猫の徽章と黒ローブ その2
エルシアはゆっくりと立ち上がる。
憐れな”近衛”は、同僚に剣を突き付けられた上、後ろから”影法師”によって取り押さえられている。自らの剣の柄に添えられていた手も、黒ローブに何か言われた後、そろそろと上げられていった。
「なっ、なんの真似だ。ルータス……?」
憐れな”近衛”が同僚に問いかけるが、同じ”近衛”の服を被った男は何も答えない。代わりに彼はエルシアの指示を窺うように、こちらに視線をやった。
「どうもこうも、こういうことよ」
「エ、エルシア殿下? 一体どういうことです、これは!?」
娘はゆっくりと男に近付き、監視を見据える。
「ずっと見られていたら、好きに動けないでしょ。だから先に手を打たせてもらったの。いやホント、ルータスだけで良かったのに、貴方までついて来たのは予想外だったわ」
「今すぐ剣を下ろしてください! これは、……こんな! 陛下への反逆行為だと分かっているのですか!?」
エルシアは自分の唇が弧を描くのが分かった。
動けない男に近づいて囁く。何だか悪役にでもなったみたいだ。
「あまり騒がないでね。私の部屋の絨毯を、血で汚したくないから」
「殿下……! くそっ放せッ!」
「離したら、貴方を殺さなくちゃいけないんだけれど、それでもいい?」
「ぐっ!」
辺りを見渡した”近衛”が絶句する。部屋中に潜んだ”影法師”の存在に気付いたからだろう。
「皆、ご苦労様。悪いけれど、この人は事が終わるまで閉じ込めておいて」
「承知いたしました」
「こんなことをして、ただで済むと思うな!」
「騒ぐなと言われただろう。聞いていなかったのか?」
後ろに控えていたコンラッドが男の背中に魔法陣を展開する。
一瞬光ったかと思うと、”近衛”の体内の水を強制的に吸い取った。
「ルータス、裏切り者め……!」
「すまないな。元々私は忠誠など誓っていない。命に応じて情報収集に努めていただけだ」
どさりと倒れた”近衛”を、元同僚が縛りあげる。コンラッドが剣を収め、エルシアに振り向いた。
「障害を排除しました。殿下、ご命令を」
「助かったわ。これで陛下に行動を知られずに動けそうね。……ルータスも、ありがとう」
”近衛”を装った”影法師”ルータスが苦笑を漏らす。
「昨晩、突然侍女服を着た殿下が来られた時には、肝を冷しましたよ」
「ごめんなさい。急いで立てた作戦だから、大分無茶しちゃって」
「全くです。御身を囮に使うのはいい加減やめてください。こちらも気が気ではありません」
猿ぐつわを噛まされた”近衛”が、微笑みながら言葉を交わす王女と隠密を睨みつけていた。
だが、彼にできることなど何一つない。グルグル巻きのまま、屋根裏に引っ張り上げられていくしかないのだ。ロープを結んで無理やり引き上げる方法だから、かなり苦しそうだ。
「ルータス、陛下への虚偽報告、お願いね」
「はい。お任せを」
「……なんてことするんだ。従妹殿」
もそもそと部屋の奥から姿を現した宰相家嫡子が、肩を落とす。
「アルフレッド、早速ごめんね」
「全くだ。ルータスを”近衛”にもぐりこませるのに、当家がどれほど苦労したと思う。それをこうもあっさり……。もう二度とこんなことできないのに」
「……”影法師”は陛下への抑止力”だっけ。妙に納得しちゃったわ」
国王の側近に紛れて情報収集を行う役割。
”近衛”の皮を被った彼は、正にその要だったのだろう。ようやく、宰相家の恐ろしさを知ることとなったエルシアだが、それを惜しみなく使って数日の自由を得た訳である。
「けれど、これで式典の日までひとまずの手は打てるわ」
目元をこすったら、目の下の隈を為していた厚化粧が思い切り引き伸ばされてしまった。うへえと呻くと、ヴァリーが何やっているんですかと肩を落とす。
「魔物でもこんなおどろおどろしい顔してませんよ」
「失礼ね。でも、早くこの化粧落としたいわ」
「ほら、とにかく座ってくださいな。指示なら椅子の上でもできるでしょう」
髪をまとめて、エルシアは鏡の中の自分を見る。
ヴァリーの化粧は一級品だ。何とも不健康そうな顔色に、思わず笑ってしまう。
アルフレッドはため息を吐いて、”近衛”から奪った平服を確認し始めた。
どうやら女性の化粧を見ないようにと言う配慮らしい。流石は紳士と褒めるべきだろうか。
「なあ、大した話じゃないんだが」
「うん?」
神妙な面持ちをしているから何事かと首を傾げていると。
「なんで、猫なんだ?」
やがて彼は疑問を口にした。
「ケトの呼び方こと? そもそも”白猫”って呼び始めたの貴方達でしょ?」
「……だがそれは、彼女の服やカバンにあの刺繍があったからだ。ケト嬢の力を考えるなら、龍を模っても良いのではないか?」
「……」
エルシアが何も答えないでいると、彼にしては自信がなさそうにこんなことを口にした。
「考えてみたんだ。例えば……、先に猫の印象を強くつけてしまえば、彼女に龍を結び付けにくくなる。彼女の力の正体に気付きにくくなると、従妹殿はそう考えたんじゃないか?」
「……どうだったかなあ。ミヤのことしか覚えてないや」
少しだけ振り向いて、彼の目を見据えたら。
「……野暮なことを聞いた」
察してくれたのだろう。彼は苦笑を浮かべて、声色を変えてくれた。
「しかし、だ。こちらの動きは陛下に伝わらないが、向こうの情報も仕入れられなくなる。それは心しておけよ」
「分かってる。ここからはあの人と私の知恵比べよ」
ルータスからもたらされた最後の情報。
南に派遣した騎士団は張りぼてらしい。
それが分かっただけでも僥倖だ。向こうにいる正規の騎士はほんの一握りで、大半が訓練中の見習い。それはつまり主力は王都に固まっていることを意味する。貴族に与えられた情報は全くでたらめのようだ。
狙いは恐らく、教会派の貴族を通じて偽の情報を龍神聖教会に伝えること。間違いない。国王は龍神聖教会すら手玉に取ろうとしている。
「早速動くわ。アルフレッド、準備は?」
「できてはいるが。……突然言われた方の身にもなってくれ」
「ケトとガルのこと、黙ってた貴方に言われたくないわ」
「あれを言ったら台無しだろうに」
化粧を落とされ、徐々に露わになる素顔を、エルシアはじっと見つめる。
血色を取り戻した頬。ぱっちりとした栗色の瞳。亜麻色の癖っ毛は相変わらずだけれど、王都に来てから艶が増したのは、髪専用の石鹸と香油のお陰か。
形の良い唇が動き、言葉を形作る。輝く目で、王女は未来を見据えて。
「もう、逃げない」
「紅を塗るので喋らないでくださいね」
「え、あ、ごめん」
どうやらしばらくは侍女の独壇場になりそうだった。




