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看板娘は少女を拾う  作者: 有坂加紙
第三章 看板娘は姉になる
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はじめてのともだち その4

 紙が気軽に使えるようになったのは、比較的最近のことである。

 もっと正確に言うと、ブランカで気軽に紙が手に入るようになったのが、この十年のことに過ぎない。それまで”紙”とは大体が羊皮紙を指す言葉であって、貴族や一部の商人だけが使える高級品だったのだ。


 紙()きの技術が急速に発展したのは、その後のこと。麻や藁を薄く溶かし乾燥させる方法が生み出され、その生産性と利便性から爆発的に広まった。

 どうやら、その裏には魔法技術の発展があったらしい。魔法は水と密接な関係があるというのはエルシアでも知っている有名な話で、水を大量に使う製紙業とは相性が良かったのだとか。


 もっとも、紙の作り方も、そして水と魔法がどんな関係にあるのかもエルシアは知らないし、知らなければいけないという訳でもない。

 重要なのは、大した用途でなくても気軽に紙を使えるということ。何と恵まれたことだろう。素晴らしきかな、安物の藁紙。


 その藁紙にさらさらと書きつけていた羽ペンをインク壺に刺して、エルシアは顔を上げた。カウンターのスイングドアを押し開いて、ケトの小さな姿を探す。


「ケト、どう?」

「ううーん……」


 細い眉をへの字に曲げて、少女が丸テーブルから顔を上げた。その表情を見る限り、あまり調子が良いとは言えないようだ。


「これ、きらい」


 上目遣いで不満を訴える少女。その隣にある書き取りの紙を見て、エルシアは内心ため息を吐いた。文字の形を気にしていたのは最初だけ、すぐに飽きたように雑になり、最後の方はミミズがのたくった後のようだ。


「でもね、ケト。読み書きは覚えないと自分が困るのよ?」

「こまんないもん」

「食堂のメニュー表読めないじゃないの」

「みんなによんでもらうからいいもん!」


 読み書きを教えようと思ったものの、しばらく前からこの調子だ。嫌々ながら仕方なくやっている雰囲気がありありと伝わってきた。少女はあまり興味がないようで、中々上達しない。


 これは無理やり教える前に、興味を持ってもらうひと工夫が要りそうだと、エルシアは思った。少し方策を考えなくてはなるまい。

 自分の時はどうだっただろうと、エルシアは思考を巡らせる。ひねくれ者の自分は、厳しい環境で生き抜くための知恵の一つだと捉えていたから、とにかく早く習得しようとしていたっけ。


「駄目ねえ、全然参考にならないわ……」


 先程まで作っていた二枚目の書き取り用紙を折りたたみながら、エルシアは呟いた。少なくともこのまま書き取りを続けさせるのは良くなさそうだ。

 考えていると、ケトがこちらをじっと見つめていることに気付いた。ふとその目に宿る光に、不安が紛れていることに気付く。


「ねえ、シアおねえちゃん」

「なあに、ケト?」

「わたし、シアおねえちゃんのおてつだいがしたい」

「ケト……」


 思わず顔がほころんでしまう。

 どこまでも真剣な目で、なんて可愛いことを言ってくれるのだろうか、この子は。読み書きがちっとも進まないけれど、そんなことはどうでも良くなってしまいそうだ。


「うーん、ホントかわいいなあケトは……!」


 椅子の背もたれごと少女を抱きしめる。小さな頭のてっぺんに顎をのせると、ケトはくすぐったそうに表情を緩めた。


 少し離れたところに陣取っているオドネルが呆れた顔で二人を見ていたし、部屋の隅で剣を研いでいるランベールも驚いたようにこちらに視線を向けている。

 肝心のケトはちょっと苦しそうだったが、エルシアはお構いなしにケトをぎゅうぎゅう抱きしめた。力が強すぎたのか、ケトが嬉しそうに悲鳴を上げた。


「えへへ……、……シアおねえちゃん、く、くるしい……!」

「そうねえ、じゃあお掃除手伝ってもらおっかなあ」

「おそうじ? やる!」

「助かるわ、ケト」


 ケトをしばらく抱きしめて堪能してから、エルシアはようやくケトを解放した。しばらくふらふらしていたケトだったが、箒の場所を聞いてから、二階の倉庫へと上って行く。


「随分とお熱いじゃないか、お二人さん」


 ケトを見送っているとオドネルがニヤニヤ笑って茶化してきた。ランベールが深々と頷いていた。


「そりゃあね、私とケトは相思相愛だもの」

「言うねえエルシアちゃん!」


 丸テーブルに背を向けてカウンターに戻りながら、エルシアはちょっと大げさだったかな、と苦笑いする。珍しく自分でも抑えが効かなかった自覚はある。

 だってそうだろう。あれだけ可愛い、そして切ないお願いをされて、冷たくあしらえる者がいたなら、それはもう人間ではない。


 実際、エルシアには今のケトの気持ちが何となく分かる。お世話になった人に、自分のすることで喜んでもらいたいのだ。

 それ自体は、一見幼い子ならではの無邪気な願いに見える。ただその根底にあるのは、良いことをしたい、褒められたいというような純粋な願望だけではない。


 ケトは恐らく、今の関係がエルシアの好意によって成り立っていることに気付いている。

 もし嫌われたら? もし見限られたら? その先に待つのは寄る辺のない未来に他ならない。居場所がなくなってしまうかもしれない。頼れる相手がいなくなるかもしれない。それは今のケトにとって何よりも恐ろしいことに違いない。

 よく分からない読み書きを学ぶ暇があるなら、その時間で自分の有用さを示さなくては。相手にとって価値ある者なのだと示さなくては。ケトにはそんな強迫観念がどこかにあるのだ。


 不安なその気持ちはエルシアにも覚えがある。なんたって彼女自身がかつて通った道である。長らく忘れていた感覚がよみがえって、少しだけ息苦しかった。


「……そんなこと、気にしなくていいのにね、ケト……」


 胸元のお守りを握りしめ、エルシアはポツリと呟く。

 そう。そんなこと、気にする必要はないのだ。貴女はもうそんなことを気に病む必要はない。自分は何があってもケトを守ると決めたのだから。


 どうせなら、ケトにはもっと年齢にふさわしいことで悩んでほしい。

 例えば遊ぶこと、例えば友達のこと。恋愛はまだ早いから却下したいけれども、それでもこんなに悲しいこと考えることに比べればずっとマシだ。

 抱きしめるなら、ちょっと苦しいくらいが丁度いい。その苦しさこそが、自分がそれだけ想われているという証になって、安心に繋がるはずだ。


「……貴女のことはお見通しなんだから。おねえちゃんを舐めないで」


 誰にも聞こえないように呟いて、スイングドアを開けた。

 どうせならこちらの意図をくみ取って、読み書きに取り組んでほしいのだが、それを九歳の少女に望むのは酷と言うものだろう。

 彼女がお手伝いを優先させるのなら、ケトの中での読み書きの重要度がまだ低いということ。優先順位を変える方が先だ。


 早速道具を取ってきたのだろう。少女が階段を駆け下りる軽快な音が聞こえる。それと同時に依頼を終えたミーシャが戻って来た。少しの間、忙しくなりそうだなと、エルシアは気持ちを切り替えた。


―――


「それなら、院長先生に相談してみたら?」

「先生に?」


 その日の夜、エルシアはミーシャと共同浴場の湯舟で体を伸ばしていた。一緒の長屋に住んでいるから、よくこうして一緒に帰って、ギルドの外でもおしゃべりするのだ。


 髪を洗う時だけぶすっとしていたケトだったが、今はその長い髪を頭の上でクルクルとまとめて、気持ちよさそうに湯舟を漂っていた。

 このくらいの歳の子供は不思議なものに興味を示す。ケトは天井から今にも垂れ落ちそうな水滴を、これ以上なく真剣なまなざしで見つめていた。一体どこに心惹かれる要素があるのか分からないが、どことなく楽しそうに見える。


「あたしもシアも、孤児院でダリア先生に育ててもらったようなもんじゃない。まあシアも少し経ったら年下の子の面倒を見るようになったけどさ。でも、ここまで本格的に保護者をやるなんてこと、流石になかったでしょ? チビっ子のことなら大先輩に聞くのが一番だって」

「大先輩……。た、確かに……」


 ミーシャのショートヘアが揺れる。赤みがかった茶髪が、エルシアは昔から結構好きだった。


「シアはこういう時、一人で何とかしようとしちゃうからね。ま、それで大抵何とかしちゃうのがシアの凄いところだけど。初めてのことなんだし、ちゃんと相談した方が絶対良いよ」


 思わず「ぬう……」と呻いてしまった。そういえば似たようなことをロンメルからも言われた。そこまで心配をかけていただろうか。お湯がちゃぽんと音を立てる。


「ミィは本当、痛い所ついてくるね……」

「そりゃあもう。何年の付き合いだと思ってるのよ」

「……最近行けてなかったし、久しぶりに孤児院に顔出してみるかな」


 えっへんと胸を張るミーシャを恨みがましい目で見やると、ミーシャも不思議そうに見つめ返してきた。


「あれ? シアは孤児院によく通っているイメージだったんだけど」

「これでも中々忙しいのよ? まあ、こないだの冬の蚤の市の手伝いはしたんだけどね」


 エルシアは口元までお湯につかって、ぶくぶくと小さな泡を吐き出す。

 かつて孤児院にいたころ、エルシアは年下の子たちの面倒を見ることが多かった。そのお陰もあって、ケトと一緒に生活するようになった後だって、世話の焼き方だってそれなりに分かっていたつもりだった。

 だが、いざ彼女の姉になってみると、これが想像以上に難しい。ケトの考えは何となく想像がついたとしても、自分の想いが上手く伝わらなければ意味がない。


 今にして思えば、かつての自分は、面倒を見ていた訳ではなかったのだろう。ただ、皆の親代わりだった院長先生の手伝いをしていたに過ぎない。それが今になってよく分かる。


「世の親のすごさがよく分かるわねぇ……」


 子を一人育てることの責任というのは、自分が思っていたよりもずっと大きい。悩めば悩むほど、いつの間にか身動きが取れなくなっていく。


 もちろん、少女を全身全霊をもって守る、そのことだけは決して変わらない。

 問題は彼女をどう守るかだ。

 ケトが幸せになるために必要なのは何だろう。沢山遊んでほしい。友達だっているだろう。文字を読めるようになってほしい。計算だって教えなければ、お金の勘定だってできないと困るに決まっている。


 欲を言うなら、どんなことでも彼女自身にも興味を持ってほしいのだ。自分はそれができるようになるまで数年を費やした。その数年間が、自分という人格の形成に必要不可欠な時間だったというのは百も承知だ。だが同時に、酷く勿体ないことをしたと、そう思っているのも事実なのだから。


「うひゃっ」


 百面相(ひゃくめんそう)していたエルシアは、後ろからミーシャに抱きつかれて変な声が出てしまった。


「そうやってすぐ考え込むのはシアの悪い癖。話ならいくらでも聞くから言葉にしてみなって。あと、のぼせるよ?」

「ミィ……」

「というかシアさんや、もしかしてまた胸が大きくなってはいないかい?」

「いいこと言ったと思ったのに……」


 慎ましやかな自分の胸と見比べて、面白くなさそうな顔をしたミーシャ。彼女はしばし胡乱(うろん)な目つきをしていたが、やがてポンと手を叩いた。


「おおそっか、なるほど! これでガルドス君をメロメロにしようという作戦ね!」

「はったおすわよ」


 隣のケトはまだ、天井の水滴とにらめっこしていた。

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