小さな願い、ひとつだけ その2
【お知らせ】9/29投稿分につきまして
いつもお読みいただきありがとうございます。
本日、本話「小さな願い、ひとつだけ その2」と「その3」、二話分を投稿します。
次の「その3」は20:00更新となりますので、閲覧順には十分お気を付けください。
あの春の日の空は、何色だったのだろう。
後になって思い出せるのはひもじさばかり。
生まれてはじめて空を舞ってから数日。そんなに日は経っていないはずなのに、自分が飛んだ空の色が思い浮かばない。
「うう……」
春先で良かった。冬だったら凍えていただろうから。
けれど、お腹が空きすぎるとぐうと言う音すらならなくなることを、ケトはあの時はじめて知った。
母が持たせてくれた黒パン。大事にとっておいた最後の一欠片を食べきってしまってから、もう丸一日。
ふらふらしながら、路地を彷徨うことしばし。
町に行きなさい。
その言いつけに従って、壁に囲まれた町まで来てみたはいいものの、その後どうすればいいか、少女にはさっぱり分からない。
よく考えると、ケトは生まれた村の外をほとんど知らないのだ。
ママとパパ。長老、お隣さん。畑をやっているおばさん。猟師のおじさん。
お客さんと言えば、たまに通りかかる物好きな商人か、魔物退治の冒険者くらい。むかしパパに山の麓の町に連れて行ってもらったことがあったけれど、随分前のことだから、あんまり覚えていない。
あの頃、ケトにとっての外の世界は、それだけだった。
「ぼーけんしゃ……」
パン屋を見つけて窓の端から覗き込んでは見たはいいものの、パンを買うにはやはりお金が必要なようだった。
ケトはお金を持っていない。それはつまり、パンが買えないことを意味している。何とかしてお金を手に入れなければいけないのだけれど、行商人のように売れるものも、ケトは持っていない。
そうなると冒険者とやらになるしか、ケトにはお金を稼ぐ方法が分からなかった。
問題は、それがどんな仕事かも、どうしたらなれるのかもケトには分からない事だった。冒険者と言えば、鎧を着て、剣を持つ怖い人のイメージだ。自分が同じように出来る気も、やはりしない。
そう言えば、ずっと前にも村が魔物に襲われたことがあったっけ。
あの時も大人たちはかがり火をたいて、慌てて冒険者を呼びに行った。確か、そういうお願いを聞いてくれる場所があって、お金を渡して頼めば冒険者を寄越してくれるのだと、ママが教えてくれた。
「ママ……。パパ……」
両親のことを思い出してしまって、目元が熱くなってしまう。涙が浮かぶ前に、小さな手で目をごしごしこすった。
ダメだ。泣いちゃいけない。だってママと約束したのだ。迎えに来てくれるまで、良い子で静かに待っていると、約束したのだ。
パン屋さんの建物の影から、そっと顔を出す。辺りを警戒しながら観察するのは、通りの反対側のこぢんまりした建物。
ドアが開くたび、カランコロンと不思議な音が鳴るその建物からは、ごつい鎧を着て、腰に剣を携えた男の人が何人も出入りしているのだ。たまに中から女の人の声も聞こえるし、じっくり見ても危なそうな雰囲気はないが、だからと言ってドアを開ける勇気が持てるわけでもない。
今なら、大丈夫だろうか。
もう一度、通りに人影のないことを確認して、とててと道を横切る。
ケトはドアの隣にある窓に噛り付き、爪先立ちで中を覗き込んだ。窓枠が高くて、目線だけ上に出すのがやっとだ。
「んんーー……」
綺麗に並べられた机と椅子の間。奥の方に不思議な色の髪をした女の人の姿が見えた。壁に向かって紙を張り付けているように見える。一体何をしているんだろう。
「……何やってんだ、チビ?」
そんな少女の後ろから、野太い声がかけられたのはその時だった。
いつの間に傍に来ていたのだろう。ケトは心底肝を冷やしてしまった。ビクリと肩を震わせ、振り返るその勢いに首が痛くなるほどだった。
後ろに立っていたのは、ケトより二回りも三回りも大きな図体の男だった。革でできた鎧を着ているせいか、それとも元の体格が良いのか、とてもがっしりした体格をしている。腰に刺さっているのは剣、間違いなく冒険者だ。
完全にヘビに睨まれたカエルの気分だった。気付かれないようにこっそり建物の中を窺うつもりだったのに。よりによって一番怖そうな人に見つかってしまうなんて。
「ひっ……」
「あー悪い、怖がらせるつもりはなかったんだが……」
思わずケトが顔を強張らせると、大男は眉を下げ、頭をポリポリとかいた。
「どうした? ギルドに何か用か?」
「う、うう……」
目を泳がせ、体を縮こまらせる。今すぐ振り向いて逃げ出したいのに、後ろには壁がある。こちらの怯えが伝わったのだろう。大男がしゃがみこんで慌て出した。
「おいおい、そんな怯えるなって。俺は別に怪しいもんじゃねえって……」
「……」
「……参ったなこりゃ」
頭が真っ白になって黙り込むケトの前で、何故か大男が途方に暮れだした。お互い困り切って、目を見合わせていたら。
カランコロンと、ベルの音が鳴った。
「何してんの? ガルドス」
大男に、横合いから掛けられる声。柔らかく、澄んだ色の声だとケトは思った。
二人して、声の方を見る。
「……エルシアか」
冒険者がそう呼びかけた先で、女の人がドアから顔を出してこちらを見ていた。
先程窓越しに見た、金とも茶色とも、白とも言えない不思議な色の髪が、ケトの目の前で揺れていて。
それが、出会いだった。
―――
瞳に浮かんだ優しさに、どれほど救われたことか。
ケトがふと目を開けたら、抱きかかえられたまま曲がりくねった獣道をゆっくりと下っているところだった。降り続く雨が被せらせた外套にパチパチと当たる音を聞きながら、ケトは泣き喚いて何もかも分からなくなってしまった自分に気付いた。
ママ。パパ。
予感はしていた。何度も悪夢に見た。
けれどもそれが、現実になるなんて。
変わり果てた家には、ママの姿も、パパの姿もなかった。途方に暮れた自分は立ちすくむことしかできなくて。
いくら頭の悪いケトだって、あの夜、集落が危ないのだということは分かっていた。父と母に逃がされたことくらい、察しがついた。
だから、家に帰りたいのに、帰れなかった。
もしも、想像の通りだったら? ケトはきっと、立ち直れない。
そんな彼女の葛藤を知ってか知らずか。
エルシアの行動は早かった。場所を突き止め、カバンに荷物を詰め込み、旅装を繕って。あれよあれよと言う間に、ケトの家を探す算段を整えてしまったのだ。
その結果がこれだ。
ケトの大切な人は、もういない。ケトはそれを受け入れざるを得ない。
頭の中がぐちゃぐちゃになってしまって、ケトはママの言いつけを破って泣いた。ずっと溜めこんでたせいで、一度泣き出したら止まらなくなってしまった。
自分自身に驚いたのは、その後だ。
受け止められない現実を目の当たりにして、途方に暮れるはずだったのに。その前に、たった一つだけやらなければいけないことがあると、ケトは思いついてしまったのだ。
張り出した岩の下。夜の雨を避けながら焚火を囲む。ただ頭を撫でられながら、泣き腫らした目で、ケトは言った。
「ね、ねえ、エルシア」
「……無理して喋らなくてもいいのよ」
「……でも、おねがいしたくて……」
良いのだろうか。こんなに面倒を見てくれた人に、これ以上頼ってしまって。
「……なんでも言っていいからね。貴女の我儘を聞かせて?」
もしかしてエルシアは、心が読めるのではないだろうか。今一番欲しかった言葉を掛けられたのが、後押しだった。
「……おはかを、つくりたいの」
「え?」
薄くにじんだ涙をぬぐい、ケトはもう一度伝える。
「ママとパパの、おはか」
「ケト……」
ブランカで、ケトはエルシアと一緒に、冒険者を送り出した。ギルドから墓地へ向かう英雄を見送った。
ママとパパに、棺は用意できないけれど。それでも、ケトが忘れていないことを、伝えたくて。
「……分かったわ」
涙で濡れた瞳の先で、エルシアは、悲しそうな微笑を浮かべた。
「私に、お手伝いをさせて?」
「うん……」
―――
私は貴女を守り抜く。
姉が、何度も何度も言っていた言葉だ。
今なら、彼女が一体何から守ろうとしてくれていたのか、ケトにもよく分かる。
けれどもその時の自分は、何も分かっていなかった。
いつもより強い力で抱きすくめられて、ケトが姉と同じ方を向いたあの時には。
町の片隅。東門の近く。
視線の先には、一人の人攫い。彼が持っていた剣は既に地に転がり、代わりに彼は魔法陣を手に纏わせていた。周囲の皆が揃って武器を向け、きっとまともな相手なら、降参するに違いない。
もう大丈夫だという安心感。ずっと押さえつけていた恐怖が蘇ってきて、思わず姉に体を摺り寄せる。
片手でケトを抱きかかえ、もう一方の手で剣を向けるシアおねえちゃんは、これ以上なく頼もしく見えたものだ。見上げた横顔はとても凛々しくて、少女が憧れを抱くには十分だった。
けれども、きっとそれは見掛け倒しでしかなかった。実際は違った。
あの時既に、シアおねえちゃんはいっぱいいっぱいだった。
後から聞けば、どうやら散り散りに逃げた他の人攫い達は、まんまと取り逃がしてしまったらしい。彼女はそもそも追う気がなかったと言っていたそうだが、それは違うと、今のケトなら分かる。
全てを相手にするには、シアおねえちゃんには荷が重すぎたのだ。だから、ケトを取り戻すことだけに集中して、他に追手を差し向ることができなかった。
力で敵う方法が思いつかなかったから、多くの人の力を借りて、圧倒的に有利な状況を作り出す。それが、シアおねえちゃんの精一杯だった。
彼女はいつだって全力だった。ただ、それを余裕に見せる術を身につけていただけでしかなかった。
ケトを取り巻く状況がシアおねえちゃんの手に負えなくなったのは、きっと王都に行った時だろう。
ケトの検査結果を書き換えることで、ただの少女としてブランカに戻る。そのために、シアおねえちゃんはずっと奔走していた。
それは必然、シアおねえちゃんが矢面に立つことを意味する。そのどこかで、とうとう襤褸が出た。
お茶会に行くと言って、帰ってこなかったシアおねえちゃん。探しに行った時に見た彼女を、ケトは忘れられない。
夕暮れの窓辺に佇む彼女は、独りぼっちで涙に暮れていた。全てを背負い込んで袋小路に入りつつある彼女は、あの時既に自分の限界を悟っていた。きっと彼女には、自分と妹の未来が見えていたのだろう。
そうでなければ、あんなに悲しい笑い方をするはずがないのだから。
―――
シアおねえちゃんが、感情をぶちまけたことが、一度だけある。
あの夏の、蚤の市の日に。約束通り、絵本を買ってもらった後で。
ケトはギルドに行って、他に誰もいない夕暮れの窓辺で、シアおねえちゃんに抱きしめられた。
いつもは靄がかかったようなシアおねえちゃんの心。それをはっきり見せてくれたのは、あの日と、お別れの時だけ。
あの時掛けられた言葉を、ケトは一語一句思い出せる。
――貴女には、私の心が視えているのかな? 今、私はどんな気持ちでいる?
彼女はずっと隠し続けていた。自分の中に巣食う恐怖を。いつか追いつかれるであろう絶望を。
――ようやく仲間を見つけた、そんな気がしたわ。その子は私よりもずっと小さくて、守ってあげたいなって思ったの。
ケトのことを妹ではなく、仲間と呼んだあの時。彼女は寄る辺のない、独りぼっちの娘だった。
――私を受け入れてくれて、ありがとう。私に拾われてくれて、ありがとう。……私の妹になってくれて、ほんとうにありがとう。
ありがとうは、ケトの台詞なのに。何一つ持たぬ自分に、全てをくれた人。ケトにとって、たった一人のおねえちゃん。
――ねえ、ケト。私は、貴女を守るわ。何があっても、たとえ貴女の隣にいられなくても。貴女が私を必要としなくなるまで、絶対に、貴女を守り抜いてみせる。
その言葉通り、シアおねえちゃんはいつだって守ってくれた。暖かいベッドにかわいいお洋服、おいしい食事も。思考を巡らし、策を巡らし、何よりその心でケトを優しく包んでくれた。
その姉が、たった一度だけ、縋った。
――だからお願い、ケト……。その時が来るまで、ずっと一緒にいて。
精一杯の悲鳴。絶望に耐えられなくなったシアおねえちゃんの、心の叫び。
この時ばかりは、彼女は築き上げた虚像をかなぐり捨てていた。心の傷からじくじくと血を垂れ流し、痛い痛いと泣き叫ぶ彼女の姿を視た。
間違いなく、生身のエルシアがそこにいた。




