看板娘は少女を拾う その3
あくる日の朝、ケトは早い時間に起きてきた。
家にまだ帰れない人も多いため、マーサとエルシアは昨晩に引き続き炊き出しをすることに決めていた。
パンと野菜スープの香りが漂う厨房で、エルシアは皿洗いに勤しむ。冬も終わり、あかぎれに悩まなくなった時期だったのが救いだ。
しばらくして、食堂の空気がふっと変わった気がした。
「エルシア、お客さんだぞ」
「はーい」
厨房の向こうから、低音が響く。呼びかけたのはガルドスだった。隣には眠そうな顔をしたケトがついてきている。
「おはよう、ケトちゃん」
「おはよう……」
「すぐ行くからガルドスと待っててね」
こくんと頷き、ケトがもそもそと椅子によじ登ったのを見ながら、マーサに一声かけて布巾で手を拭く。
その間に、隣のテーブルでパンをかじっていたオドネルが声をかけていた。
「嬢ちゃん、よく眠れたか」
「あんまりねむれなかった……」
「まあ、診療所のベッドだしな。隣はミドだったか、あいつイビキがうるさかっただろ」
「がーがーっていってた。うるさかった」
ケトは目をぱちくりさせながら、大男を見上げる。
「おじさんだあれ?」
「あー、自己紹介がまだだったな。俺はオドネルってんだ。昨日は助かった」
「うん」
食堂に漂っていた、少女の様子を窺うような空気が少し緩んだ。
他の男達も警戒は解いていないようだが、少なくとも問答無用で飛びかかるような子ではないと分かったのだろう。
それを狙って話しかけたであろうオドネルが、エルシアに向かってウインクした。強面なのに、器用にするものだから違和感しか感じないが、受付嬢はその気遣いに心から感謝した。
「ケトちゃん、これ飲んで。暖まるよ」
テーブルにホットミルクの乗ったカップを置く。
同じテーブルについたガルドスが「俺の分は?」と聞いていたが、「貴方その歳になって飲みたいの?」と一蹴して、向かいの椅子に腰かける。
こっそりと周囲を窺うと、フロアの皆が少女に注目しているのが分かった。無理もない、と思いつつ、この状況は中々緊張するものがある。
ふうふうと息を吹きかけながらホットミルクを飲み始めたケトに、エルシアは話しかける。
「ケトちゃん、体の具合はどう?」
「げんき」
「良かった良かった。それでねケトちゃん、ちょっと聞きたいんだけど」
カップを置いたケトの口元にミルクのひげができていた。持っていたナフキンで拭いながら、注意深く聞く。
「貴女は、今お世話になっている大人はいる?」
親でなくとも、誰かに面倒を見てもらっているのかもしれない。そういう意図を含む質問だ。周囲の人への情報を伝える意味合いもある。
とは言え、ケトの様子から十中八九そんな大人はいないと踏んでいた。案の定、少女は首を横にふる。
「そう……」
それじゃ、と手を口元にあてる。
「今日ね、貴女が住んでいるところまで送りたいと思っているの。もしどなたかいらっしゃるなら挨拶もしたかったんだけどね。いないなら仕方ないわ。家まで送らせて?」
「うーん? いいよ」
周囲の空気もどこ吹く風で、しばらくぼんやりしていた少女は、やがてのんびりと頷いた。
―――
ケトがいつも着ているワンピースは、昨日の戦闘でさらに酷い有様になっていた。孤児院の子でもここまでボロ布を身に着けている子はいない。
ただ救いがあるとすれば、返り血が全く付いていなかったことくらいか。
エルシアの貸した短剣は、腰の麻紐に危なっかしくぶら下がったままだ。
先程見せてもらったところ、もはや剣とは言えない程にボロボロになっていた。砥石程度で何とかなるか不安だ。
ボロをまとっていると言った方が良い格好だったが、ケトはあまり気にしていないようだった。よほど服を貸してやろうと思ったのだが、サイズが合うものがなくて諦めた。
できればお風呂にも入れてやりたいと思いながら、少女を連れて町中を歩く。
通りの両側にある店はまだ開いていなかった。昨日の今日だから、当たり前と言える。
町の中は、エルシアの予想以上に落ち着いていた。
未だに信じられないことに、魔物を門の中には一匹たりとて通さなかったのだ。もちろん町中に直接的な被害はなく、住人たちは窓や扉を打ち付けていた板を外す作業に明け暮れていた。
ケトは迷うことなく進んでいく。子供の足とはいえ、既に半刻は歩いているだろうか。けろりとした表情のケトの隣で、ひいひい言いながらエルシアは歩く。
昨日の戦闘が効いているらしく、酷い筋肉痛に苦しんでいた。ふくらはぎがもげてしまいそうだ。
「ケトちゃん、疲れてないの……?」
「だいじょうぶ」
町の中心からどんどん遠ざかる。
いつの間にか町の西側の一角、古い空き家が多い地域に足を踏み入れていた。幼い頃から町中を走りまわっていたエルシアでも、このあたりはあまり近寄らない場所だ。道幅が細くなり、朽ち果てた家が示す通り、あまり治安が良くないのだ。こんなところに住んでいたのかと、エルシアは少し不安になる。
やがてケトは一軒の空き家の前で足を止めた。
「ここ」
「ここ、って……」
少女が細い指で示したのは、今にも崩れ落ちそうなあばら屋だった。家、と言うよりは廃墟と言う方がしっくりくる。
元は大きな家だったのだろうが、もはや見る影もない。屋根は大半が抜け落ち、壁もあちこちが崩れ果てている。腐った柱で辛うじて天井を支えてはいるものの、建物ごといつ崩れてもおかしくなかった。
ケトは瓦礫と化した塀を迷うことなく乗り越える。家の壁にぽっかりと空いた穴に小さな体が消えていったのを見て、慌ててエルシアも後に続いた。
――――
中は意外に綺麗だったとか、そんなことはなかった。あちらこちらで抜け落ちた床を避けながら進む。ギシギシ言うのが心臓に悪い。
やがて、ケトは小さな部屋で足を止めた。
「ここがおうち」
「……うわあ」
他の部屋に比べれば、状態は良いと言えるかもしれない。
まず屋根が抜け落ちていない。床板の穴もそこまで多くない。原型をとどめている窓枠からは辛うじて日差しが入っていた。
隅っこにはひなびた柑橘とまだ青い木苺。持ち歩いているのと似たような麻袋が一つ。どこからかかき集めたらしい藁束でこしらえた寝床には、シーツすらかかっていない。
それが、ケトの住処だった。
「ほっ……」
思わず、エルシアの口から変な声が漏れてしまった。
「本当に、……本当にケトちゃんはここに住んでいるの?」
ようやく発した声は、意図した物より数段低いものだった。
「うん」
事もなげに答える少女に、エルシアは度肝を抜かれた。
これはダメだ。人の住む環境ではない。
今までよく病気にならなかったものだ。彼女を取り巻く環境は、想像以上に酷かった。もう両親がいるいないというような問題ではない。
握りしめた拳がプルプル震えていた。
「エルシアさん?」
ケトはのんびりと視線をエルシアに向けていた。看板娘の様子がおかしいことは感づいたようだが、理由は理解ができていないようだ。
自分の境遇を、本人が一番理解していない。それを思い知った瞬間、エルシアは口を開いた。
「ここはダメよ……」
「え?」
「ここはダメ」
酷く据わった声でエルシアは繰り返す。
「……でもわたし、ほかにいくとこないよ」
しょんぼりとした声に、エルシアの中で何かが弾けた。
「そんなことは百も承知よ!」
「ひえっ!」
「いい? それでもここはダメ。絶対ダメ! こんなの人間が住んでいい場所じゃないわ」
思わず一歩後ずさり、銀色の瞳を真ん丸に見開いた少女に、思い切りまくし立てる。
「見なさい。あんなところで寝たら藁が刺さって痛いでしょ? それからあんな果物を食べちゃダメ。下手するとお腹壊すわよ!」
ふんすと息を吐いて、エルシアはケトに向き直って言い放つ。
「よく聞きなさい、ケト。貴女はこれから、私が面倒見るわ。こんな場所とっとと引き払って、私の家に来るのよ。もうこんな場所で寝泊まりなんか絶対させないわ。分かった!?」
「ふえっ……!?」
勢いよくまくし立てた看板娘の言葉を、その時の少女はどこまで理解できたのだろうか。
少なくとも、その時のケトは、エルシアの勢いに飲まれてただコクコクと頷くだけだった。
こうして、薄暗いあばら家の中で、看板娘は少女を拾った。
それが、看板娘が覚悟を決めた瞬間であることを、そして自分の人生が大きく変わる切っ掛けになることを、少女はまだ、知る由もない。




