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看板娘は少女を拾う  作者: 有坂加紙
第七章 看板娘は、もう戻れない
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愚か者と母と侍女 その1

「着きましたよ、殿下」


 どこをどう通って来たのか、エルシアはよく覚えていない。気づけばローレンが隣にいて、本城の五階の扉の前で腰を折っていた。


「主人に代わり、改めてお礼を。この度は当家の茶会にお越しいただけたこと、誠に光栄でございます」

「ローレン……」

「昨日は本当に申し訳ございませんでした。汚してしまったドレスは当家が責任をもって仕立て直させていただきます」


 優男の仮面をかぶった貴公子がにこやかに笑う。今の言葉は、エルシア以上に、門の両脇に控える”近衛”に向けたものに違いない。

 ”近衛”の二人が目を合わせるのが分かる。第二王女が出て行った覚えがなかったのだろう。訝しそうな視線を感じた。


「……こちらこそ、大変有意義なお茶会でした。作法もままならぬ私には、本当に貴重な体験になりましたから」

「それは良かった。我が主もお喜びになられるでしょう」


 話を合わせると、ローレンはこっそりとウインクを飛ばしてきた。とことん変な奴だ。まあ、ここはささっと自室に戻るに限る。色んな意味で。


 エルシアは、ドレスの端をつまんで淑女の礼をする。侍女服から再度着替えたそれは、ロザリーヌに言わせると、”おかしな組み合わせ”らしい。別に見てくれが悪い訳ではないが、他にそんな着こなしをする人は見たことがない、と。


 ローレンの頭のてっぺんをしばし眺めてから、王族の居室のある門の中へ。”近衛”はやはり変な顔をしたものの、流石に聞く度胸はなかったのだろう、すんなりと通ることができた。


 長い廊下を歩きながら、エルシアはため息を吐く。

 ケトのこと。ロザリーヌのこと。国王陛下と教会のこと。スタンピードの被害を受けた町のこと。

 頭の中がぐちゃぐちゃだ。とりあえず、部屋の中で時間をかけて考えよう。


「考えたら、戻れなくなりそうだ……」


 ポツリと呟く言葉は、誰の耳にも届かずに消えた。もうとっくに覚悟を決めたはずなのに、いざ目の前にするとやはり怖い。


「……会いたいよ、ケト」


 そんな弱気なエルシアが口の端から漏れ出て、やはりひんやりとした廊下の空気に消えた。女々しい自分に嫌気がさして、もう一度だけため息を吐くと、彼女は”近衛”の間をすり抜けて自室のドアに手をかけた。


―――


「……え」


 鍵のかかっていない扉の向こうに、予想していなかった人影を見た。

 皺ひとつない侍女服。年齢にしては皺の多い顔。後ろ手にドアを閉め、エルシアは年嵩(としかさ)の彼女を見た。


「お帰りなさいませ、エルシア様」

「……どうして」


 どうしてここにいるのだ。

 つい先程、酷い言葉をぶつけて追い出したはずの侍女が、主人に深々と頭を下げていた。


 ヴァリーほど忠義に厚い侍女を見たことがない、というロザリーヌの言葉が脳裏に蘇る。


 気まずい。こんな気分になるのは、昔、町を出ようとして孤児院を勝手に抜け出した時以来だ。あの時も大騒ぎになったっけ。

 そして何より、エルシアはヴァリーにどう接すればいいのか分からない。ただの侍女と言うには、明らかにエルシア親子に対する情が深すぎる。ともすれば本人が気後れするほどの忠誠心は、受け取る側の心構えがあって初めて成り立つものだ。


 いかんせん、考えることが多すぎた。エルシアの頭の中はもういっぱいいっぱいだ。

 とっ散らかった思考を続けるエルシアを見かねたのかもしれない。ヴァリーがゆっくりと近寄る。ふと気づけば、閉じたドアの前で呆けたように突っ立ったままだった。


「気はすみましたか?」

「え……?」

「あれだけ大暴れして、気はすみましたか、とお聞きしたのです」


 思わず見つめた皺交じりの表情は、先程部屋を叩きだした時に見た呆然とした様子とはかけ離れていた。なんとも不機嫌そうな彼女に、口の中で言葉が霧散する。


「クローゼットもあんなに散らかして。老体をあまりこき使わないでくださいな」


 やれやれと侍女が首を振った。あまりの言い草にようやく現実感が戻ってきて、エルシアは慌てて声をあげる。


「ヴ、ヴァリー……?」

「何ですか? エルシア様」


 部屋を追い出す前とは、明らかに口調も態度も違う。その呆れが主人に向けられたものだというのは、間違いない。


「さっきと、口調が全然違うから……」

「当たり前です。バカなことをしたならば、叱らなくてはいけませんから」

「バカって……」


 侍女が王女を叱るとは前代未聞だ。それどころか、エルシアがそれなりに考えた行動を指して、”バカ”とは何たる言い草だ。

 そう思う一方で、まるで孤児院の院長に叱られた時のような複雑な気分に陥って、エルシアは狼狽(ろうばい)する。必死に無表情の仮面を意識。王女たるもの、威厳が大切だ。たとえそれが剥がれかけていたとしても。


「どうして? 私さっき出ていけって言ったのよ?」

「それは聞きました」


 自然と、意地を張るような言い方になってしまう。何だろう、我儘王女と苦労人の侍女の図が思い浮かんでしまう。駄々をこねて困らせている気分だったが、侍女に間髪入れずに返されて、エルシアは目を白黒させる。


「え、それでなんで……」

「お断りしますから」

「え?」

「その命に従うつもりはないと言っているのです」


 呆けた声を出したエルシアを誰が責められるだろう。

 直後、混乱する彼女の顔に、ボフリと柔らかな布地がぶつかった。ヴァリーがその手に抱えた、暖かそうな部屋着を押し付けたのだ。


「いいから、とりあえずそれを着ておきなさい」

「え?」

「部屋着くらい一人で着られるでしょう?」

「な、何を……」

「片づけたらお説教するので、そこに座ってくださいね」

「せ、説教!?」

「何かご不満でも?」


 有無を言わさずにベッドの端を指し示した侍女に、反論の余地はなかった。

 もはや被っていた仮面など、欠片も残っていなかった。勢いに飲まれるまま、もこもこした部屋着に包まれたエルシアは、おずおずと椅子に腰かける。

 ボケっとしながら、茶を入れる侍女の背中を眺めていたら、飾らぬ疑問が口の端からこぼれた。


「あんなに酷いこと言ったのに、どうして戻ってきたの……?」

「腹を立てたからです」


 分からない。もうエルシアは混乱することに疲れてしまった。


「私、バカだから……。腹を立てたのにどうして戻ってきたのか言ってくれなきゃ分からないよ」

「エルシア様が、ご自分の命を蔑ろにするような発言をするからです。……何より悲しかったのは」


 侍女が背筋を伸ばす。振り返った目が爛々と輝いていて、エルシアは思わず息を飲む。


「あなたが本心からその言葉を発したと、分かってしまったからです」

「そ、そんなことは……」

「ないと、言いきれますか?」

「……」


 心の底まで見透かしたような目に、思わず言葉が詰まる。


 ずっと、考えていた。何故と、考えていた。

 何故、自分は生きているのだろう。本当は、十三年前のあの日に死んでいるべきではなかったのではないか。

 ”忌み子”である自覚はあった。どれだけ愚かではあっても、自分が国にとって害しか生まぬ存在だと、気付いてしまう程度の知恵はあった。そんな人間が、周囲を騙して無理やり生き延びている。そのことに罪悪感を抱えざるを得なかった。


 それこそ、ふざけた話だと言って、知ったことではないと怒って、跳ね除けてしまえばいいだけのこと。


 けれど、エルシアはそこまで強くなれない。

 笑い飛ばそうとすれば、顔も分からぬ母の死に際が瞼の裏にちらついて、エルシアを責め立てるのだから。


 そして今、母に託されて、自分を辺境に逃がした侍女が目の前にいる。

 彼女が敬愛した本当の主人。その想いを自分は踏みにじったのだ。侍女が怒るのも当然というものだろう。 


 死にたくない。当たり前の話だ。

 しかしエルシアにとっては、生きることも酷く辛い。

 ヴァリーの言葉は的を射ている。だから、エルシアは黙り込むことしかできなかった。


「いいですか。生まれたばかりの、しわくちゃな顔をしたあなたを産湯につけたのは私です」

「へ?」


 ヴァリーが静かな声で呟く。

 突然何を言い出すのか。目をぱちくりさせる主人に、侍女は一つ一つ畳みかけていく。


「おしめを取り変えたのは私です」

「何の話を……」

「あなたが苦手なヒヨコマメを、食事にせっせと混ぜ込んだのは私です」

「ちょ、ちょっと……」

「お風呂を嫌がるあなたの体を、有無も言わさず洗ったのは私です」

「うう……」


 本当に自分の話だろうか。

 なんだかとっても恥ずかしい。赤くならざるを得ない顔で「やめて」と言ったら、「やめません」と返された。そして、侍女はエルシアを真っ直ぐ見つめて続ける。


「……あの夜、倒れ伏すリリエラ様を見殺しにし、悲鳴を上げそうになったあなたの口をふさいだのは、私です」

「……」

「疲れきって眠ってしまったあなたに、必ず迎えに来ると嘘をついて孤児院に残して去ったのは、私です」


 ベッドへと歩み寄ったヴァリーが、エルシアの瞳をぐっと覗き込む。皺の奥の黒い瞳に、栗色の瞳が映った。


「私が、どれほど己の無力を恨んだことか。娘も同然のあなたを、成長を見守ってきたあなたを、私の手で一人にしてしまった」


 瞳に刻まれた苦痛の色。


「それでも生き延びてくれたあなたが、よりによって私の前で”死んでも構わない”と口にする。それを叱らずして、一体いつ叱れと言うのですか。私は、あなたにそんなことを言わせてしまった自分が許せない」

「う……、あ……」

「あなたにどれほど邪険にされようとも、間違えたことを言うなら何度だって叱ります。それが私の使命です」


 言葉も出ず、ただ口をパクパクさせたエルシアを見据えて、ヴァリーが言った。


「良いですか。二度とそんなことを言ってはいけません」

「……」

「エルシア様、お返事は?」

「は、はい……」


 あまりの剣幕に気圧(けお)されて、たじたじになったエルシアの口から呟く声が漏れ、ヴァリーはようやく「よろしい」と満足そうに微笑んだ。


「よくお聞きなさい。私にとってリリエラ様は妹で、あなたは娘です。あなたは、あなただから愛されているのです。そのことに胸を張って生きなさい」

「……!」


 思わず、ぐっと唇を噛む。

 そうしないと、涙が溢れてしまいそうで。


 不意打ちなんて卑怯だ。こんな場所で、ずっと欲しかった言葉をぶつけてくるなんて。絶対に手に入らなかったはずの言葉。そのまま受け取るには、エルシアはいささかひねくれすぎてしまったけれど。


 気付いた時には、エルシアは湯気を立てる紅茶のカップを両手で抱えていた。カップで顔を隠そうと、口に含む。じんわり広がる甘さと暖かさが心地良くて、エルシアははじめて紅茶をおいしいと思った。

 侍女の想いに言葉を返そうとして、何を言っていいのか分からなくて。思わずこぼれた言葉は、ずっと知りたいと思っていた疑問にしかなってくれない。


「……かあさまは、どうして私を産んだのかな」

「エルシア様?」


 今ここで聞くべきことではないのかもしれない。今まさにケトには危機が迫り、内戦の足音が響いているこの国で。他に考えるべきことが山ほどあるエルシアなのに。

 それでも、今だからこそ、母のことを知りたいと、素直に思ってしまった。


 ”女狐”と呼ばれる程に聡明ならば、生まれてくる子供が忌み嫌われることぐらい百も承知だったはず。ならば、そもそも産まないという選択肢も、殺すという選択肢も選べたはずなのだ。


 でも、もう疑うつもりはない。

 母は、自分を愛してくれていた。その全てをかけて、エルシアを捨ててくれた。


「まだそんなことを……!」

「怒らないでよ。さっきと意味が違うんだから」


 手で侍女を押しとどめて、エルシアはつらつらと考えを巡らせる。国王と、当時の宰相の三女。その間に生まれた、どう見ても火種にしかならない自分。

 だが、考え方を変えてみたらどうだろう。


 あの国王が、国を治める宰相家が、そんな愚かな真似を許すだろうか。

 その中で、あえて娘を捨てた母の決断も。


「……やっぱり、私は知りたい」

「エルシア様?」

「ねえ、ヴァリー。教えて欲しいことがあるの」


 紅茶が気分を落ち着けてくれていた。ああ、貴族たちが好んで飲む理由が分かった気がする。真心のこもった紅茶は、いらぬ力を優しく解いてくれる。

 すぐ隣に佇む侍女に、王女は問いかけた。


「貴女と、かあさまのこと。私はあなたの口から聞きたい」


 視界の先で侍女がその目を見開き、やがて静かに頷いた。

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