小さな彼女におかえりを その2
スタンピード。
それがどんなものなのか、もはや言うまでもない。
町を亡ぼす”災害”。魔物の集団が人里に押し寄せ、その全てを押しつぶす。畑も村も町も、そして人も。全てが数の暴力でただ押しつぶされる。
立ち向かうには相当の準備が必要だ。王都から騎士をこれでもかと派遣して、大きな被害を出しながらも何とか抑えたなどという記録も残っている。
対抗できなければ、その町は地図から消えるだけ。
「なんでこんな立て続けに!」
「もうおしまいだ、逃げるしかねえ!」
「ちくしょう、今年は暖冬のはずだろう!?」
北門跡地は混乱の坩堝と化していた。ある者は回廊から身を乗り出し、ある者は壁に空いた大穴から外を睨みつける。
既に、ブランカの防衛戦力は壊滅している。
そんなこと、誰もが分かり切っていた。
半分に数を減らした衛兵。めっきり姿を見かけなくなった冒険者。町はずれの墓地には石碑がいくつも増え、その上に積もる雪を掻きだす人手もない。
町中が悲鳴と怒号に覆われていた。ある者は慌てて荷車に家財道具を詰め込み、ある者は持てるだけ持ち、町を離れる支度を進める。
壁に空いた大穴の真上、北門の物見やぐらで、ロンメルはエドウィンと共に眉間に皺を寄せているところだった。周囲に人は多いが、出来る限り会話の中身が聞こえないように小声で呟き合う。
「どれだけ持たせられると思う?」
「組織戦ができる程の人員は残っていません。総員でかかっても、これではとても……」
「壁の内側に引き込んで各個撃破するしかないが、木柵がないとなると……」
「ケトの魔法で全数消失しましたからね。ない物ねだりです」
小柄な老人が、ため息を吐いた。
「じゃが、足止めせねばなるまいて。町を捨てるにも、あまりに時間がなさすぎる」
「ええ、せめて半日は……。いいえ、高望みですね、一刻は持たせましょう。でなければ町ぐるみで全滅です。町の外に逃げたとしても、これでは追いつかれて飲み込まれる」
視線の先で立ち上る雪煙。足を取られる雪すらも、魔物は踏み固めながらやってくる。
その広さが、その高さが、絶望の深さだ。
「……多い」
「この数にずっと気付かなかったということはなかろう。もしそれがあり得るとしたら……」
ロンメルの探るような視線に、エドウィンが肩を落とした。ギリと言う音が口の端から漏れ出る。
「今日の北門当番だったリョシュアンは下で眠っています。後ろから背中を一突きされて」
「……なんて、惨い。あやつが何をしたと言うんじゃ……」
「せめて、俺が当番に入っていれば……」
「そうしたら、隊長代理不在のブランカが襲われることになっておったぞ」
手が足りず、設備もなく。最後の頼みの綱であるはずの防壁には大穴。
振り返った町は、悲痛な叫びに満ちている。町を捨てた彼らに、果たして向かう場所はあるのだろうか。
だが、その不安定な未来を掴むことすら、今のこの町には難しい。果たして、いかほどの人間が生き残れることか、それすらも定かではない。
「あの距離じゃ。おそらく昼前には到達するぞ」
「……こんなことなら、朝飯奮発しとけばよかった」
最期の飯が黒パン一個とか。エドウィンの悲痛な声が、風に飛ばされて散っていった。
―――
ランベールに続いてジェス達が回廊によじ登った時、その場は怒号に満ち溢れていた。
「ふざけんな! 俺たちに死にに行けってのか!?」
「そんな話受けられる訳ねえだろ!」
「だが、時間を稼がなきゃ、一人残らず追いつかれて死ぬんだぞ!?」
「知ったこっちゃねえ、やってられるかよ」
「お前の婆さん足が弱いんだろ? 真っ先に食われるだろうな」
「何だと! もう一度言ってみろ!」
掴み合う冒険者達を他の男が取り押さえる。じたばたと足掻く男が狂ったように叫んだ。
「はっ! どうせ皆くたばるんだ。守ることに何の意味があるんだよ、なあそうだろ、みんな!?」
面と向かって答えられる者はいなかった。彼は構わず悲痛な叫びをあげ続ける。
「なら俺は降りるね。どうせ死ぬなら、家で家族と死んだ方がマシだ!」
バツの悪そうな顔を逸らした男達。回廊の端から顔を出した子供達の姿などには目もくれない。
気まずい沈黙を破ったのは、ロンメルだった。
「お前さんの言う通りじゃ」
その言葉に動揺が広がる。間違いなく、今の状況でギルドマスターが言っていい言葉ではないはずだった。
「あの数じゃ、立ち向かえば必ず死ぬ。儂はそれを強要できんよ。しかし逃げたとしても待つのは同じく死のみじゃ。それを分かった上でなら、最期の時くらい好きに生きても良いと思うんじゃよ」
黙り込む男達。やっていられるかと言わんばかりに階段を降り始めた冒険者。既に間近に迫った雪煙を見ながら、ロンメルは続ける。
「じゃがな、少しでも何かを残したいと思うなら。どうか手を貸してはくれんか。儂らと共に、この町を守ってくれんか?」
「……俺はやる」
答えたのはオドネルだった。一斉に向けられた視線には一瞥もくれず、ギルドの常連はじっと町の方を見ながら言った。
「俺は生まれてからずっとここで生きてきた。ここ以外知らないんだ。なら、死ぬまでここで戦いたい」
まだ包帯の取れないミドが頷く。エドウィンや、残った衛兵が表情を緩める。
一方で、石段を下りるものがいる。一方で立ちあがる者がいる。誰かが諦めたように笑い、誰かが悲痛な顔を背け。少しずつ、少しずつ、人が減っていく回廊で。
「あたしは、やるよ」
ミーシャは笑っていた。
「親友たちが帰ってくる場所なんだから。絶対に守らなくちゃ」
少年の後ろでサニーとティナが震えている。この二人だけでも孤児院に帰らせればよかったかもしれないと、ジェスは後悔した。勢いだけで来てしまったのだから、非はジェスにある。
だと言うのに。ジェスが前に出ようとすると、二人もついて来た。驚いて振り返ると、表情を強張らせながらも、ポニーテールと、黒髪が頷く。
二人とも、馬鹿じゃない。どういうことかちゃんと理解した上でジェスを見ている。それが分かって、少し気が楽になった。
「俺も、戦う」
そう言うと、大人達の視線が一斉に乱入した子供達の方を向いた。震える足を叱咤して、彼は友と前を向く。
「ジェス、お前さんたちは孤児院に戻った方がいい」
「そうね、あんたたちは生きなきゃ」
「おう。お前たちを戦わせるほど、俺達は落ちぶれちゃいねえよ」
ロンメルが、ミーシャが、オドネルが彼を諭す。
大人たちはやっぱりそう言ってくれる。生きろと、そう言ってくれている。
かつて、ケトに同じことを言ったように。エルシアにも同じことを諭したように。
それでも、少年にだって退けない時くらいあるのだ。
「ケトだって、きっと戦ってるんだ。なら俺だって逃げる訳にはいかない」
「無駄に命を散らす必要はない。それはあんたたち子供の特権なの」
「父さんは逃げなかった。だから、今俺は生きてる」
「だからこそじゃ。カーネルが守り抜いたお前さんたちを、むざむざ殺させるつもりはない」
彼らの言うことは正しい。どこまでも正しく、感謝すべき考え方で、だからジェスは我儘だ。
両の拳を握りしめる。剣を背負った父の姿を脳裏に浮かべながら、ジェスは仁王立ちして大人を見返した。
「ずっと考えてたんだ。死んじまった時、どうして父さんは逃げなかったんだろうって。どうせなら逃げ帰ってきてくれれば良かったのにって」
カーネルは英雄だった。魔物相手に一歩も退かず、踏みとどまった。そう教えてくれたのは大人たちだ。
その言葉にはきっと誇張も入っている。大人は皆嘘つきだって、ジェスにだって分かってる。
それでも。
「それは、きっと守りたかったからなんだって、思うんだ。……もう聞けないから、思うだけなんだけどさ」
きっと父はジェスを守りたかったのだろう。自分の町を守りたかったのだろう。今では素直にそう思える自分がいる。
守りたいものを見つけたからこそ、ジェスはその考えを受け入れることができた。
「それを教えてくれたのは、ケトだ。俺、あいつが帰って来た時に泣かせたくない。あいつには笑っていて欲しい」
ジェスはもう見つけた。譲れないものを見つけた。それはとても遠くて、届くかどうかも分からない目標だけれど。
人生の中で何度か直面するであろう正念場で、何よりも重んじたかった。
「頼む。俺に、”守る”手伝いをさせてくれ。父さんがかつてそうしたように」
いつの間にか、回廊は静けさに包まれていた。
ロンメルがこちらを見ていた。ミーシャが笑っていた。ランベールがニヤついているのが何だか癪だった。
そして、石段を下りようとしていた冒険者たちが、足を止めていた。互いに気まずそうに、しかし逸らしていた視線を合わせ、バツの悪そうな顔で何かを言おうとしている。
彼らの口火を切ったのは、かつて町を襲った人攫い。
「なあ、こんなクソガキにここまで言わせたんだ。大人として、手ぇ貸してやってもいいんじゃないか?」
「なっ! クソガキじゃねえ!」
「バカ言え。お前は本当にクソガキだよ。だがな……」
その口調とは裏腹に、彼の表情はどこまでも晴れやかだった。
「俺は逃げ帰った先で家族の死に目なんか見るつもりはないな。そんなことをするくらいなら、少しでも生き残る方に掛けた方がマシだ」
ランベールは辺りを見渡してから、ジェスに視線を戻した。その目に暖かな感情が宿る。
「運が良ければ、何か一つでも残せるかもしれねえ。そうして生き延びた奴を、俺は一人だけだけれど、知っている」
どうして。ジェスは彼に父のことを話した記憶なんかない。だと言うのに、人攫いは全てを知っているかのように、かつて攫った少年へ穏やかな眼差しを向けるのだ。
「人攫いが偉そうに……」
ジェスがボソッと呟くと、ランベールは「全くだ」と笑う。
揺らぐ回廊で、ギルドマスターが、冒険者達を見回していた。その表情が先程よりも少しだけ和らいで見える気がした。
「命の話じゃ。強要はできん。じゃがな、この町を好いてくれているのなら、どうか手を貸してくれんか」
「……報酬は出んのか?」
人込みの中から、声が上がった。
ふと見ると、階段の手すりに手をかけていたナッシュが歩み出てくるところだった。同じく階段を降りようとしている者達の視線を浴びながら、しかし、彼は振り返って問いかける。
報酬なんて、そんなことを言っている場合じゃないことは彼だって分かっているはずで。それでも、欄干にもたれかかっていたオドネルが、にやりと笑って答えを返す。
「誰かが俺達を、”英雄”と呼んでくれるようになる」
「……ちぇっ。悪くねえな」
「じゃあ、俺は食堂の無料券!」
「……おいミド、お前、本当にそれでいいのか?」
「食堂が開くってことは、マーサさんとは別の受付さんが戻って来るってことだろ? 俺はその人に”英雄”って呼んでもらたいんだ!」
「ミドが難しいこと言ってやがる……!」
少しずつ、少しずつ、ざわめきだす回廊。
階段を降りかけていた冒険者たちが、我も我もと好き勝手なことを言い始める。
「決心がついた者は、聞いてくれ」
一際通る声で、ロンメルは守り手たちに呼びかけた。
「儂らで、未来を繋ごう。家族が、友が、誰かが一人でも多く、生き延びる未来を」
滅びゆく町で、冒険者が、衛兵が、鬨の声を上げた。
―――
「なあ、今からでも遅くないって」
「もう、ジェスしつこい!」
「しつこい!」
「だとよ、坊主。残念だったな」
間近に迫った雪煙を見ながら、回廊の上では、子供たちの声が響いていた。
北門跡地に急遽設営された指揮所で、町の外を見ているのである。既に先頭のオーガの姿までばっちり見える距離。終わりの時は近い。
その場の熱に浮かされたのだろうか。ジェスだけでなく、サニーやいつも大人しいティナまでもが残ると言い張ってしまった。残るのは自分だけで十分だと、ジェスは内心慌てているのに。
「あたしだって分かってる。残るってことがどういうことかなんて、ちゃんと分かってるわ」
「なら……」
「これでも冒険者志望なの。マーサさんにお願いして、春から”木札”なんだから!」
生まれて初めて握ったであろう弓を手に、サニーは笑う。果たして撃ち方が分かっているのだろうか。
「一人だけなかま外れはいや。ジェスも、サニーもがんばるなら、わたしもがんばる。ケトにもちゃんとがんばったって言う」
ティナが珍しく胸を張っていた。エドウィンから持たされた大きな鞄は薬と包帯でパンパンだ。
「ジェス」
「……じいさん」
「ロンメルさんと呼べと言っておろう。終わったらダリアに報告じゃな」
「んなっ!?」
ケラケラと笑うサニーとティナ。相好を崩したギルドマスターが、少年に長い包みを手渡した。
「襲撃の後、ギルドから持ち出しておいたんじゃが。……お前さんにこれを渡しておく。使い方にはくれぐれも気を付けるんじゃぞ」
「何だこれ? ……重っ!」
布で幾重にも巻かれた包みを受け取ると、ズシリとした重みが手にかかった。思わず取り落としそうになって両手で持ち上げると、ロンメルが真面目な顔で頷く。
布を巻き取っていく。少しずつ露わになる中身を見て、途中から子供たちは静まり返った。サニーとティナが息を飲み、ジェスは自分の心臓がバクバクと音を立てはじめたのを聞いた。
「これ、まさか……!」
布の中から出てきたのは、一振りの剣。
冒険者たちがよく持っている、お世辞にも名剣とは言えないロングソードだ。
新品ではなかった。柄に巻かれた革は使い込まれた艶を持ち、鞘のあちこちに細かい傷が見える。よくある型でありながら、世界に二振りとない剣。そう、これは。
「父さんの、剣……!」
「本当はお前さんがもう少し大きくなってから、と思ったんじゃがのう」
今のお前さんには相応しいじゃろうて。
歴戦のギルドマスターは、そう言って笑った。
「構え!」
魔物たちの雄たけびが壁の上にまで響きはじめ、守り手たちが身構えた。
「なあ、サニー、ティナ」
「うん」
「なあに?」
「戻ったら、院長先生に謝ろうな」
少年は左手に持った鞘を握りしめ、右手を柄に添える。
それはかつて、彼の父親が使っていた構え。見様見真似で覚えた構え。少女と二人鍛錬を積んだ構え。
冒険者なら誰もが知っている、基本の構えだ。
チャキ、と小気味いい音を響かせて、剣の重みを確かめる。三人のいたずらっ子が、にやっと悪い笑みを交わした。
「うん!」
「言い出しっぺのジェスが先頭」
「しゃーねえな!」
迫る終焉。
冬の終わりの晴れた空は、どこまでも高く広がっていて。ジェスは小さく微笑んだ。
なあ、ケト。
お前は、この町のこと、俺達のこと、ちゃんと覚えていてくれるよな。
必死に守り抜いた”英雄たち”のこと、忘れないでくれるよな。
澄み切った心の中にはもう一点の迷いもなく、友と真っ直ぐに前を見据えた少年。
そんな彼の頭上に広がる蒼穹。その遥かな天頂から。
――もちろん!
「え……?」
――だから、わたしを手伝って。
まるで彼に微笑むかのように、光が降り注いだ。




