たすけて その1
ずっと、自分の名前が嫌いだった。
その響きを聞いた瞬間、自分の血に碌でもないものが混ざっていることを嫌でも認識させられるから。
エルシアには長年の疑問がある。
どうして母は、自分を逃がす時に偽名を名乗らせなかったのだろう。
自分で自分の名前を呼ぶ機会は、意外と少ない。せいぜいが初対面の人に名乗るときくらいで、それ以外は圧倒的に他人に呼ばれる方が多い。
孤児院に着いたとき、自分は既にエルシアと呼ばれていた。
だから逃げた先でも、エルシアはエルシアでなくてはいけなかったのだ。
それが嫌で、近しい人には”シア”と呼んでほしいと頼んだ時期もあった。とにかく、エルシアそのものが嫌いだった。
人によっては、結局気恥ずかしくなって元に戻した人もいるけれど。
けれど、今はどうだろう。
エルシアが正しく”エルシア”となり、それを周囲が当たり前に認める世界。ここはそういう場所。認めたくないなんて我儘を言っている場合ではなく、娘はただエルシアだった。
何もできない第二王女。どれだけ考えても、混迷の状況に流されることしかできず、名前だけが重くのしかかる。
”王女エルシア”にしかできないこと。
民のため、なんて漠然としたことは言えないけれど。例えばブランカの皆の為に。例えばクシデンタの令嬢に胸を張れるように。
そして何より、ケトの為に。
思考はエルシアの武器だった。これまでずっと、考えて、考えて、考えて戦ってきたのだ。
でも今は、考えるのが怖い。このまま考え続けたら、自分のこれまでの全てを否定しなくてはいけない気がして。
「エルシア様」
「ええ」
それでも。今この時だけは、怯むわけにはいかないのだ。
苦しいコルセット。裾の広がるドレスは紺色。あかぎれこそ治ったものの、他の令嬢からすれば荒れ果てた指先を隠すための手袋も同色だ。
王都に来てから艶の増した亜麻色の髪。白い頬に暖かな血色を乗せ、引き立てるような薄めの化粧。高いヒールはやっぱり歩きづらいけれど。
王女エルシアは、鏡の向こうの自分を見つめた。
そこにギルドの受付嬢だった面影は欠片もなく、ぱちりとした栗色の瞳が、ただ王女を射抜いていた。
「お伴できないことが、これほど苦しいとは……」
「大丈夫よ、心配性ね」
「ロザリーヌ様も、ご心配なされています」
「失敗したら腹抱えて笑われそうね……」
くすりとヴァリーに笑いかけても、侍女の表情は晴れない。何度か迷った末、彼女はじっと栗色の瞳を見つめた。
「本当は、反対なのです」
「ごめん。でももう、私しか動ける人がいないから」
「ですが、何の準備もできず……」
「時間がないんだもの、仕方ないわよ。ほんの少しでも可能性があるなら、やらなくちゃ」
なおも心配そうな侍女を見て、エルシアは苦笑する。
自分は何とも愚かな事をしようとしているのかもしれない。このままじわじわと絶望に押し流されるくらいならと、半ば自棄になっているのかもしれない。
それら全て分かった上で、やれることをやるしかないのだ。今は他に方法が思い浮かばないのだ。だから、これもまた王女エルシアの我儘ということになるのだろう。
「良いですか。あなたは一人ではありません。苦しくなったら、どうかそれを思い出して」
「うん」
「あなたの願いは?」
「いつか、ケトを抱きしめること」
「それを忘れちゃ駄目ですからね」
侍女の手が離れてから、顔を上げて王女は部屋のドアをくぐった。
待機していた”近衛”に軽く頭を下げ、廊下へと歩み出る。
建国式典まで、残り七日。事態は既に一刻を争う。
それはヴァリーもよく分かっていて。
部屋に一人立ち尽くす侍女は、閉じられたドアに頭を上げた。
「……私も、やれるだけのことをしなくてはなりませんね」
”影法師”から届けられた返信を懐から取り出す。そこに書かれた依頼にもう一度だけ目を通すと、ヴァリーは迎えの準備を始めようと、一歩を踏み出した。
―――
「陛下、エルシア様がお見えです」
「通せ」
”近衛”が両開きの扉を開ける。
開けていく視界に向かって、エルシアは歩みを進めた。
初めて入る、国王の執務室。そこは意外にも、質素とまではいかないものの、堅実な雰囲気を漂わせる部屋だった。
重厚感漂う年季の入った机の向こうに、国王の姿を認める。部屋には他に誰もいない。てっきり護衛の”近衛”くらいいて当然だと思っていたのだが。
机の上に山と積まれた紙を前に、彼は羽ペンを振るっていた。深々と一礼する王女の後ろで、重い音を立てて扉が閉まった。
「この度は、私の願いを聞き入れていただき、ありがとうございます」
「構わん。私も話すことがあったからな」
書類から顔を上げて、国王が答える。ペンをインク壺に差し込んで、彼はゆったりと腕を組んだ。
「公的な場ではない。楽にしていい」
「はい」
ゆっくりと視線を上げると、国王の青い目が合う。
エルシアはの目と顔立ちは母から受け継いだもの。だが、認めなくてはならない。この癖のある亜麻色は、まさしくヴィガードから受け継いだものだ。
「その様子だと、ここにも少しは慣れたようだな」
「来たばかりのこと、大変申し訳ございませんでした」
「ロレーヌの娘とワインを掛け合った時には、度肝を抜かれた。あれのせいで、お前を他の夜会に出せなくなったのだからな」
「……重ねてお詫び申し上げます」
柔らかく苦笑を漏らす国王に、エルシアは驚いた。
この人が、こんな表情を見せるのか。いつも固い顔で、周囲を威圧する雰囲気を出すのだと思ったのに。
家族だから? 少なくともその表情を鵜呑みにしてはいけないことくらい、エルシアにだって分かる。
胸の中の疑念が伝わったのか。すうっと王の目が細まった。
「して、用向きは何だ?」
国王への謁見を求めたのが、二日前の朝。多忙を理由に断られたものの、間髪入れずに打診を続けた結果、今日になって一転。謁見を認められたのだ。
膝の上で手を握る。
手札は心許ない。迷いもある。だが、エルシアは王女として、見過ごすことができなかった。落ち着けと言い聞かせて、王女は口を開く。
「龍神聖教会との対立について、お願いがございます」
「……ほう」
再び、一礼。視線を自分の爪先に向けながら、エルシアは言葉を紡ぐ。
「今の緊張状態緩和のため、教皇閣下との会談をお願いしたいのです」
「……言ってみろ」
無機質な声が、エルシアの頭の上から振って来た。バクバクと弾けそうな心臓を押さえて続ける。
「このままでは、教会との開戦は避けられません。ですが、教会側にも開戦に反対する者がおります。その筆頭である教皇閣下と陛下の会談により、不可侵条約の締結を。それが建国式典へ来訪する枢機卿への牽制になりましょう。その後教会へは、本年のスタンピードの再調査という名目で交渉をもちかけ、引き換えに二十年前から続く魔法開発黎明期の諸事情を白紙とすれば、少なくとも本格的な武力衝突は……」
「お前は本当に、それが上手くいくと思っているのか?」
低い声に、言葉が詰まる。
「そ、それは……」
「この期に及んで不可侵条約など、何の役に立つ。……王女の真似事など、するものではないぞ」
「ですが、それでは民が耐えきれません!」
王女の稚拙な叫びに、しかし国王は揺るがなかった。
「お前が気にしているのは北のいくつかの都市だけであろう。ロジーヌの娘に絆されたか……」
「そんなことはありません! エレオノーラ様やアルフレッドもまた、同じ想いを持っています」
必死に書き上げた嘆願書を差し出す。
国王は素直に受け取り、中を一瞥してから、深々とため息を吐いた。
「……エルシア」
「はい」
「子供の我儘で国を語るな」
「なっ……!」
思わずぐっと拳を握り、反論しようとした王女を、王は顧みなかった。
「あの老人と会談? それが何になる。もはやそんな状況ではないことくらいお前が一番分かっているのではないか?」
「そ、それは……」
「”六の塔”で奴と話したか。口を出さずにいたらこれだ。妙な入れ知恵までされて」
「それは関係ありません。私は、私の意思で!」
「黙れ愚か者」
王の目が燃えていた。
「エルシア、今一度問おう。お前は今自分が語った夢物語、為せるものだと本当に思うか?」
「……そ、それは」
「上手くいくはずがない。お前とて分かるだろう? 教会の私への恨みはそんな条約程度で抑え込めるものではないぞ。奴らは私個人を亡ぼすまで止まることもない」
思わずたじろぐ。
「それどころか、スタンピードと、あの頃のことを白紙にする? そんな必要はない。あれを叩く絶好の機会があると言うのに、それを捨てる理由がどこにある」
「ですが戦端を開けば、更に苦しむ者が沢山……!」
それしか言えない自分が、今の王女エルシアの限界だ。
「一時苦しくなるだけだ。所詮、教会は私の筋書き通りに動き、筋書き通りに暴走しているに過ぎない。奴らは、スタンピードの人為的な発生と言う、人の所業を捨てた行為までしているのだ。ようやく私に叩き潰す理由を与えてくれたのだぞ? これまで、潰したくても潰せなかったあのろくでなし共を、ようやくこの世から葬り去れると言うのに。それをお前は止めろというのか」
決して大きな声ではなかった。しかし、積年の想いが積もった重みある声だった。
「奴らのせいで魔法開発が何年遅れたと思う。自由な技術発展には、いつも奴らが付きまとっていた。一部の愚かな貴族共を使い、あれやこれやと反対する。隙さえあれば、声高に権利を主張する。お陰で二十年経ってこの様だ」
「……」
「エルシア。お前が戦を嫌う事情も分からなくはない。だが、時に戦ってでもなさなければいけないことがある」
「それが、教会を潰すことだと?」
何か反論せねばという焦りが、必要以上にエルシアの語気を強めさせた。これでは不貞腐れる子供となのも変わらない。
もはや彼はエルシアに対して、失望を隠そうともしていなかった。
「そんな短絡視で王が名乗れる訳がなかろう。……いいか、よく聞け」
腕を組んだ国王は、王女の握りしめられた手を見て、憐れみの表情を浮かべていた。
「教会の本拠地は南の海沿いだ。そこを潰すことができればどうなると思う」
「……」
「あの一帯の確保、それは海への進出へと繋がる訳だ。あれこそ、魔法技術の発展が最も光る分野。交易、海運、工業の発達。どれもこのカーライルに新たな革新をもたらすことができる」
魔法は水を変化、変質させるもの。エルシアだって知っている常識だ。確かに国王の話は頷ける部分が多い。けれど、エルシアは反論するのだ。
「そ、そんなことができるなら、教会がとっくに……」
「奴らにそこまでの力などあるものか。外洋航海は国の特権だぞ。奴らには大型船の建造技術もなければ、資金もない。小さな漁船の改造ごときで渡れるほど、外洋は楽な場所ではない」
「それは……」
「だから奴らは私に反旗を翻そうとしているのだよ。私を殺し、傀儡国家を打ち立てるつもりだ。そうすれば、技術も権益も思いのままに操れるとでも、思っているのだろう」
「そ、そんな……、それじゃあ……」
呻く王女に、国王は続けた。
「王と教会は戦争をするほどに仲が悪い。誰もが聞いたことがある噂だ。それは所詮、事実の一面でしかない」
「……」
「私は教会を、カルディナーノを憎んでいる。奴も同じだろう。だがな、最早そんなことはどうだっていいのだよ。邪魔な教会を潰し、外海への足掛かりを作り上げる。その先に待つのは加速度的な発展。私が望んでいるのはそれだけだ」
もう、エルシアは何と言い返していいのか分からない。
事ここに居たって、ようやく王女は理解したのだ。
これは、私怨の皮を被った技術戦争だ。もはや国王は、終戦後を見据えている。
エルシアは海を見たことがない。けれど、そこには無尽蔵に水が満ちていることくらい知っている。水を力に変える魔法を、そこに持ち込めばどうなるか、想像くらいできる。
手のひらに収まる大きさの魔導瓶ですら、あれほどの力を発揮するのだ。例え浄水とは程遠い海水であっても、その水の量がもたらす恩恵は果てしない。
それは枢機卿も分かっているのだろう。だから小さな権益で満足することはなかった。元々小規模集団である彼らは、その数少ない労力をひたすらに国内に向けていた。奪われた利益を取り戻そうと、内陸に目を向けていたのだ。
国王の言う通り、教会にだって小さな魔導船くらいあるだろう。しかし近海を駆け巡って得られるものは少ない。その前に、国を叩き、技術の奪取に突き進むのは理に適っている。
そんな中で不可侵条約など結べるはずがない。そんなもの、両者とも望んでいない。
多少の犠牲は厭わぬ王と教会が、未来を見据えて戦う。もはや、それは誰にも変えようがない。
ただ、苦しみ、傷つく人々を捨て置いて。
「エルシア。お前に問おう」
項垂れて唇を噛みしめるエルシアに、国王は続ける。
「”王”の役目とは何だと考える?」
「……役目」
それは、エルシアがずっと考えてきたことだ。
王族という、中身のない力を持つ自分がすべきこと。既に答えはでているはずなのに、エルシアはそれが言えなかった。
言えばきっと、父に否定されてしまうから。
だから口の端から漏れた「守ること」という囁きは王に届かず、代わりに王女は王の役目とやらを思い知らされた。
「それは、国を発展させることだ。作り、産み、増やし、広げる。まだ見ぬ世界にこの国を導き、富をもたらし、次へと歩み続けることだ」
「……発展」
幼い頃、高級品だったはずの紙。それが、今や誰でも使えるようになった。
スタンピードの被害を受けた町でさえ、今年は飢饉の話を聞かなかった。
人の体の謎を解き明かした結果、医療は飛躍的に発展した。体内の水を操る、回復魔法すら存在する。
それら全てが、目の前の男の偉業。ただの呪いに目をつけ、紐解いた彼の成果。
その裏で、反対勢力が隆起し、エルシアの母は死に、エルシアは捨てられた。北の町は壊滅し、ケトは両親を失い、同じ境遇の者が打倒王家を叫ぶ。
いくら反発を覚えていたとしても、たかが数か月王女をやっただけの娘に、何とかできるものではなかった。
最早世界は定められた方向へ進んでいる。この国の王が、進めている。
俯いて、言葉を失った娘。
その様子を感じ取ったのだろう。ヴィガードの口調から、少しだけ棘が抜けた。
「お前が、お前なりにこの国のことを考えてくれたことには感謝している。そしてお前がブランカで生きてきたことから、その考えに至ったこともまあ、理解できなくはない」
「……」
「何とかして、役に立ちたかったのだろう? 自分なりに、国に民に、貢献したかったのだろう? 私も悪いことをした。もっと前に話しておくべきだったな」
唇を噛みしめる。
今、王はそんなことを言うのか。エルシアの本質を突くのか。内心の動揺と、無力感を知ってか知らずか。国王は静かに言った。
「そんなお前に、頼みがある」
「……え?」
「お前にしか為せない事だ。それを伝えるために、わざわざ来てもらったのだ」
思わず縋るように父を見てしまった彼女を、誰が責められようか。
理性は警告を発し続けていたが、エルシアの心は既に擦り切れて、拠り所を欲していたのだ。受けるか受けないかは別として、彼女はただ、その言葉を素直に聞いてしまったのだ。
「七日後の建国式典。そこでエルシア、お前には死んでもらいたい」
「……は?」
呆けた声が、エルシアの口から漏れた。




