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看板娘は少女を拾う  作者: 有坂加紙
第七章 看板娘は、もう戻れない
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愚か者と母と侍女 その3

 隣のエルシアは、もはや涙も枯れ果てたようだった。


 気を抜けばすぐに止まる足を、ヴァリーは必死に動かさせる。半ばズルズルと引きずられていく幼い娘は、ぼんやりと目の前の地面を見つめるだけだ。


「……リリエラ様は?」


 数年ぶりに会った老騎士に、侍女は首を横に振ってみせる。ロンメルは沈痛な面持ちでエルシアを抱き上げた。


「そうか……」

「申し訳ありません……」


 思わず漏れた謝罪の言葉。

 一度口にしてしまえば、遮るものが何もなくなってしまって。


「申し訳、ありません……。申し訳ありません……! リリエラ様、申し訳……」

「泣いている暇があるなら、足を動かせ。まだ、エルシア様は生きておられる。それがリリエラ様の願いだ。絶対に無駄にするな」

「はい……、はい……!」


 もう見えなくなった王都を背に、ヴァリーは泣く。

 ただ、ひたすらに主人を見殺しにしたことを悔やむ侍女が、忘れ形見を引きずって歩き続ける。


 そんな二人を見守りながら、老騎士は剣を抜いて足を止めた。


「やはり、教会はリリエラ様の戯言に惑わされたようだな。追手には騎士団しか見えん」

「ロンメル様……」

「儂が離れたら、エルシア様にはお前さんしかいなくなる。必ず守り切れよ?」

「……この命に代えても、絶対に……!」


 リリエラの指示により、数年前に王都を離れた老騎士。彼が繋いでくれた、エルシアが生きるための道だ。


「ブランカまでたどり着けば、後はダリアが良いようにしてくれる。孤児院の場所は分かるな?」

「もちろんです……!」

「よろしい。エルシア様、また会いましょうぞ」


 老騎士は笑って「達者でな」と呟き、夜闇へと消えた。それを見送り、ヴァリーは再び歩きはじめる。

 栗色の瞳に絶望を浮かべ、娘は蚊の鳴くような声で問いかける。


「……かあさまは?」

「考えてはなりません。あなたは生きなくてはならないのです」

「いきる……?」


 背中の荷物の中には、金に換えられそうなものばかりを詰め込んである。軟禁状態にあったリリエラには、現金と言う形では”六の塔”に持ち込むことができなかったのだ。


 彼女が子の名を付けた時に縫った紺のワンピースも、その中に畳まれている。

 娘はきっと、自分のために作られたその服を、着ることも見ることもないだろう。いつかはこれも、手放さなくてはいけないのだから。


 自らの手で娘の全てを捨てなければならない。それをヴァリーはひたすらに呪いながら、一歩ずつ生き延びるための道をたどった。


―――


 馬の足では三日の距離。子供の足で、たっぷり半月かかった。


「お待たせいたしました。参りましょう」

「……」


 厚い雲の向こうで、太陽が日に沈む直前。

 白い刺繍の施された紺のワンピースを道沿いの呉服屋に売り払い、なけなしの金を手に入れたヴァリーは、娘が待つ隠れ場所まで戻って来た。

 エルシアは何も言わず、きちんとそこにいてくれる。もう、フラフラと動きまわって肝を冷やすこともなくなった。


 よれよれの服。木靴の下はきっと靴擦れで一杯だろう。

 だが、エルシアは何も言わない。言っても仕方ないと、自分で割り切ってしまった。そんな時はただ、シャツの下の指輪を握りしめるだけ。


 細い道ばかりを選び、北の町をすり抜けるように進む。雨の路地裏は薄暗く、大きな水たまりが足元を邪魔する。途中でエルシアがネズミに怯える一幕もあったが、警戒していた追手の姿も見えず、町は静かに彼らを迎えてくれた。


「……あとどれくらい?」


 か細い声。この数日、これを言うのはエルシアの限界が近い証拠だ。足にできたマメが潰れたのか、心の底から疲れ切ってしまったか。

 びっこを引く彼女を抱きしめてやりたい衝動に駆られながら、それでも侍女は前に進む。


「もう少しです、あと少しですから……」


 今日だけは、その手を引きずってでも歩く。

 彼女の終着点まで、もう少しなのだ。ほら、その角を曲がれば……。


 疲れ切った侍女と娘の視線の先に、くたびれた白壁が見える。

 窓から漏れる小さな灯りだけが、娘の道しるべだった。


―――


「そして、疲れてすぐに眠ったあなたを孤児院に置いて、私はブランカを去りました。その後は、以前エレオノーラ様がおっしゃった通りです。更に二月(ふたつき)身を隠した後、何事もなかったかのように王都へ戻りました」

「……」

「もちろん私は捕らえられ、嘘の証言をした後で、処分を待ちました。それをお救いいただいたのがエレオノーラ様です。”六の塔”襲撃とリリエラ様の死をきっかけに、陛下は大規模な粛清を行いました。そのせいで侍女が少なくなっていたのでしょう。以後エレオノーラ様付きの侍女として、十年以上の月日を過ごしたのです」


 空になったカップに紅茶を注いで、ヴァリーは苦笑する。その皺に刻まれた労苦はいかほどのものなのだろう。エルシアにはもう、想像もつかない。


「……貴女は、母を、私を、恨まなかったの?」


 酷く自信のない声で、エルシアは聞く。母も娘も、そろってその生涯を捻じ曲げてしまった侍女。その献身を信じるのが、エルシアは恐ろしい。


「王族だ、女狐だ、忌み子だ、などと聞こえは立派ですが……」


 しばし口を閉ざしたヴァリーが言うのはそんなこと。


「蓋を開けてしまえば、皆同じ人間です。何かを考え、悩み、怒り、笑い、泣いて、それでも少しでも良い方へ、良い方へと藻掻き続けるしかない。それを知ることができた奇跡に、背負いこんだ重責を共に担える立場にいる幸運に、私は感謝しているのです」


 もっとも、若い頃は本当に悩みましたけどね。

 そう言ってヴァリーはいたずらっぽく笑った。

 ああ、もう目を向けられない。エルシアはカップをサイドテーブルに置いて、反対の手で、ポンポンとベッドの隣を叩く。


「エルシア様?」

「……ここ。座って」

「ですが、そこはエルシア様の……」

「いいから、座って」


 伏せた目線はそのままで蚊の鳴くような声を出すエルシアに、何かを察したのだろう。ヴァリーはそれ以上何も言わず、ベッドの端に腰かけてくれた。


「ヴァリー……」

「はい」

「酷いこと言って、ごめんなさい……」

「いいえ。私も配慮が足りませんでしたから」


 エルシアは、ゆっくりと顔を両手で覆う。吐き出す息がすごく熱かった。


「かあさまも、ヴァリーも、私のことを愛してくれてた……」


 とっくに諦めきっていた願い。愛されたい。家族が欲しい。そんな親なし子の切なる願い。その一端が叶ってしまった。


 ヴァリーが何も言わず、エルシアの頭に手を回す。少しだけこもった力に導かれるように侍女の肩におでこをつける。

 泣くまいと、唇を噛んだ。涙はここでは流さないと、少女との別離の時に誓ったのだ。今できるのは、ただ肩を震わせて深呼吸することだけ。


 こんな自分を守ってくれた人がいる。愛してくれていた人がいる。それがどれほど幸せなことか、エルシアはよく知っている。


 それでも。


「……ヴァリー」

「はい」

「私、守りたい人がいるの」

「存じております」


 自分は我儘だ。はっきりと自覚する。

 愛され、守られるだけではなく。

 愛し、守りたい。その幸福も、自分は良く知ってしまった。

 自分一人ではどれだけ頑張っても、ちんちくりんなエルシアだけれど。


「お願い、私に手を貸して」

「ええ、喜んで」

「私が馬鹿なことをしたら、叱って。知識が足りなかったら、教えて」


 母から受け継いだ栗色で、娘は侍女を見上げる。


「……私、戦うわ。守り抜くと誓った、あの子が危ないから。私が愛するあの町の人たちが危ないから」


 戦い方はまだ分からない。けれども、自分が戦える立場にあることをこれほど意識したことはない。あの令嬢のおかげだ。


「このヴァリー、微力ながらお手伝いいたしましょう」

「……碌な死に方しないよ?」

「精一杯生き抜いた後でなら、リリエラ様が迎えに来てくれますよ」

「……ふふ、主人に迎えに来させるなんて、いけない侍女ね」


 互いにクスクス笑い、エルシアはもう一度、ヴァリーに寄り掛かった。


―――


 ヴァリーは娘の背を眺めながら思う。


 随分、大きくなった。きっと身長は抜かされてしまったのだろう。

 ちゃんと食べていたのだろうか。どんなところに住んでいたのだろうか。


 貴族令嬢とは明らかに異なる筋肉の付き方。その指先は、エレオノーラにはあり得ない荒れ方をしている。乾燥してかさつく指先は、秋も深まったこの時期、水仕事に苦労した証だ。


 聞きたいことは山ほどある。話したいことはいくらでも見つけられる。頭を撫でて、とびきりのお菓子を食べさせて、これまでの苦労の分、うんと甘やかしてあげたくて。


 それでも、ヴァリーはその全てを後回しにした。

 時間がない。それは侍女も分かっていて、己が宿命と向き合おうとする王女の意思を汲んでやる必要があった。


「力が、必要ですか?」

「……ええ。あの子を守るための剣が要る。騎士団は駄目。話だけ聞いてきっと派遣はしてくれない」


 ロザリーヌから聞いたのだろう。教会が動き出す兆しがあることを。


「……先程、おっしゃいましたね。護衛が必要だと」

「言ったわ。あの時は、”六の塔”に乗りこむつもりだったから、そこについて来てもらうつもりだったの」


 肩口から顔を離してエルシアが言う。馬鹿な真似をしたわ、と苦笑するその顔に、リリエラの面影が滲む。

 ヴァリーは立ち上がって、(うやうや)しく(かしず)く。「ヴァリー?」と可憐な声で首を傾げた娘に、静かに告げた。


「ご用意してあります。あなたの力を」

「……え?」


 顔を上げなくとも、娘がしばし呆けた後で目を見開いたのが、侍女にはすぐに分かった。

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