猫の徽章と黒ローブ その6
ケトにはずうっと不思議だったことがある。
シアおねえちゃんが何かやらかす時、みんな絶対に「すごい」とは言わないのだ。
「……何やってんだエルシアちゃんは。よく分かんないけど」
「これってヤバいんじゃない? よく分かんないけど」
「いや、絶対ヤバいだろ。よく分かんないけど」
今だってそうだ。みんな戸惑いながらも、顔に浮かべるのは一様に呆れ顔。
けれども最近、ケトにはみんなの気持ちが少しだけ分かったような気がするのだ。
「どうしてあの子はやることが極端なのかね」
「悩みすぎてはっちゃけたんじゃないか?」
「ありえる。というか絶対そうだろ」
そう。エルシアは常識外のことを、常識外れだと分かった上で実行するのだ。巻き込まれる方はたまったものじゃない。
そしてもう一つ。
「普段なら、アホかって言って終わりだぜ、こんなの」
「……だがなあ」
顔を見合わせる田舎者達。
「もしも、もしもだぞ? エルシアちゃんの策の通り行けば……」
「ああ。ちょっとは、何かが変わるんじゃないか?」
「……あの娘は本当に、人を乗せるのが上手いよなあ……」
腐りきったこの国で、エルシアの口から語られる未来。
それは決して褒められた考えではない。むしろ全てを混乱に叩き落としてしまう、傾ききった思想なのかもしれない。彼らにだって、それくらいは分かる。
けれども。
それが何故か、”良いもの”に見えてしまうのだから、本当に始末に負えない。
ロンメルが、目を伏せていた。
やはり思うところがあるのだろう。小さく動いた口から「リリエラ様」とかつての主人の名が紡がれるのが、ケトの目に映った。
「覚悟を決められたのか……」
「うん。シアおねえちゃんも、わたしも」
小さく答えると、ロンメルがガルドスとケトへと視線をやった。
「分かっておるのか? その策は理想論じゃ。子供の我儘とすら言える。失敗すれば皆殺しになっても文句は言えんぞ」
「逆に聞くが、シアがその程度のことも分からず進めようとしてると思うか、爺さん」
ガルドスはため息を吐いた。
「俺だって、最初は何言ってるんだって思ったよ。だがな、この国を知れば知る程、何かが燻るんだよ。どうにもならないって分かっているのに、どうにかしたくなっちまう。そしてそんな人は、王都にも沢山いる」
人攫いの騒動で。王都で。あの逃避行で。
ガルドスはただひたすらに、もどかしかった。
力のない自分が。頭の回転が遅い自分が。自分の想いすら言葉にできない自分が。
きっと自分だけじゃない。そんなもの、誰もが抱えていて。誰もが目を逸らしていて。
けれども、それと正面から向き合い、エルシアは一つの答えを見出した。
今の第二王女は、そのもどかしさを言葉にできる人間だ。
「うちの領主様もやる気だ。シアの姉ちゃんも説得している。その人たちの力も借りれば、夢物語が現実になることだってあるだろう」
「理想論でしかないんじゃぞ? その先に待つ混乱はどうする……? 責任など誰にも負えん。こんなもの、一人の人間の肩に負えるものではない」
「だからこそ、考えて欲しい」
大男の真っ直ぐな視線を受け止めたロンメルが、言葉を詰まらせた。
「シアからの伝言を伝えるよ」
しんと静まり返るフロア。
「”無謀だと思ったら無理はしないで欲しい。その場の雰囲気に流されないで欲しい。皆を危険にさらしたくないのも本心だから。だけど、よく考えて、本当によく考えて、賭けてみても良いと言ってくれる人がいるなら、どうか私を助けてください”」
皆、顔を俯けていた。
その言葉を自分の心に落とし込もうとしているのだと、大男には分かった。
一人だけ苦笑を漏らしているミーシャは、何とも言えない口調でぼやいた。
「……何よ。何も考えずに行くつもりだったあたしが馬鹿みたいじゃない」
「あの受付さんらしいな……」
ランベールが呆れたように笑い、ロンメルは肩を落として笑う。
「……じゃあ、何じゃ。うん、とりあえず考えてみようかの」
「待ってくれ。もう一回、最初から状況を説明してくれなきゃ分かんねえよ」
「俺もだ。話が複雑すぎて意味分からん」
「さっき酒瓶開けなかったことに感謝してる……」
戸惑ったように毒気の抜けた顔で笑い合う人々に向かって、ケトとガルドスはもう一度、ありがとうと頭を下げた。
―――
ケトが倉庫の階段を伝ってギルドの鐘楼に上がるまで、ジェスは跳ね上げ扉を押さえていてくれた。
少女の傍を片時も離れようとしないミヤは、二人の隣をすり抜けて欄干に上ると「みゃあ」と一声。
「ありがと」
「おう」
サニーがポニーテールを揺らしながら、問いかける。
「お話、終わらないね」
「難しいし、答えなんてないから。きっとまだかかるよ」
鐘楼から見渡す町は、とっくに夜の帳に覆われている。
けれども、下では今も大人たちが議論を交わしているはずだ。ミヤの柔らかな毛並みを撫でながら、ケトはへにゃっと笑った。
「……せんせい。怖かったね」
「でも、ギルドに泊まること、許してくれた」
「絶対帰れって言われると思ったもんね」
ティナがふるりと、体を震わせてみせた。
先程、炊き出しの鍋を片付けるケトの前に、ダリア院長が現れたのである。
その目に光るものを滲ませた院長先生から、力いっぱい抱きしめられたのもつかの間のこと。ケトはやっぱり、他の三人と一緒にしこたま叱られてしまった。
何て危ないことしたのかと言われてしまうと、ケトにもサニーやティナにも言い返す言葉がない。
そんな中で、ジェスだけは一人食い下がった。
危ないことは分かってる。でも、やらなきゃいけないことだったのだと。
どれだけ怒られたとしても、絶対にやり切ることだったのだと。
ケトは驚いた。やっぱりジェスはすごい。あの院長先生を驚かせていたのだから。
目を見開いて少年を見つめた院長は、やがて眦を緩めて言ったものだ。
その言葉を、ケトは改めて呟き直す。
「絶対に帰ってくること。分からないことは相談すること。帰ってきたら、ちゃんと何があったか話すこと」
どれもとっても大切なことだ。
ケトにとって、何も分からないまま突っ走ることほど怖いものはないのだから。
詳しい話はしなかったけれど。きっと先生も何かを察していたのだろう。
最後にケトの頭を撫でながら、看板娘の育ての親は、こう言った。
「シアを……。あの子を、助けてあげて」
両手をついて、欄干から身を乗り出して。
一人の”白猫”と一匹の白猫は、一緒になってぐうっと伸びをする。ついでに大きく深呼吸。
火照ったケトの心は冷めないままだ。けれど夜風のお陰で、頭の中がすっきりと澄み渡っている。
「ギルド、直してくれてありがとね」
「……大したことじゃねーし。それにまた壊れちまったし」
「ジェス照れてる」
「照れてるー!」
思わずそっぽを向いた少年を、サニーとティナがはやし立てる。
ついこの間、ケトの誕生日にも同じやり取りをしていたはずなのに。
変わらない四人。けれど、少しだけ大人になった四人。
何だか、酷く懐かしい気がして。四人、顔を見合わせてくすくす笑った。
「また直さなくちゃいけないね」
「……でも、お前またどっか行っちゃうんだろ?」
ポツリとこぼれた言葉。
隣の顔を見れば、真面目な顔をした少年が、ケトをじいっと見つめていた。
胸のどこかをドキリとさせるその真っ直ぐなその瞳に、ケトは思わず息を飲む。
「……そう、だね。シアおねえちゃんが待ってるから」
そう。まだ、終わりじゃない。
ケトには行かなければいけない場所がある。
「本当だったら、一緒に行くって言うんだけどな……」
酷く大人びた目。
本当に、彼はいつからこんな顔をするようになったのだろう。それこそ歳なんてケトと二つしか違わないはずなのに。
「戦ってるお前を見て、分かった」
「え?」
「きっと今の俺じゃ、足手まといになるだけだ。だから、一緒には行かない」
「ジェス……?」
彼が今も背負っている剣は、かつて彼の父親が振るっていたものなのだそうだ。
それはまだ、彼にとって酷く大きい。
「だからさ、必ず帰って来いよ。お前が帰って来るころには、今度こそギルドをピカピカにしておく」
「……うん」
「その時には、俺ももう少し強くなっているから」
「ジェスはすっごく強いよ」
「ケトには負けるさ」
気負いのない顔で微笑み合う。
少年の暖かい手が、少女の両手を包んだ。
「ロンメルさんに頼んだ。俺、春から冒険者になるよ」
少年の目が、きらりと光る。
それはかつて、少女が憧れた意思の光。今ならきっと、少女にも宿っている、決意の光。
「いつか、追いついてみせる。ケトを守れるくらい強くなってみせる」
「うん」
「だから、抜け駆けはなしだ。何があっても、この町に帰って来い。約束だ」
「約束……」
口の中で、言葉を転がす。約束。うん、良い響きだ。
「約束、する」
「ああ。待ってるから」
何だか顔が熱い。見上げる少年の頬も、心なしか赤いような気がして。
にやにやと見ていたサニーとティナが、我慢できなくなったように「照れてる!」と茶化し、更に顔を赤くしながら、ケトは思う。
やっぱりジェスはすごい。
必ず帰るという意思を、ケトにくれたのだから。
―――
翌朝のこと。早くも復旧に動き始めた町で。
その南門には、剣と鎧を着込んだ一団が揃っていた。
冒険者を中心にしたその中には、旧式の騎士鎧に身を包んだ老人だとか、衛兵に借りた革鎧をまとった元人攫いだとか、そこここに一風変わった戦士の姿も見える。
彼らの中心には、一人の少女。
外套に身を包み、刃のない剣を腰に纏った”白猫”が、声を震わせていた。
「……こんなに!」
「どうだ、すごいだろう、ケト?」
隣の大男が自慢げに笑う。
誰も来てくれなかったらと思うと怖かったのだが、そんな心配は杞憂だった。まさかここまで集まってくれるとは思いもしなかった。
「……ほ、本当にいいの?」
「良くねえよ。滅茶苦茶危ない橋を渡ろうとしているんだぞ」
そう答えたのはオドネルだった。ギルドの常連さんが一斉にうんうん頷き出した中で、彼は腕を組む。
「だがよ、うちのギルドの看板娘が二人とも困ってるってのに、何もしないなんてどうなんだって話になってな。それこそブランカの冒険者の名折れじゃねえか」
「ま、帰ってきてくれんと華がねえよな」
「おいナッシュ! マーサさん見送りに来てくれてるんだぞ! 聞こえたらやばい」
「何か言ったかい? ……この町は衛兵隊とあたしらで守るから。心配せずに行ってきな」
ギルドの先輩職員が睨みを利かし、一部の冒険者たちが震えあがる。衛兵隊のエドウィンが、まあまあと笑って収めていた。
「……かつて儂は、エルシアの母君を守り切れなんだ。その無念を晴らさせてもらう機会をくれたのじゃ。行かぬと言う選択肢がない」
「ま、受付さんには何だかんだ世話になったからな」
ロンメルが、ランベールと視線を合わせにやりと笑う。
ケトには分かる。
決してそんなに簡単な理由で決められる話ではなかったはずだ。国一つを巻き込む戦地に飛び込むことがどういうことか、昨日あれだけ激論を交わしていたのだ。誰もが向き合ったうえで、ここにいるはずだ。
大人たちは夢だけ見ていれば良いという訳ではない。
皆それぞれに、自分の生活がある。その基盤を自らの手で崩す決断になるかもしれない。人生の全てを壊しかねない、そんな決断のはずだ。
けれど彼らは、一様に呆れた顔をして笑う。
今だけは全てを飲み込み、心に一応の納得をつけて、誰もがここに立っている。
ランベールが自らの鎧をつまんで肩を落としていた。
「しかし、混戦になるってのに、統一感ないな。王都で合流するっていう味方に勘違いされないといいんだが」
皆バラバラの鎧を着て、バラバラの武器を持っているのだ。まあ、当たり前の話である。自分達はどこまでいっても、田舎町の冒険者で在り続けるのだから。
入り組んだ王都で、混乱する可能性は大いにある。不安を笑い飛ばしながら、戦士たちが自らの装備を見下ろして苦笑を漏らしていると。
「ケトーっ!」
「間に合った!」
「これつけてってくれ!」
見送りに集まった人込みの中から、三人の子供たちと一匹の猫が飛び出してきた。
その手にはそれぞれ籠を持ち、強面たちが一斉に浴びせた視線にも負けず、一直線に駆け寄って来る。
「何だ、何を持ってきたって?」
「お守り! みんなちゃんと帰ってきますようにって!」
ティナが大きな声で答え、サニーがお守りを手に取って見せた。
「お?」
「それって……」
「あ、見覚えあるぞ。何処で見たんだっけか」
その声に、ジェスが大きな声で答える。
「蚤の市で作ったやつだ!」
「……蚤の市? ……ああ、猫のワッペンか! 家のどっかにあったなあ、どこやったっけ?」
「あー思い出した! めっちゃ売れ残ったってエルシアちゃんがぼやいてたやつか!」
子供たちの手の中には、黒地に白糸で縫い付けられた猫の刺繍。
かつて蚤の市で孤児院の子が作り、お店を開いて売っていたワッペン。
少女の胸にいつだって輝いていた、可愛らしくて、強面には似合わない、そんな意匠のワッペン。
ご丁寧に服に止めるピンまで持ってきた彼らを見て、戦士たちは笑う。
「……確かに、この場合ぴったりだ」
「ワッペン、……いや、徽章って言うんじゃねえのか、こういうのって」
「”白猫”を守る俺達らしいじゃねえか!」
彼らは口々に、猫のワッペンを見て騒ぎ始める。
「よし、決まりじゃな」
ロンメルが背筋を伸ばし、周囲に向き直った。
「皆の者、お守りを受け取ったら左胸につけろ。これで味方を見分ける。良いか、”猫の徽章”が、我らブランカの証じゃ」
鬨の声が、町を揺らす。
常連さんを代表するかのように、ブランカのギルドマスターがケトとガルドスに向き直った。
「儂らで、ケトを援護する。お前さんを、エルシアの元まで連れて行こう」
「……!」
吐き出す息が震える。胸が詰まって、ケトは言葉が出せない。
朝方のひんやりとした空気に、ふと温かみを感じた。
きっとこれは龍の感覚。それくらい、ケトにはもう分かる。
視渡せば、それぞれ違う印象を抱かせる大人たち。
これまで視てきた人たちだって、誰一人とて同じ色を持つ人はいなかった。
けれども、ごく稀にそんな人たちから、揃った思惟を感じることがある。
これまでバラバラに歩いて来たはずの人たちが、それぞれの意思を混じらせて、一斉に同じ方を向いたような、そんな奇跡の瞬間。
ケトは今、その中心に立つ自分を知覚して。だから、そっと呼びかけずにはいられない。
ねえ、シアおねえちゃん。
あなたはこれを作ってくれたんだね。
少女を囲む、人々の輪。
これこそ正に、町のギルドの看板娘が築き上げた、少女を守る最強の力だ。
「行ってくるね、ジェス」
「おう。待ってる」
少年が隣で笑って、少女に言った。
「どうか、ケトに幸運のあらんことを」




