ただいま その7
三人が洞窟から這い出す頃には、辺り一帯からオレンジが消えて薄墨の世界が広がっていた。
急いでその場から離れて、野営に適した場所を探す。匂いも酷いし、何より龍の死体のすぐそばで眠る気にはなれない。
洞窟からかなり離れた木の下で、彼らはようやくひと心地つくことができた。ガルドスが焚火を起こすその横で、エルシアは乾燥させた野菜と干し肉を取り出す。
「おてつだいする」
エルシアもガルドスも無言の中で、ケトだけが平常運転だった。
先程少女から感じた妙な凄みなど、今では欠片も残っていない。ちょこちょこと動き回っては、荷物から毛布を引っ張り出したり、地面に転がる邪魔な石ころをどけたりと忙しそうだ。
「じゃあ、そこの荷物からお鍋出してちょうだい」
「わかった!」
水筒の水を鍋に移して火にかける。沸騰してから干した菜っ葉と肉を落とした。
これが家なら小麦粉とバターを使って、簡単なクリームスープでも作るのだが、旅先で味なんかにこだわっていられない。塩で味をつけ、もう一煮立ちさせればスープの出来上がりだ。日持ちするように水分を飛ばして焼き上げた、普段のものより硬い黒パンを浸して食べるのだ。
木の器を両手で持って、スープを飲むケトに問いかける。
「スープはどう?」
「うーん、ちょっとしょっぱい……」
旅の最中は、普段より運動量が多くなりがちだ。汗をかいた分を補給できるよう、少し塩を多めに入れるのが鉄則。どうやら少女には少し塩辛かったようだ。「パンに浸して食べると丁度いいぞ」とガルドスが声をかける。
こうして改めて見れば、ケトは他の子どもと何ら変わりない。もしスープにニンジンを入れていたら、彼女はよけて食べるのだろう。そこにいるのはただの九歳の少女で間違いない。
深呼吸を一つ。
うん、大丈夫。もうこの子を怖がったりしない。
「……ねえ、ケト」
エルシアは意を決して、スープにパンを浸し始めたケトに声を掛けた。
「教えてほしいの。貴女は、あの洞窟の中で何を見たの?」
辺りはしんと静まり返った。エルシアは心なしか緊張している自分に気付く。
なんて情けない。相手は自分の半分しか生きていない子供だと言うのに。
ケトは食事の手を止めて黙り込んだ。早々と食事を終えたガルドスが、一言も発さずにケトを見つめていた。
辺りに響くのは、薪がはぜるパチパチという音だけ。
やがてケトはゆっくりと口を開いた。つっかえつっかえ話すその姿からは、言いづらいことを口にするというより、自分でも理解していないことをどう話せば良いか悩むような空気が見て取れた。
―――
「いい? ここでいい子にしていなさい。騒がないように、大人しくしているのよ。そうしたら、パパと二人で、必ずあなたを迎えに行くから」
あの日。
暗く、足元すらおぼつかない山道を、ケトは母に手を引かれて進んだ。
普段はケトに歩調を合わせてくれる優しい母。けれどもその時ばかりは、手を痛いほど握りしめられているのが、ケトには不思議だった。
「ママ?」
ケトが異変に気付いたのは、ほんの数刻前のことだった。
それまでは、いつも通りにお夕飯を食べて、いつも通りに体を洗ってもらって、後はいつも通りに寝るだけのはずだったのだ。父親が集落の会合に行っている以外は、本当にいつも通りの日常。そのはずだった。
でも、もう”いつも通り”とは違うということを、ケトにだって感じ取ることができた。外では大人たちが騒ぎ立てる声が響き、村の真ん中に大きなかがり火がたかれて、小さな村をこうこうと照らしていたのが窓から見えた。
会合から戻って来た父は、母としばらくの間何事かを話し合っていた。
二人はやがて何かを決めたようだった。
母が落ち着かない様子で麻の鞄を引っ張り出す。黒パンに水袋。鞄に詰め込む横で、父がケトの頭を優しく撫でてくれた。
「大丈夫、心配いらないよ。ケト、お前はこれからちょっとだけお出かけするんだ。パパは家でお留守番をしなくちゃいけない。ママもやらなくちゃいけないことがあるから、お前を送り届けたら戻らなきゃいけない。寂しいかもしれないけれど、すぐ迎えに行くから。だから、それまでいいこにしているんだぞ」
「あなた」と母が父を呼んだ。”お出かけ”の準備ができたようだった。父がケトをきつく抱きしめてくれる。お髭がチクチクしてちょっと痛かった。
「いいかい、ケト。どんなにつらくても諦めちゃダメだ。生きてさえいれば、何とかなる。だから最後の最後まで、挫けるんじゃないぞ」
そして訳も分からぬまま、ケトは生まれた村を出たのだった。
父に手を振り返してから前を向けば、集落の裏手から山に分け入っていくのだと、それだけを知ることができた。
帰り道は、もう随分前から分からない。迎えに来てもらわないと帰れそうにないと、ケトは少しだけ不安になった。
どれくらい歩いただろうか。痛くなった足を気にしていたら、気付けば小さな泉のほとりにたどり着いていた。
ふと優しい光を感じて振り仰ぐ。満月の明かりがケトと母を照らしていた。そこでようやく、母の表情が歪んでいることに気付いたのだ。
泉の奥、崖にぽっかり空いたと穴に、母は躊躇いなく入っていく。暖かい手に引かれてケトも洞窟に足を踏み入れた。
「ママ?」
洞窟の中はがらんとしていた。広い入口から月明かりが差し込むおかげで何となく様子がつかめる。
すぐに行き止まりで、それほど深くない洞窟なのだと分かる。周りをキョロキョロと見まわしていたケトの隣で、母は背負ってきた荷物を置いてからケトを振り返った。
もしかしてここがお出かけの場所なのだろうか。
母が、おもむろにしゃがみこんでケトと目線を合わせる。
愛娘と同じシルバーの瞳がじっとケトを見つめて、いい子にしているのよ、と言った。
「ママ?」
柔らかな両手で、母はケトの頬を挟み込んでくれた。ケトの大好きなあったかい手だ。上から自分の手を重ねれば、そのぬくもりが体いっぱいに伝わるような気がした。
「もしも……、もしも三日たって、ママもパパも来なかったら、ここを出て山を下りなさい。山を下りたら、朝日が出る方向に歩いていけば町があるから、そこへ向かうの……」
「……ママ、ないてるの?」
銀の目に膨れ上がった涙の粒を見て、ケトは急に不安になった。
母が何を言っているのか。ケトにはそれがよく分からなかった。
娘の問いかけに母は答えなかった。代わりにおでことおでこがコツンとぶつかり、ケトと母のアッシュブロンドが交じり合った。
「ごめんね……。一緒にいられなくてごめん。どんなに辛くとも、頑張るのよ? 頑張って、たくさん泣いて、たくさん笑って、たくさん幸せになって」
おでこが離れる。頬を挟んでいた手がするりと抜ける。
最後に母は、ケトを振り返って笑った。
「大好きだからね、ケト」
それから少しして。東の空が白んできたころ。
獣の叫び声、化け物の喚き声が、ケトの隠れる洞窟まで響き渡った。
その日一日中、ケトはぎゅっと耳をふさいで過ごした。
更にその翌日。
ギャアギャア騒ぐ声がさらに大きくなった。まるで山が暴れたようだとケトは思った。堅い黒パンをかじり、水筒に口をつける。後一日。後一日待てば、母が、父が迎えに来てくれるはずだった。信じて待ち続けることしかできなかった。
どれくらいたっただろうか。水筒を傾けたケトは、中身が空っぽだということに気付いた。
まだ時折魔物の声が響いていたが、こちらに近付いてくるようには思えない。少しだけなら大丈夫だろうか。中々外に出る気にはなれなかったが、外の泉まで汲みに行かなくてはと、ケトはおそるおそる洞窟の外へ向かった。
午後も良い時間だ。
二日ぶりの日差しが眩しい。雪はかなり前に溶けはじめ、もう春の入口に足を踏み入れている。
ちょっとだけ伸びをしたりしてから、水筒に新鮮な水を満たした。ひんやりとした水の感触に心地よさを覚えながら、ケトが重たくなった水筒を持ち上げた、その瞬間。
それは突然だった。
何の前触れもなく、腹の底を震わすような、耳をつんざく叫び声が響き渡った。
心底肝を冷やしたケトは慌てて周囲を見渡し、そして”それ”を見つけた。
空の向こう、何かがはるか遠くから飛んで来る。”それ”はどんどんと大きくなって、真っ赤な姿がよく見えるようになった。
ケトの知らない鳥だった。鱗の赤に惑わされてよく分からなかったが、”それ”が血を流していることも、何となく見て取れた。
「あれ……?」
あの鳥、こっちに近付いていないだろうか。まっすぐケトの方に突っ込んで来ていないだろうか。
「え、え!?」
一歩後ずさる。蓋が開いたままの水筒の中身がチャポンと音を立てた。
「こ、こないで……!」
あれは何? どうしてこっちに来るの?
さらに一歩、そしてもう一歩。無意識に後ずさりながら、ケトは幾筋にも裂けた翼を見た。近い。怖い。押しつぶされる。なんで。
慌てて踵を返す。下草に足を取られながら、洞窟目掛けて全力で駆け出した。
後ろで”それ”がまた叫ぶ。耳をふさぎたくなるほどの声なのに、両手で持つ水筒が邪魔なせいで、ケトは思い切りその声を浴びた。
「うわあああああ!!」
早く、早く。重い水筒を捨てることすら思いつかず、少女はただ逃げ惑う。
少女を照らす日の光が、ふっと何かに遮られた。
それは果たして洞窟に飛び込んだからなのか、大きな鳥に追いつかれたからなのか。知る由もないまま、ケトはとがった石に躓いて、思いっきり倒れ込んだ。
「ひうう」と叫ぶ悲鳴は最早声にならない。ケトはただ顔を後ろに向けて、”それ”を見てしまった。
少女の目と鼻の先で、大きな影が洞窟に飛び込んでいた。
入口に翼を打ち付けた”それ”がバランスを崩し、少女の頭上を紙一重で通り過ぎる。巨大な翼を壁にガリガリと削って横倒しになりながら、ギザギザの歯が並ぶ口を開いたのが分かった。
つんざくような叫び声と共に、長く鞭のような尾が滅茶苦茶に暴れて、洞窟の天井を打ちすえる。
瞬間、世界が大きくぐらついた。
”それ”が、世界を支える何かを叩き壊してしまったようだった。ようやく立ち上がろうとしていたケトは、あまりの揺れに耐えきれず今度は尻餅をついた。
壁になっていたはずの大きな岩が崩れ、目の前の巨体を押しつぶす。何かの液体が”それ”の体から盛大に跳ねて、ケトの顔にべったりとにかかった。
世界の崩壊が、ケトの目の前で今まさに起ころうとしていた。
入口の天井をなしていた大岩が、粉みじんに砕け散る。差し込んでいた日差しは一瞬でかき消えた。猛烈な粉塵に、岩と石の奔流が押し寄せ、轟音にケトの咳の音が混じる。その拍子に吸いこんだ空気は、酷くよどんで鉄の匂いがした。
ケトに理解できたのはそこまでだった。後はもう、頭を抱えて泣き叫ぶことしかできなかった。
体に小石がパラパラと当たる。得体の知れない液体が地面を流れ出してきて、髪を濡らした。少女はただ、嵐が過ぎ去るのを待つことしかできず、むせかえるような鉄の匂いに、やがて意識が遠のいていった。
どれくらい気を失っていたのだろう。気付けば辺りは静まり返っていた。
ケトが丸めていた体を起こすと、長い髪からぴちゃりとしずくが垂れた。
辺りはとても暗い。鉄臭い液体が顔にべったりとこびりついてしまっていて、思わず顔をしかめた。口にまで入り込んでいた液体をペッペッと吐き出す。
洞窟の奥を見る。世界を崩落させた元凶は、もはやピクリとも動かなかった。
半ば岩に埋もれた哀れな死体に近付く気にもなれくて、ケトは崩れた岩と岩の間から差し込む光を頼りに、ずるずると洞窟からはい出た。
気絶している間に昼が夜になり、そして夜が朝になろうとしていた。
外は夜明けの光に溢れていた。もはや叫び声も悲鳴も聞こえなくなった森に、太陽は等しく日差しを投げかける。
その光は、一夜にして人ならざる者に変わってしまった少女にも、無遠慮に注がれていた。
久しぶりの朝が、目に痛い。
ケトは目を眩ませながら、土埃と龍の血にまみれながら、空を見上げた。
両親と約束した、三日目の朝のことだった。




