たすけて その3
「え……?」
呆けた声が、転げて落ちた。
夢でも見ているのだろうか。
目の前に佇むがっしりとした体は、エルシアより一回り大きい。フードの下から覗くのは、ガキ大将の面影を残しながらも、年相応の落ち着いた光を灯すようになった、黒い瞳。
「ガル……?」
名前を呼ぶ。
”影法師”のローブを纏い、上から見覚えのあるロングソードを携えて、背中には妙な盾まで背負っていた。彼がゆっくりとフードを外すにつれ、慣れ親しんだ顔が、良く見えるようになる。
「なんで……?」
見間違いなんかじゃない。
どうしてここに彼がいるのか。どうして変な格好をしているのか。
訳が分からない。確かに彼は無事とは聞いていた。でも、ここに居るはずのない彼が立っていることについて行けなくて。ただボケっと見上げる娘に向かって、ガルドスは不機嫌そうに答える。
「なんでも何もあるかよ。会いに来たんだよ、お前に」
「へっ?」
会いに来た。はるばる遠いブランカから、自分に会うために。
「……いや、でも。だ、だって、どうやってここまで? 入れるはずないのに……」
「おう。もう本当に大変だったんだからな。こんな格好して、地下水路から乗り込んだんだよ。それだけじゃきつい所は、アルフレッドの手を借りてさ。あいつ色々取引してたらしいが、詳しいことは俺も知らん」
「アルフレッドが……?」
あの宰相家嫡子が、取引の末に彼をここまで導いたと言う。なぜ、なぜという言葉しか浮かばない。混乱しきってしまって、何が分からないのか分からない。
しかし、彼はそんなことお構いなしで、腰に手を当てふんぞり返るのだ。
「て言うか、んなこたどうだっていいんだよ」
大男が、形容しがたい目で自分を見ていた。自分が何かやらかす度に向けられてきた、呆れた視線だ。
「お前、今相当ヤバい立ち位置にいるんだってな。いてもたってもいられなくて慌てて来てみたってのに。まさかボケっと昼寝してるとは思わなかったぞ?」
「そ、そんな言い方……!」
反射的に返して、途中で口を噤む。しばし考えてから再び開いた口は、かりそめの落ち着きを取り戻してくれた。
「あ、ああ……、うん。ま、ちょっとうたた寝してたのは確かだけど。恥ずかしい所見せちゃった」
その方が良い。エルシアは昼寝ができるくらいの境遇にいる、そう思ってくれた方が、心配かけずに済むから。
「ま、まったく。突然押しかけてきて驚いたわよ。何て危ないことしてるの、見つかったらただじゃすまないって分かってる?」
一度口が回りだすと、スラスラと言葉が出てくる。
彼が何も答えないのをいいことに、エルシアはバツの悪さを誤魔化すようにまくしたてる。こんなことを言いたいわけじゃないのに。
「貴方、今すぐ戻った方がいいわ。最近のこの場所は本当に物騒なの。下手に王都から出たらそれはそれで危ないから、アルフレッドの家に匿ってもらった方が……」
「何があった?」
まとまりのない言葉は、端的な問いに遮られた。そのぶっきら棒な低い声に、慌てて立ち上がっていたエルシアはたじろぐ。
彼が、怒っている。
「べ、別に何もないわよ。ただ、慣れてない場所だから、ちょっとだけ疲れがたまってるかも……」
「ちょっとだけ、だと……?」
彼の眉間に皺が寄る。彼はエルシアをじっと睨みつけていた。
「そんなに痩せて、やつれて、それで出てくる言葉が、”ちょっとだけ”?」
「……」
答えられなかった。
ただ、目を見開いて彼をまじまじと見つめることしかできなかった。
そんなに痩せただろうか。そんなにやつれただろうか。
確かに最近、食事が喉を通らなくなった。今朝はスープを半分と、パンを一ちぎりだけ。昼は抜きで口にしたのは紅茶ばかり。それが限界だった。
眠れなくなったのも事実だ。布団に入ってまんじりともせず、ようやく意識を失ったと思えば、息苦しくて目が覚める。その後は、日が昇るまでボケっとしているのだ。
「ヴァリーさん、だっけ? 手引きしてくれた侍女の人に聞いた。王様と話に行ったんだってな。そのまま戻ってこないって心配していたぞ」
「……」
思わず唇を噛んだ。ヴァリーが、彼に協力していたのか。
侍女はどこまでも優秀だった。主人に知られずに、ここまでのことをやってのけるのだから。
「……話はついたわ。以後のケトの自由と安全は確保できることになった」
そう、結論は出たのだ。エルシアはそれで納得しなければいけない。
幼馴染の顔を見返す。これだけは胸を張って言うことができる。堂々と、自信を見せなくてはいけない。
なのに、そんなエルシアの胸中などお構いなしに彼は言うのだ。
「……代償は?」
「え……?」
おおよそ彼らしくない言葉。脳筋の彼には似つかわしくない言葉。
「その願いを叶える代わりに、お前は何を差し出した?」
「……何を、言って」
時に呆れたように、時に不機嫌そうに、時に興味なさそうに。
そして、何だかんだ言っても、いつだって彼のまなざしが。
「答えろ、シア。お前は何を取引した」
どこまでも厳しく、どこまでも思慮深く、彼の瞳孔がエルシアを映し出した。
見ていられなくて、いたたまれなくて、そっと視線を下に落とす。無理やり膨らませた自信が、みるみるしぼんでいくのが分かった。
「……そんなこと、貴方に言う必要ないでしょ」
「お前はいっつもそうだ。何でもかんでも抱え込んでりゃいいと思ってる。挙句盛大に馬鹿やって、身動き取れなくなりやがって」
「……」
「しかもそんな苦しそうな顔しながら、言う必要ありませんってか。それでもまだ、俺たちに隠すのか。俺ですら少しは反省したってのに、お前は反省なしか」
「……そ、そんなこと」
彼の視線に苛立ちが混じっていた。
考えてみれば当たり前だ。ずっと傍にいた相手が、自分を偽り続けていたのだから。突然置いて行かれて、その後すぐ襲われて。経緯すら分からずに、故郷を離れることになった彼なのだから。
けれども、エルシアは思ってしまうのだ。
ずっと一緒にいたのだから、自分の気持ちだって少しは分かってよ、と。
ああ、なんという甘え、何たる傲慢。加害者の自分が、迷惑をかけてしまった人に言えたことではない。理不尽にも程がある。
ガルドスが鼻を鳴らすから、罪悪感に震える胸が痛む。
「そんなこともどんなこともあるかよ。今更隠したところで何が変わる。ちんちくりんのお前に何ができるんだ」
酷く呆れかえったようなため息。その仕草が信じられなかった。
あの彼が、今や自分に鋭い視線を向けている。自分の苦悩を一番近くで見てくれていた彼が。
その言葉に、その態度に、エルシアの中の何かが、ぷつりと切れた。
「何も、何もできる訳ないじゃない……!」
「あ?」
「何もできないって言ってんのよっ!」
憤りを込めてガルドスを睨みつける。
「私は救いようもない馬鹿よ! 何かできると思い込んで、盛大に失敗して! ずっと誰かに迷惑かけて。そんなこと、自分が一番分かってる! 私の愚かさなんて、私のどうしようもなさなんて!」
彼は全くたじろがなかった。その態度に、激高する。
「私がどれだけ悔やんで、どれだけ悩んで、どれだけ苦しんだか分かる!? 反省してないなんて、よくも言えたものね!」
もう、嫌だ。彼の言葉にショックを隠せない自分が。きっとまだ、自分を大切に思ってくれる人がいるなんて、何故かそう思い込んでいた自分が。
自分のことを棚に上げて、エルシアは何とも滑稽に喚き散らす。
「分かって、分かってよ! お願いよ! もうこれ以上、私をいじめないでよ!」
「いや分かんねえよ」
何ともあっさり帰って来た言葉に空いた口がふさがらない。この気持ちは何? 怒り? 悲しみ? 目の前を真っ赤に染める激情が何か、エルシアは言葉にできない。
「どうしてッ……!」
「どうしても何も。俺は脳筋だから、言ってくれなきゃ分かんねえんだってば」
駄々をこねるように首を振るエルシアの先で、ガルドスが肩をすくめていた。顔をくしゃくしゃにして、エルシアは拳を握る。
「ああそう! じゃあ全部言ってやるわよ! それで貴方も同じように苦しめばいい!」
短く息を吸って、間髪入れずに言い放つ。
「代償は私の命よ!」
「……」
「建国式典で殺されることで、私は戦争のきっかけになるの! その代わりとして、ケトの自由は保障される。どう、これで満足!?」
改めて口にして、絶望する。ああ、なんて救いようのない状況だろう。
「……まさかそれ、お前は受けたのか?」
「だからそうだって言ってるじゃない! 他にもう手がないのよ!」
「……おおう」
彼は表情を変えた。何かを言いかけ、止めてを繰り替す。肩で息をするエルシアの前で、何とも言えない表情を向ける。
馬鹿じゃねえの。本当にちんちくりんだな。彼がこの後何を言うつもりなのか、もうエルシアに見当もつかない。早くもぶちまけてしまった後悔に苛まれながら、エルシアは彼が口を開くのを待った。
「なあ、単純な疑問なんだが……」
やがて、彼はこんなことを聞いた。
「……お前なんで、ケトを拾った?」
「……は?」
「ホント、よく分からないんだよ。もしかしたらこうなるかもしれないと分かった上で、ケトを拾っただろ。ほっとくなり、孤児院に預けるなり他の手はいくらでもあったはずなのにさ。でもお前はあいつを引き取った。なんでだ?」
なんだ。今更そんな、何の役にも立たないことを。
確かにエルシアの業の一つ。けれど、本人以外の人間には、もはや隠す程のことではなかった。
「あ、寂しかったとか、家族が欲しかったからはナシな。んなこたもう分かり切ってるんだから」
ああ、やはり彼は気付いている。
エルシアの奥底に眠る我儘。それを問いかけられていると、エルシアは理解する。そのどうしようもなさを聞かれていると、エルシアは思い知る。
「……言い訳が欲しかったのよ」
「言い訳?」
「”忌み子”の私が、”傾国”の私が、生きててもいい言い訳」
ポツリ、ポツリと零れる言葉。
「私は在ってはならない。この血はここに在るだけで、周囲に不幸を撒き散らす。だから本当は死ぬべきだって分かっていたのに、抗ってしまった」
エルシアはただ、死にたくなかっただけだ。徹頭徹尾、それだけ。
口元に浮かぶ歪な笑み。まるで罪を告白する囚人の気分だった。
「生きてちゃいけない。でも死にたくない。いくら考えても答えは出なくて、そんな時にあの子に会った」
あの春の日、ギルドの入口から覗いた先で、薄汚れた少女を見つけた。その子が、エルシアに言い訳をくれた。
「あの子の力を見た時、確信したの。ああ、ケトは普通の女の子として生きることなんてできないんだって。いつか、自分の業と向き合わざるを得なくなる。私と同じように」
血反吐を吐くように、エルシアは懺悔する。
「それを守るのは、十分な理由じゃないかって、そう思った。私はその辛さを知っていて、まだ小さなケトが耐えられないことを知っている。なら、例え世界を敵に回しても、生きて守らなくちゃいけないんじゃないかって」
そう、それは。
「結局のところ私は、ケトを通して自分が死なない言い訳を探していただけよ。守らなきゃいけないから、教えなきゃいけないから、導かなきゃいけないから。だから、まだ死ななくていい。生きてていいんだって、自分に言い聞かせていただけ」
自分は今笑っている。酷く捩れた笑みを浮かべている。
「ケトには本当感謝してるの。力を持ってくれてありがとう。私の前に現れてくれてありがとうって」
嗚呼、なんて烏滸がましい。なんて救いようのない。
「私は最低よ。どこまでもケトのためだ、なんて顔しておいて、結局は自分のことしか考えてない。自分の命惜しさで、周りを滅茶苦茶にして……。ケトまで巻き込んで……!」
そして今や、エルシアは自ら命を絶つことすらできなくなった。斬首を待つ罪人だ。
「どう!? これで満足? 私なんか死ぬべきなのよ! それでみんなが喜ぶ! みんな幸せになれる! みんな、みんな……!」
狂ったように両手を広げて、目も広げて、エルシアは喚く。
共に育ってきた幼馴染に、言葉を叩きつける。一歩ずつ近づいてくる大男の図体は、もう目に入っていなかった。それこそ自分のことしか頭になく、だからこそ。
エルシアは、思い切り頭突きを浴びた。
「ぎゃっ!!」
「……バッカじゃねえの?」
目の奥で火花が散る。彼の石頭が、自分のおでこに遠慮なく叩き込まれたのだ。ちらつく視界。突然のことに頭が真っ白になった。
「……本当はさ、俺から何か言うつもりはなかったんだけどよ。余りに腹立ったからぶち込んじまった。それで少し頭冷やせ」
「な……、な……!?」
目を白黒させるエルシアの前で、ガルドスがとびきり不機嫌そうな笑みを浮かべていた。ああ、その表情には見覚えがある。ガキ大将がいたずらをする時の表情。
口の端を吊り上げて、悪い顔をした彼が声を上げる。
「なあ、どうだ。これで満足か?」
「うん」
黒の瞳で振り返った、彼の後ろ。何もないその場所から。
鈴を転がすような、声がした。
―――
若木が柔らかく包み隠す場所で。
静かな午後の光に包まれて、木漏れ日が揺れる。
エルシアの視界が、揺らいだ。
ふわり、ふわり。隠された世界が、恥ずかしそうに、嬉しそうに、少しずつ像を結びはじめる。
「やっと会えた」
光が、形を作る。
その小さな体を。その滑らかな銀髪を。その柔らかな頬を。贈り物の外套を。胸に輝く”白猫”を。
「やっと聞けた」
滲みだす少女の姿。世界が揺らめく錯覚に、つかの間エルシアは瞬きを忘れた。
そして、呆けた栗色が、喜びを湛えた銀の瞳と、再び出会う。
「シアおねえちゃん」
ケトが呼ぶ。エルシアを呼ぶ。彼女しか使わない呼び方で、エルシアに呼びかける。
「あ、ああ……」
エルシアはただ呻いた。瞳が零れ落ちんばかりに、目を見開いて。
全てをさらけ出した娘はもう、何も隠せない。
「嘘……。嘘だよ……」
だって、言ってしまったのだ。これまで隠し通して来たエルシアの秘密を。その弱さを。どうしようもなさを。
知られてしまったら、きっと本当に独りぼっちになってしまう秘密を。
あれほど会いたいと思って居た彼女に、顔を向けられない。今は目を見られない。
少女が小さな一歩を踏み出す。
怖くて、怖くて、娘は一歩後ずさる。
「怖がらなくていいよ」
無理だ。駄目だ。
憤りに任せて言うのではなかった。本人に聞かれているなんて思いもしなかった。文字通り、墓の下まで持って行くべきだったものだ。何のために彼女の前で、心を見せずにやってきたと思っているのか。ずっと抱き続けてきた、罪悪感、歪な愛情。それはエルシアが何よりも隠すべきものだったのに。
「無理じゃない、駄目じゃない」
「来ないで……!」
いやいやと、駄々っ子のように、エルシアは首を振る。目をぎゅっと閉じて、後ずさろうとして、背中の墓石に邪魔される。
「違うの、違うの……。お願い、そんなんじゃない……。私、私……!」
今だけは、ケトの微笑みも目に入らない。膝から力が抜け、エルシアは情けなくへなへなとへたり込んだ。
「……ごめんなさい」
ああ、そうか。
一度口に出た言葉がすっと胸の中に落ちる。
自分は謝らなくてはいけない。悪いことをしたから、謝って許してほしいのだ。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……!」
拾ってごめんなさい。巻き込んでごめんなさい。偉そうでごめんなさい。離れてごめんなさい。生きていてごめんなさい。
ぼろぼろと崩れる心の欠片。それが声になって吐き出される。血の気の引いた顔で、焦点の合わなくなった目を地面に這わせて、譫言のように懺悔を。
エルシアの上に小さな影が落ちる。少女がすぐ傍まで来ていた。その顔を見上げる勇気が、エルシアには湧かない。
蔑んでいるのだろうか。憎んでいるのだろうか。自分を巻き込んだ”傾国”を。そうしたら、エルシアはもう立ち直れない。
「シアおねえちゃん」
柔らかな響き。ぺたりと項垂れたエルシアを、ケトが見る。涙を浮かべたケトが見つめる。
「会いたかった……!」
幾重もの想いを重ねた声が耳朶を震わす。
「いや……、いやだよ……」
少女の静かな息遣いが聞こえる。命を紡ぐ、脈動が聞こえる。
「ねえ、シアおねえちゃん」
少女は紡ぐ。
「わたしね、とっても嬉しい」
「え……?」
「だって、シアおねえちゃんと同じだって分かったんだもん」
吐息をついて、ケトは言葉を紡ぐ。
「わたしね、シアおねえちゃんありがとうってずっと思ってたの。でも、どうしてこんなにしてくれるんだろうって、不思議だった。わたし、何にもお返しできないし、迷惑いっぱいかけちゃうし。いつか、シアおねえちゃんに嫌われちゃうんじゃないかって、考えてた」
「……」
「でも、シアおねえちゃんの”ほんとう”を聞けてね、わたしが少しだけでも、シアおねえちゃんにお返しできるんだって分かったから。だから、うれしい」
何を言っているのか、エルシアには理解できない。この蔑まれて当然の心を知った上で出てくる言葉じゃない。
「……そんな、良いものじゃない!」
両手で頭を抱えて、エルシアはくぐもった悲鳴を上げる。
「私は貴女を利用したの! 何も分からない貴女を騙して、自分の好き勝手に引っ張っり回して! やってることは陛下とも、教会とも同じ、何一つ変わらない!」
さも当然なふりをして、少女の常識を書き換え、洗脳した。自由に生きるため、なんて免罪符を振りかざして、少女の人生を傾けてしまった。
そして今、彼女はここに居る。果たしてどれほど彼女を歪めてしまったのか、どれほどの苦痛を味合わせてしまったのか。それこそエルシアの想像では追いつかない領域だ。
「馬鹿だ、私は救いようのない馬鹿だ! 消えてしまえばいいんだ! 巻き込んで、今更になって謝るくらいなら、話すべきじゃなかった! 話すつもりなんかなかったのに!」
ずっと抱えていた罪悪感。胸の痛み。それはエルシアの罰。被害者の前で決して開いてはいけない罪だったのに。
もはや顔を上げる気力すらないエルシアの上で、少女の纏う雰囲気が、ほんの少しだけ変わった。
「……ふふ」
笑っている。嘲笑ではなく、怒りでもなく、ただ、幸せそうに笑っている。
小さな歩幅で、一歩近づく。近い。嫌だ。もう、見ないで欲しい。
「嬉しい」
小さな囁き。おひさまのような暖かい囁き。
「あのね、わたし、いっぱい考えたの。ほんとうに、シアおねえちゃんが言った通りなら、今頃どうしてたかなって」
切ない吐息。逸らした視線をものともせず、覗き込まれて目線が合う。
「もし、シアおねえちゃんがわたしを好きでいてくれなければ。……きっとここにわたしはいない」
「ケト……」
そのあまりの温もりに、エルシアはゆっくりと視線を上げる。恐々と、絆されるように。
「きっとね、死んじゃってたと思うんだ。だって、怖くて、ひもじくて、寒くかったから」
エルシアはただ息を飲む。
どうして貴女は笑えるの? どうしてそんなに、慈愛に満ちた微笑みを浮かべられるの。どうして、どうして。姉が妹を見るような微笑みに、鼓動が早まる。
「シアおねえちゃんは、わたしに”たくさん”をくれた。もちろん、最初はわがままだったかもしれないけれど、それとこれとは別。……おいしいご飯、あったかいお布団、お出かけ用のお洋服、このコートだってそう。それだけじゃないんだよ? わたしを抱きしめてくれたことも、お友達ができたことも、ギルドのみんなとも仲良しになったことも、いつも誰かがわたしを見てくれてたことも。隣にいられなくなっても、独りぼっちにしないでくれてたことも」
木漏れ日が少女を照らす。その姿が、絶望に染まった目にはあまりに眩しくて。
「そして何より、シアおねえちゃん。あなたはわたしに”家族”をくれた。全部なくしてでも守ってくれるような、大好きなお姉ちゃんを」
「……そんな、良いものじゃ……」
「シアおねえちゃん」
なおも、千々に乱れた心を垂れ流そうとするエルシアに、ケトはいたずらっぽく笑った。
「ごめんね、これだけはあなたがどうしたいかなんて知らない。わたしは、わたしがやりたいからやるの。シアおねえちゃんが帰ってくるためなら、どんなことだってやりとげる」
膝をついたエルシアに、ケトの顔が近づく。目を切なく伏せ、口元を耳に寄せて、少女はそっと囁いた。
「決めたの。必ず、わたしの隣で笑ってもらうから」
悪い微笑みを浮かべた少女が、娘に宣言する。
なんて甘い囁き。全身全霊をかけて、立ち上がりたくなってしまう誘い。
けれども、それが身を滅ぼすことに変わりはないのだ。
「だ、駄目よ」
「どうして?」
ケトはきっと、今の状況を分かっていない。国は戦争に突き進み、この王都が戦場になろうとするこの状況で、国王の誘いは、エルシアがようやく掴んだ一筋の希望なのだ。これを逃せば二度と機会は訪れない。だから、エルシアは最後までもがくのだ。
「貴女の自由は私が守る。しばらく隠れてさえいれば、きっと何とかなる」
そのためにエルシアは覚悟を決めた。後はもう、王の問いに答えるだけで、それが為せる。
「貴女は今がどれほど危ないか、分かってないの。いい? お願いだからいい子にしていて。国が本気になったら、教会が本気になったら、貴女はひとたまりもないの」
その目は果たして、エルシアの言いたいことを理解しているのだろうか。たかが十歳の少女には複雑すぎる状況が。
「王は、戦争で成し遂げたいことがある。教会だって同じよ。もはや戦争は避けられないの。その中で、両者に力を与えるケトの存在はもはやただの噂のじゃなくなった。大人たちにとって絶対に手に入れなくてはいけない目標になっているの」
くりくりした瞳を見上げて懇願する。
「その中に、たった十歳の貴女が巻き込まれているのよ? 悪意だらけの集団相手に何ができるの。貴女が生き残るためには、強い後ろ盾が必要なの。後見さえつけてしまえば、ほとぼりが冷めた時期を狙って王都から離すことだってできる。そうするしかない。私にだって上手くいくか分からないと言うのに……!」
「うーん、むずかしい……」
眉をへの字に曲げてケトは悩む。しばらくしてコテンと首を傾げたその仕草に、エルシアの心は跳ねる。
「でも、それじゃシアおねえちゃん死んじゃうんでしょ? ……あれ、合ってる?」
「それは……」
思わず、視線を落とす。だが、ここで怯むわけにはいかないのだ。
「駄目よ、ケト。私がまだ国に影響を与えられるうちに……!」
「ダメ! ぶぶー、きゃっか! そんなのしたら……」
煮え切らない態度に察したのだろう。ケトは頬を一気にぷくっと膨らませた。
それを見て、エルシアは罪悪感を押さえつけた。これだけはエルシアだって譲れないのだと、少女の言葉を声を荒げて遮る。
「言うことを聞いて! このままじゃ私も貴女も生きていけないことぐらい分かって! 二人とも殺される前に、せめて貴女だけでも生き延びなきゃいけないの!」
「シアおねえちゃんが一緒じゃなきゃ意味がない! わたしはあなたと一緒にいるんだから」
少女の目が歪む。一転して浮かべた、とても寂しそうな表情に、エルシアの胸は締め付けられる。
それでも、エルシアは言わなくてはならないのだ。
「あのね、貴女が思うほどこの世界は優しくないの! 戦争だけじゃない。その後に待つのはこれまでとは比較にならない程の技術発展よ!? それはよってたかって貴女に牙を剥く。その力に目を付けた奴らが、更に貴女をつけ狙う。それにどう立ち向かうって言うの!? だからこそ、貴女には私よりも大きな後ろ盾が要るのに」
エルシアは怒っている。この酷い世界に、嫌気がさしている。
「陛下は少なくとも、その危険性を承知した上でケトの自由を保障すると言っている。なら後は、その約束を違えられないよう根回しをすればいいだけ! そしてもう私には迷う時間なんかない。すぐにでも私が受け入れないと、ブランカが滅んでしまうんだから!」
「……どういうこと?」
間髪入れずに返されたその呟きに、言いすぎたことを悟る。
ブランカの危機など伝えてどうする。どうにもできないことを心配させてしまうなんて。やはりエルシアは救いようがない。
悩んだのは一瞬。今更隠すことなんてあるか。ああもう、ぶちまけてしまえ。
「教会が本格的にブランカを潰しにかかってる。スタンピードの発生を促して、もう一度ブランカを襲わせるつもりなの。王はそれを分かった上で直前まで情報を隠して、交渉の条件にしてきた。それも全部、ここ一番で私を従わせるために!」
実際、国王の話はこれ以上ないタイミングだった。エルシアに選択肢を考える時間を与えなかったのだから。
「ボロボロのあの町が、どれだけ耐えられると思う!? 陛下は私の死と引き換えに、周辺に駐留する騎士団を派遣すると言っている。町の皆が逃げる時間くらい稼いでくれる。ケトの後見と、ブランカへの援軍。私の死で、皆救われるの! そんなの納得するしかないじゃない! それでいいじゃない! ……もう、私をいじめないで!」
口にすればするほど絶望的な状況。エルシアには選択肢がない。その中で、まあマシだと思えるくらいの条件なら、縋りつかない理由がなかった。
気遣う余裕のない説明は、やはりケトにとって難しかったのだろう。眉間に皺を寄せて考え込みながら、ケトは唸った。
「……シアおねえちゃん」
「何よ?」
「ブランカが、危ないの?」
「そう言ってるのよ」
「すぐっていつ?」
「明日の昼」
「そっか……」
少女が静かに目を閉じる。
どうにもならない残酷な現実。手の届かない場所で、帰る場所が消えようとしている事実。王都からブランカまでは馬車で三日。もう遅い。早馬を飛ばしたところで、一日以上はかかるのだから、北にいるという騎士に指示を出すなら、すぐにでも答えを伝えなければならなかった。
やがて、銀の瞳がパチリとエルシアを見下ろした。
幾分か落ち着いた色の光。ほら、貴女だってそうやって受け入れるしかないでしょう? 昏い愉悦を味わってしまう自分を嫌悪しながら、歪な笑みを浮かべたエルシア。
しかし次の瞬間、彼女はケトの答えに固まった。
「間に合う」
「……え?」
何を言われているのか分からない。一体何に間に合うというのか。
「わたしなら、行ける。みんなを助けに行ける」
「な、何を……?」
「ええっと、シアおねえちゃん。とにかくその王さまとのお話には、ダメですって言って。騎士団はいりませんって。いなくて大丈夫ですって。あと、シアおねえちゃんは死なないですって」
「ケト……?」
意味が分からなくて、思わず大きな瞳を覗き込んだエルシアは、息を飲んだ。
少女の瞳に宿るのは、記憶にない大人びた光。難しいことを先送りにせず、理解しようと努め、少しだけ成長した、十歳の少女に宿りはじめた、意思の光。
慈愛に満ちた微笑みを浮かべ、少女は胸を張った。
「大丈夫。ブランカはわたしが守るよ」
「だ、駄目!」
考える前に、声が出た。その小さな体に、慌てて縋りつく。
「そんなの駄目、貴女が戦っちゃ駄目なの。私はそんなことさせたかった訳じゃない!」
「どうして? 一人じゃ行かないよ? ちゃんとみんなに手伝ってもらうよ?」
首を傾げる少女。まさかそんなことを言い出すとは思っていないと、エルシアは必死に想いをぶつける。
「貴女はまだ小さな女の子なの。戦う必要なんかない。それは大人たちの仕事だもの、貴女が傷つく理由なんかない!」
勢いで伸ばした手を、ケトが握る。ああ、なんて暖かいぬくもり。それが傷つき、血を流すなんて考えたくない。もはや論理も何もなく、娘は拙い説得を繰り返す。
「駄目よ。貴女が行っては駄目」
「それはシアおねえちゃんも一緒だよ」
「私は違う! これは私の家の問題だもの!」
「違くない。シアおねえちゃんだって、女の子だもん。わたしとおんなじ、女の子」
「違う、違うのよ!」
「違わない。……本当は、分かっているんでしょう?」
無遠慮に覗き込まれたその言葉に、エルシアの箍が外れた。
「貴女に何が分かるって言うの!?」
顔を上げて、亜麻色の髪を振り乱し、栗色の瞳を燃やす。
「龍の目で視たくらいで、分かった気にならないでよ! 私が、どんな思いで生きてきたか。ただ明日を迎えるだけのことに、どれだけ罪悪感を抱いて来たか! 何にも知らない癖に、何にも分からない癖に!」
最初はただ死にたくないだけだった。
でもやがて、自分の特異性に気付いた時、エルシアは生きることにも絶望した。
「昔からそう! ガルと歩いた帰り道でも、馬鹿みたいに口開けて寝る孤児院のベッドでも! 誰だって当たり前に持っている明日が、私だけを責めてくる苦しみを!」
幼い頃は布団にくるまって、能天気な寝息に囲まれながら声を押し殺して泣いた。孤児院を出てからは、一人の夜に震えながら眠った。やがて拗らせ、反抗し、諦め、今のエルシアを形作った。
「このままじゃ貴女だってそうなるのよ!? 生まれたことを、生きてきたことを後悔して、それでも死ぬのが怖くて! 何も見ないように、自分を隠して、偽り続ける人生にどれだけの価値があるっていうの!」
エルシアは歪に嗤う。そうして生きてきた自分を、蔑む。
「何度終わりにしようと思ったか、貴女に分かる!? 町の壁から落ちようとしたら、足がすくむのよ。それで思い知るの、私は自分じゃ死ねないんだって!」
かつて、何回か試して諦めた。皮肉にも、エルシアはどこまでも健康だった。生きる方法を探すしかなかった。それもまた、地獄だと知りながら。
「だから私、生きるために皆を騙したの! だって私には力がなくて、冒険者にすらなれなくて! 力を借りなきゃ、自分の身一つ守れないからって。本当に、ほんっとうに、私は救いようがない愚か者なのよ!」
エルシアだって手を貸してもらえるように、頑張ったのだ。
始めは孤児院の子供を相手に。やがて冒険者になれないと思い知ってからは、頼み込んだギルドの受付嬢として。
細やかな気配り。ほどほどの自己主張。幸か不幸か、母譲りの整った容姿も味方になってくれた。そしてそのどれよりもまず何より、エルシアは皆の優しさに付け込んだ。
全ては、生きて明日を迎えるために。
裏で”看板娘”なんて呼ばれていると知った時、エルシアがどれほど喜び、そしてどれほど自己嫌悪したことか。
「この罪悪感が、貴女に分かるの!? 少しずつ膨らんで、押しつぶされそうになる気持ちが分かる!? 素直になりたくても、なれない呪いがどれほど辛いことか……! その言い訳を貴女に求めたりして、私はまた一つどうしようもなくなって!」
ケトを守らなくてはいけないから。そんな免罪符を盾に、エルシアはまた一つ歳を重ね、また罪を重ねた。
「その結果がこれよ! 貴女を守れず、国を傾け、恩人を傷つけて。その上まだ災厄を撒き散らそうとしているのよ!」
自分の立場が、どのような混乱を招くことか。戦争が終わった世界を、エルシアは想像できない。
「そんな私がようやく掴んだ方法なのよ。この世界に受け入れられない私が消えさえすれば、それで全部上手くいく。私の望みが叶う。誰にも邪魔なんかさせない!」
肩で息を吐きながら、エルシアはぐっとケトの胸を押しのけた。体が離れ、ひんやりとした風が胸中を撫でる。また傷つけたであろう少女の顔を見ずに、ただポツリと呟く。
「だから、貴女が戦う必要なんかない。貴女が傷つくなんて許さない。貴女は貴女自身のことだけを考えていれば……」
「シアおねえちゃんッ!!」
叫び声が響き、胸元がぐっと引っぱられる。隣にいた頃には一度も感じたことのない乱暴さで、エルシアはケトの瞳に引き寄せられる。
「分かる訳ないよっ!!」
大きく空いたドレスの胸元をむんずと掴み、ケトが大声を上げた。
「わたしとあなたは違うの! 分かる訳ないの!」
悲鳴ではなかった。ただ憤りは感じ取ることができる、そんな強い声だった。ケトがじいっとエルシアを睨み返していた。
「だからお話して、考えなきゃいけないんじゃないの!? だからお勉強して、他の人がどう思っているか考えなきゃいけないんじゃないの!? シアおねえちゃんが教えてくれたことって、そういうことじゃないの!?」
エルシアが開けた距離を、ケトが詰める。おでことおでこがゴツンと当たって痛い。
「わたし、頑張ったんだよ!? シアおねえちゃんに言われた通り、分かって、守って、戦って、お願い叶えるために、強くなろうって頑張ったんだよ!? なのにシアおねえちゃんが逃げちゃったら駄目じゃない! わたし、怒ってるんだよ。お話したがらないシアおねえちゃんに怒ってるの!」
「逃げてないし、話ならしたわ! 貴女には難しいだけ!」
「たしかに難しいけど、分かりたいのっ! なのにシアおねえちゃんは言い訳してるだけだ! わたしはシアおねえちゃんの気持ちが聞きたいだけなのに、答えてくれないんだっ!」
「私は自分ができなかったから、そう教えたの! 貴女には力がある、誰にも負けないくらい強くなれる! 名ばかりの私とは違うっ! 同じものを求めないでよっ!」
酷い言い草だと自覚する。自分はできないけれど、貴女はやれ、なんて。
エルシアはケトに憤っていた。同じくらいケトはエルシアに憤っていた。
燃える瞳が、燃える瞳を睨みつける。
「私は弱いの! それでも、貴女みたいにはなれなくても、そこに手を差し伸べることはできるっ! 貴女に優しい明日を導く邪魔をしないで!」
「シアおねえちゃんのいじわるっ! わたしに優しいっていうなら、あなたが居てくれなきゃ駄目だって、どうして分からないのっ……!」
ケトの目から、涙が溢れた。銀色の髪を振り乱して、身を震わせながら、ケトは涙を流す。分からずやのエルシアに、これでもかと言葉を叩きつけて。
どうしてここまで必死になるのだろう。もはや少女の拙い論理では、エルシアの心は変えられないと言うのに。
そんなにつらい顔をさせたくなかったのに。ただ笑っていて欲しかっただけなのに。
「わたしも弱いの! 一人じゃ何もできないくらい弱いの! それでもっ!」
ぽたぽたと、エルシアの頬に涙が落ちる。しょっぱくて暖かい涙が、じんわりと心を揺らす。
「あなたがいたから、一人じゃなかった! 分からないところは教えてくれた。一緒に考えてくれた! あなたと、あなたを通して知り合えたみんなと! 何もなかったわたしに!」
そうなるように仕組んだのはエルシアだ。力を持たぬちっぽけな娘が作り出せる、情と言う名の盾。エルシアにとっての唯一の武器。
「あなたが居なくなった後も、みんなは一緒に苦しんでくれた、悲しんでくれた! 傷ついてでも守ってくれた! みんな色々なことを教えてくれた。受け入れた方が楽だって。落ち込んでも良いんだって、泣いても良いんだって。言ってることバラバラだったけど、みんな一つだけ同じことしてた! どれだけ時間をかけてでも、ちゃんと向き合おうとしてた!」
ケトはエルシアに向き合う。
「だからわたしもそうなりたくて。考えたよ、いっぱい考えたよ。それで決めたの」
涙に濡れた銀が、涙を浮かべた栗色に告げる。
――わたしはあなたを救い出す。もう一度、あなたの隣で笑いたいから。
ケト、と呼びかけた声は音にならず。
「決めたの。必ず、わたしの隣で笑ってもらうから」
涙と共に微笑みを浮かべた少女が、娘に宣言した。
それはかつて、エルシアが格好をつけて言った台詞。そうせねばならぬと、覚悟を決めるための台詞。事あるごとに繰り返し伝えてきた、エルシアの決意。
握ったままの手を、ぐいっと引っ張られた。有無も言わさぬその力に、抗うことすら考えられず姿勢が崩れる。
ケトの胸に抱き留められている。ようやくそれだけを理解して、エルシアは混乱した。
おかしい。抱きしめるのはエルシアの役目のはずなのに。
確かに、情を武器にケトを守ろうとしたのはエルシアだ。いざという時、力のない自分の代わりに、冒険者が、孤児院の子供たちが、町のみんなが守ってくれるようにと。導いてくれるようにと。
それはとても上手く行ったはずだ。少女は苦悩すれども絶望はせず、魔の手から逃げることに成功した。
そこまでで良かったのに。それ以上、何も望んでいないのに。
ケトは言うのだ。エルシアが作った人の輪が、それぞれの方法で、悩むケトを見守り、助言し、その選択を尊重し、手を貸してくれたのだと。
エルシアを救おうとするケトを助けてくれるのだと。
「おかしいよ……」
「おかしくない」
「こんなの、おかしいってば……」
「わたしはそうは思わないよ」
そんなのおかしい。想定外だ。
エルシアの考えでは、どうにもならない第二王女はやがて記憶の隅に消えていくはずだったのに。
「無理、できないよ……」
「うん。わたしだけじゃできない。でもひとりじゃないから、強くなれる」
ケトは自由に選んだ。エルシアとの未来を選んだ。
「駄目よ。傷つけたくない……」
「あなたの傷を少し分けて。それはわたしのせいでできたんだから」
そして今、少女を通して皆が見守っている。非情な現実に否を唱え、考えなしの少女の望みを叶えようとしている。
それを望んでいたはずなのに。ただ一つだけおかしい。
自分がその輪の中に入っていることだけが、おかしい。それを誰もが認めていることがおかしい。
もしかして、今なら言ってもいいのだろうか。
鼻腔をくすぐる暖かいミルクの様な匂い。優しく柔らかい感触。
まるで猫が寄り添うように。ケトはエルシアの耳元で囁いた。
「怖がらないで、わたしの傍にいること」
「無理……」
「幸せになりたい。あなたの隣で」
「無理だよぉ……」
その沁みわたる一言が、エルシアの言い訳を押し流す。
「シアおねえちゃんは、どう?」
もう、限界だった。
涙は流さない。ここに来るとき、勝手に一人でそう誓ったのに。
ただ、ポロポロと。こらえきれなくなった滴が、後から後から膨れ上がって、エルシアの頬を伝う。小さな温もりに顔を押し付ける。力なく垂れた両腕が温もりを求めて、ふらふらと少女の細い背中に回された。
「放っておいたら、わたし勝手に戦っちゃうよ?」
「なんで……」
その理由を、ケトは既に語った。その想いを、疑う余地なんかどこにもない。
「あなたを救う、わたしを守って。シアおねえちゃん」
……嗚呼、殺し文句だ。
そんなこと言われてしまったら。そんなこと望まれてしまったら。
一度零れ落ちたら、もう止まらない。小さな体に手を回して、ぎゅうと顔を押し付けて、エルシアはしゃくりあげる。
「ケト……」
「うん」
「ケトぉ……!」
か弱いエルシアが、声を上げ始める。痛いよと悲鳴を上げて、苦しいと呻く。
心の壁は、一度崩れはじめたらとても脆くて。とても惨めに、情けなく、どうしようもなく。
そして、とても素直に、声が出た。
「たすけて……」
亜麻色の癖っ毛を撫でながら、少女は頷く。
「うん」
その言葉に、その仕草に。
エルシアの被っていた仮面が、剥がれて落ちた。
……ああ、言っていいんだ。
「たすけて」
「うん」
「たすけて、たすけてケト……!」
「うん」
「死にたくっ、死にたくないよぉ……!」
「うん……!」
「一緒に、一緒に居たいの……!」
「うん、うん!」
エルシアはただ、声を上げて泣いた。
顔をくしゃくしゃにして、これまで隠し続けてきた心をさらけ出して、泣いた。しゃくりあげる呻きに、ひとつひとつ帰って来る言葉が、ひび割れた心に少しずつしみ込む。
「なんで、私ばっかりぃ、ひぐっ、えぐっ、いったい、なにしたって言うのよぉ。寂しかっただけなのに、怖かっただけでぇ、なのに、なのに……!」
「わたしがいるよ。もう、大丈夫だよ」
亜麻色の癖っ毛越しに、頬ずりされるのを感じる。
少女の胸に、顔を押し付けて。思い切り抱き着いて。優しい囁きが娘の耳朶を揺らし、心を震わす。
少女に抱き留められて、頭を真っ白にして。
娘はまるで子供のように、ただ、わんわんと泣き喚きながら。
看板娘は、きっと最後になるであろう諦めと、小さな覚悟を胸に抱いた。
「シアおねえちゃん」
「ぐすっ……、うん……」
「お誕生日、おめでとう」
「……うん、うん!」
母の墓の前で、木漏れ日に照らされながら、幼馴染に見守られながら。
少女のその手で、抱きしめられ続けながら、エルシアは己に問う。
果たしてできるだろうか。
残り僅かな時間、決定的になった戦争と、その先の不透明な未来。吹けば飛ぶような、このちんちくりんな自分に。
一人では無理だった。エルシアには何の力もない。
ただ、お飾りの称号をいくつか持つ程度の娘でしかない。それをこれでもかと思い知った。
それでも。
それでも、一人じゃない。
エルシアはもう、一人じゃない。それがどれほど心強いことか。
涙でぐちゃぐちゃの顔を上げて、エルシアは囁き返す。
「お願いがあるの……」
「なあに?」
「私を助けて、ケト」
その言葉に。
少女は、それはそれは嬉しそうに、にっこり微笑み返した。
「うん、任せて!」




