雨 その2
【お知らせ】9/22投稿分につきまして
いつもお読みいただきありがとうございます。
本日、本話「雨 その2」と「その3」の、二話分更新いたします。
次の「その3」は20:00投稿となりますので、閲覧順にご注意ください。
三日前からブランカに降り続く雨は、止む気配を見せなかった。
季節は晩秋。雨はどこまでも冷たく、身も心も凍えさせる。
そんなギルドのロビーで、ケトは窓の外を振り仰いだ。
「はあ……」
暖炉にはもう火が入っているというのに、ギルドのロビーはどこか肌寒い。外套を搔き寄せて、ため息を一つ。
丸テーブルの向かいのガルドスも、どこか表情が暗かった。カップに入ったお茶は、湯気を立てなくなってから大分時間が経っている。
外套の左胸に施された猫の刺繍をそっと撫でる。これをくれた看板娘は今頃何を考え、何をしているのだろうか。頭の悪いケトには見当もつかない。
エルシアの想い。
彼女の残した手紙はガルドスに見せてもらった。その正体は、院長先生とロンメルが丁寧に教えてくれた。
知れば知る程、エルシアを取り巻く絶望的な状況が浮き彫りになっていく。
例え全てを理解できなくとも、姉が身一つで、これほどまでに漠然とした、大きなものと戦っていたのだと、気付かされるには十分だった。
その一端を知ったからと言って、十歳の少女にできることなど何もない。ただ、ため息をついて空を見上げるだけ。
力が強くたって、魔法が使えたって、空を飛べたって。エルシアの隣にいることすらできない力に、果たしてどんな意味があるというのか。
むしろ彼女に近付けば、それ自体がエルシアの想いを踏みにじることになる。なぜそうなるのかまでは説明できなくとも、どうやらそのようだと感覚で理解ができるからこそ、もうケトにはどうすれば良いか分からなかった。
どうしようもない。どうにもならない。袋小路だ。
エルシアが去ってから、もう一か月近くが経つ。
その状況に慣れ始めている自分がいることに、ケトは戸惑いを隠せない。
エルシアと共に過ごしたあの半年間。それこそが奇跡のようなものだったのだと、そう思うことが増えた。毎日南の門に通って、ガルドスに鍛錬してもらって、ミーシャの家に居候させてもらって。その生活自体に慣れを感じ始めてしまった自分がいる。
もしかしたら、こうしてみんな、大人になっていくのかもしれない。
泣き喚いて、怒り狂って、どうにもできなくって、身の程を知って。
かつてケトが両親のことを諦めたように。ジェスが父親のことに折り合いをつけたように。もしかしたらいつか、シアおねえちゃんのことも諦められる日が来てしまうのかもしれない。
それが、ケトは嫌だった。
時刻は昼前。
本当は南門に出向こうと思ったのに、雨が降っているからと、ガルドスに止められたのだ。お昼は適当に済ませて、ジェスたちが来るのを待とう。
どこまでも沈み込んでいたケトだが、自分が周囲にかなりの心配をかけていたことくらいは気付いている。
みんなには申し訳ないことをした。冬が来る前に、金になる資材をできる限り集めておかなければいけない。後でみんなと一緒に町を回ろう。
ダリアの申し出を断って、ただでさえミーシャに居候させてもらっている身だ。少しでも、稼いでおく必要がある。
椅子から降りると、ガルドスが顔を上げた。
「どこ行くんだ?」という質問に、「お昼」とそっけなく答えてから、ケトはごそごそとカバンを探った。細かいお金がなかったので、革で出来たお財布から大銅貨を取り出す。
あまり食欲はなかった。今日も黒パンでいいか。
エルシアが抜けた穴をマーサが埋めているせいで、下の食堂は休業中だ。切り盛りする人間がいなくなったから当然のことではあるが、華のなくなったギルドから、少しずつ、人が去っていくのもまた事実だった。
この時も、フロアには閑散としていた。ケトたち以外にはオドネルとミドの二人組しかいない。
もう一度ため息を吐く。
今日は朝から、妙な気配を感じていた。もしかしたら屋根裏に潜んでいる監視役が変わったのかもしれない。毎日潜んでいるのが分かるから、ケトは多少ごそごそ嗅ぎまわる人間がいても気にしないようにしていた。
どうせ彼らは自分が妙な真似をするのを恐れているのだ。
なんの役にも立たない、災いにしかならない力。こんなものがあるから、エルシアは正体を晒す羽目になったのに。
力を使えばまた誰かに危害が及ぶ。いつしかケトは意図的に能力を使わないようにしていた。ただ強いだけの力も。ただ使える量が多いだけの魔法も。自分の脳が追いついて行かない感覚にも。全部全部、ケトにとっては過ぎた力。
そう。
だから、ケトは気付くのが遅れたのだ。
だから、思い知る羽目になったのだ。
エルシアが、本当に恐れていたものが何かということに。
それは、財布をカバンにしまい込んだ時だった。
「……!」
ケトの感覚が、明確な敵の存在を察知した。
どの位置に、何が、どのくらいの数いるか。その全てを明確にとらえた龍の感覚は、少女の脳によって処理される間に、”敵がいる”という内容にまで削られて、ケトへの認識を促した。
思わずドアへと振り向く。突然のことに反応が遅れていることにすら、ケトは気付かず。
それが命取りになった。
ギョッとして入口に向けた視線の先で、蝶番をもぎ取る勢いでドアが開かれた。
あまりの音に、室内にいる者が驚いて振り向く。
目の前に、白服の男が複数飛び込んで来ていた。
―――
「お、おい……!?」
誰何の声をあげる暇もなかった。入口の一番近くにいたミドが、呆然と立ち尽くしたのを見て、ケトは悲鳴をあげた。
「やめてえッ!」
遅い。間に合わない。ケトにはそれがはっきりと分かった。
乱入者の一人が抜身の剣を振り下ろす。反射光すら一切放たない凶器が、ミドの肩から腰に掛けて真一文字に切り裂いた。
「え……?」
振り抜いた剣の勢いに乗って、ミドの真っ赤な血が跳ぶ。それらはしぶきとなって、机に、壁に、窓枠に点々と飛び散った。
ミドは驚きの声すら上げられなかった。目を見開いて、ただ茫然と目の前の乱入者を見つめてから、どさりと倒れた。
「……ミドッ!」
オドネルが叫びながら、慌てて少年に手を伸ばす。ミドを切り裂いた襲撃者は、倒れ伏した彼に一瞥もくれず、そのままオドネルに切りかかっていた。
「な、なんだてめえら!」
血を流すミドに駆け寄ることもできず、オドネルが飛びずさる。椅子がけたたましい音を立てて倒れ、はずみでカップが転がった。
「嘘だろ!? おい、ミドっ!」
混乱した様子のガルドスが、慌てて剣を抜く。
ギルドに押し入っていたのは一人ではなかった。
ミドとオドネルに意識が向いたほんの少しの間に、更に四人がまっすぐにケトの方へ向かっていた。
その恰好には見覚えがある。あれほどに目立つ白いローブをケトは他に知らない。
エルシアが追い返した連中だ。龍神聖教会、とかいう奴らだ。
呆然と立ち尽くした数瞬の間に、襲撃者が自分に迫る。何が起きているのか分からず、突っ立っていた少女の前に、ガルドスが躍り出た。
「ふッざけんなあああ!」
抜き放ったロングソードで、襲撃者の剣の一本を弾き、別の男の腹に蹴りをお見舞いする。大男に蹴られた白ローブがゴロゴロと転がっていく。
ガルドスには休む暇は与えられない。後続の二名がそれぞれ剣を振りかぶっていたのだ。慌てて下がろうとして、ケトが後ろにいることを思い出したのだろう、大男の動きが止まった。
斬撃をロングソードで受け止める。金属同士が叩きつけられる鈍い音が響き、細かい破片が飛び散る。
震えが止まらない。状況に理解が追いつかない。
すぐ後ろに自分がいるせいでガルドスが下がれないのだと、龍の感覚がけたたましく騒ぐ。だと言うのに、ケトの体は力が入らなった。
もう一人が側面に回り込んでいた。既に手一杯のガルドスに向かって、横なぎに剣を振るおうとしていて、ケトの背筋が凍る。
彼がそこそこ腕が立つことに気付いたのだろう。リスクは冒さずに早めに脅威を潰そうとしているのだ。両手をふさがれた彼に、対処などできるはずがない。
刹那。ケトの後ろから、光の槍が伸びた。
少女の頬のすぐ脇を通り過ぎた魔法は、過たず男の脇腹を貫く。魔法と金属がぶつかる音を立てながら、白ローブが吹き飛び、壁に叩きつけられ、べちゃりと潰れる。
目の前の男たちが魔法に気を取られた隙をついて、ガルドスが滅茶苦茶に剣を振るった。勢いだけはある斬撃に、襲撃者が散った。
その後を追うように魔法が連射される。机に大穴をあけ、椅子をバラバラにし、襲撃者はぱっと散会を図る。
「マスター!?」
ケトが思わず叫ぶ。
「くそったれ! 奴ら、ローブの下に鎖帷子着てやがるぞ!」
ケトの隣まで下がったガルドスが、魔法の使い手に怒鳴る。
これでもかと腰にぶら下げた小瓶を、次から次へと光らせながら、ロンメルは冷静に口を開いた。
「怪我はないな、ガルドス」
「俺よりミドだ! 早く手当てしねえと!」
焦るあまり早口で答えるガルドスに、ロンメルは指示を出す。
「儂らだけでは抑えきれん。ケトを連れて裏口から逃げろ」
ロンメルの魔法が壁に大穴を開ける。パッと木くずが飛び散ったその向こうから、苦し紛れに投げられたスローイングナイフを、ガルドスが叩き落す。机の影から放たれた魔法が、カウンターを撃ち抜いた。
流れ弾で砕け散った窓ガラスが片端から飛び散る轟音の中、ガルドスが怒鳴り返す。
「そんなことできるかよッ! ミドが、あいつが切られたんだぞッ!」
敵が魔法で怯んだ隙をついて、オドネルがミドに駆け寄っていた。
ピクリとも動かない彼を引きずって壁際へ。その体の後に、黒々とした血の跡が残る。それを援護するようにロンメルの魔法がさらに轟く。
「落ち着け坊主。このままではケトが連れていかれるぞ。エルシアの想いを無駄にする気か」
ロンメルの落ち着いた声。オドネルもミドの返り血にまみれながら、声を上げる。
「ぐだぐだしてねえでさっさと行け! こいつら強え、早く逃げろ!」
大男が表情を歪めたのも一瞬のこと。ガルドスの大きな手が、ケトの手を無理矢理掴んだ。
「来い、ケト!」
「でも! ミドさんがっ! マスターも!」
「ケト。あたしが合図したら走るんだよ? ガルドス、厨房の裏口を使いな」
恰幅の良い体で敵からケトの姿を隠しながら、マーサが笑った。ロクに戦うところなんか見たことがないのに、彼女は鍛錬で使う木剣を持ち出していた。
「……すまねえ、頼む」
「だ、ダメだよッ!」
大男の太い腕に必死に取りすがる。ダメだ、皆を置いて行くなんて、そんなことできる訳ない。
「優しい子じゃな、ケト」
一瞬ちらりと振り向いたロンメルの視線が、ケトに向けられた。
「すぐ衛兵隊を呼んで来る。それまで絶対に死ぬなよ!」
「伊達に長生きはしとらんよ。こんなヒヨっ子共に後れを取る儂ではないさ。……さて」
ロンメルが視線を戻すと、芯の通った声で怒鳴った。
「若造どもが! この娘に手を出したらどうなるか、その身に叩き込んでやろう!」
瞬間、小瓶が一斉に輝きを放った。
「今じゃ! 行け!」
魔法の輝きがどんどん増す中、ガルドスがケトの手を引いて駆け出す。
幾筋もの光がロビーを駆け巡り、襲撃者たちが隠れるテーブルを撃ち抜いていく。衝撃が建物を揺らし、壁に大穴を開け、窓と言う窓が砕け散った。
「マスター! マーサおばさん! オドネルさん!」
「馬鹿野郎! 走れッ!」
目の前の光景が信じられず、その場からずるずる引きずられたケトに、ガルドスの叱責が飛ぶ。その勢いに慌てて足を動かした瞬間、ギルドの入口から叩き込まれた魔法が、寸前までケトのいた場所に刺さった。
「う、うわああッ!」
一瞬遅かったら、あれが自分の体に突き刺さっていた。
それを理解した途端、ケトは情けなく悲鳴をあげた。震える足をがむしゃらに動かす。
階段に飛び込んだ二人の後ろで、「よくもッ!」というロンメルの大声と、魔法の連射音が轟き渡った。




