?」
隣を見やったエルシアは、ミルクを飲んでいたケトと目が合う。口元についた白いひげを布巾で拭ってやると、くすぐったそうに少女が笑った。
「推測でしかないがの、体内の水を使いすぎてしまったんじゃろう。ケトは何となくで使っているようじゃが、今のままじゃと効率も悪いし威力も過剰。普段使いなんて夢のまた夢じゃろうなあ」
魔物相手に暴れていたケトを思い出す。掲げた右手に六重の魔法陣。ほとばしる光の奔流。周囲には飛沫となった光が飛び散り、神々しさすら感じさせた。あれが元を正せば全部水だなんて、エルシアにはとても信じられない。
「見た限り、どうやら放出のタイミングは良さそうじゃ。かなり大雑把じゃが指向性も持たせられておる。もう少しコツを掴めば上手く使えるようになるじゃろうて」
”コツ”という言葉にガルドスが露骨に嫌そうな顔をした。今回ばかりはエルシアも彼に全面同意だ。
「……マスターのことだから、そのコツっていうのが一筋縄では掴めないんでしょ。苦労する未来が見えるわ」
エルシアの嘆息に、老人があっけらかんと笑う。
ロンメルの教えは中々に厳しい。ガルドスは剣術で、エルシアは受付の業務を教わるときに、それぞれ痛感している。
「ケトの筋は良いのは保証しよう。独学であれなら大したものなんじゃが。まあ、”魔法は龍の贈り物”とも言うし、きっと何かあるんじゃろうなあ……」
エルシアは、いつの間にか魔法に完全に飽きているケトを見つめた。
彼女は書き取りの紙をポケットから引っ張り出して、落書きを始めていた。書いているのは猫、だろうか。かなり歪な絵だから、正直自信が持てない。
「”魔法は龍の贈り物”って初めて聞いたわ。どういう意味なの?」
「魔法は元々、龍のブレスを元にしたそうじゃ。学者たちが集まって、龍を隅々まで調べて導き出した理論を元に、技術として昇華させたものを魔法と呼んでいる。それにあやかって、”贈り物”なんじゃと」
へえ、とエルシアは頷いた。そんな経緯があるなんて知らなかった。ふと、あの洞窟の中の龍を思い出す。現代において、龍の姿を見たことがある人間なんてほぼいないはずだ。
「魔法ができたのは割と最近だって聞いたことあるけど……」
「……お前さん、この町のどこから知識を仕入れてくるんじゃ? そうじゃな、二十年前に水を自在に動かす技術の話なんぞしたら笑い飛ばしていたくらいには、最近の話じゃ」
「ふうん、なるほどねえ。……”贈り物”か」
それは、ケトにぴったりの言葉だとエルシアは思う。
ケトが手に入れた力。それは間違いなく、人の理から外れた力。
その揚力も、魔法も、飛翔も、その記憶力や感覚でさえ、人の身には余りある力。それを少女は偶然にももたらされた。まさしく、”龍の贈り物”だ。
「偉そうなことは言ったがの。儂もいくつかの魔法をただ使えるだけじゃ。一から理論を教えられるほど詳しくはないぞ。せいぜいいくつかの魔法を教えられるかどうかじゃろう」
「やっぱり、魔法ってすごく難しかったりするの?」
隣でケトとじゃれ合いだしたガルドスを眺めながら、エルシアは聞いてみた。
「難しいと言うより、まだ分かっていない部分が多いんじゃよ。魔法はまだまだ歴史が浅い、発展途上の技術じゃ。儂の使う魔法陣も今主流のものからすると、一つ前の型じゃからの」
そこでロンメルは姿勢をまっすぐ伸ばした。静かな声でエルシアに問いかける。
「さてエルシア、色々と話したのは、お前さんの意見を聞いておきたかったからじゃ。せっかく教えるんじゃ。この娘っ子にに必要な魔法は何じゃと思うか、聞いておきたい」
「……そうねえ」
なるほど、長々と理論を話していたのはこのためかと、エルシアはギルドマスターの心遣いに感謝した。
もちろんエルシアは、どのような魔法があるかなど知る由もない。しかし、水を扱うという基本が分かっていれば、常識に捕らわれない魔法を思いつく可能性だってある。そこまで考えて、ロンメルは魔法のことを教えてくれたのだろう。
落書きを眺めるガルドスに、「これは猫さん」、「うさぎさん」と説明している少女を見つめる。
この子に必要な魔法。いつか来るかもしれない脅威から、自分の身を守れるように。将来つくるであろう大切な人を守れるような、そんな魔法とは一体なんだろうか。
口元に手を当てて悩むエルシアを、ロンメルが優しく見守っていた。
―――
ケトはじいっと窺っていた。
午後の暖かい日差しに照らされて、見渡しても中庭にはケトしかいない。
少女の目の前には小さな茂みが一つ。こんもりと茂った葉の隙間を、しゃがみこんで覗き込んでいるのである。
「みゃんみゃん。ねこさん、ねこさんやーい」
「みゃー」
茂みの奥で、ふてぶてしく寝そべる白猫。この間見た時よりもほんの少し大きくなっているような気がする。
「にゃー」
「みゃー」
エルシアに教わった通り、目線を向けないようにしてじりじりと近づいている。もう前のようなヘマはしない。なんとも腹立たしいことに、ケトが呼びかけると猫は答えるのである。でも来ない。ケトの元にやってこない。
しかし、今日のケトには秘密兵器があるのだ。
「今日こそ……!」
驚かさないよう小声で呟いて、ケトはそれを取り出した。同時に猫の気配を探る。
「みゃー」
「おいしそうでしょ」
お昼のチーズの欠片をこっそりポケットに忍ばせていたのだ。間違いなく猫の大好物である。ケトは目の前にそれを置いて、猫を手招きした。
案の定、猫はこちらをじいっと見つめてきた。もう嬉しい。猫がこっちを見ているだけで嬉しい。
「おいしいよー。ほっぺたおちるよー」
ほら食いついた。白猫が抜き足差し足でこちらに寄って来るのが分かる。さあ、思う存分かいぐり倒してやるのだ。
「ふおお……」
食べている。猫がチーズを食べている。ケトのあげたチーズを食べているのである。
「おいしい?」
「みゃー」
問いかけると、返事を返してくれた。これは成功だ。やったあ、と叫びたい。なんならエルシアを呼んできてこの猫を見せたい。
思わず猫へと手が伸びた。このふわふわを撫でたらとっても気持ちよさそうだ。ちょっとだけ、ちょっとだけなら。
そうして油断したのがいけなかったのだろうか。真っ白な毛並みに手が届く寸前。突然猫がガバリと身を起こした。
「へっ!?」
「みゃっ!」
「うひゃあ!」
チーズを咥えたまま、猫は右手を振るう。慌てて飛びのいて尻餅をついたケトは、身を翻して逃げ去る猫のしっぽに、しばし呆然とした後で。
「ううー、はくじょうものぉ!」
と、情けない声を上げた。
隠れて見ていたエルシアは、そんな言葉どこで覚えたのかと首をひねりながら、傷を手当てしに中庭へ向かったのだった。




