赤月さん、大上君に「あーん」する。
雑炊を黙々と食べていた大上君は突然、ぴたりと手を止めます。
「どうしたのですか、大上君。もしかして、味がお口に合いませんでしたか?」
「違う、違うんだ、赤月さん。雑炊は凄く美味しいんだ。俺が今まで食べて来た中で、最高と呼ぶべき雑炊だ。けれどね……一つだけ、たった一つだけ足りないものがあると気付いてしまったんだ……!」
大上君はとても深刻そうな顔をして、スプーンをぎゅっと右手で握りしめます。
もしかして、雑炊に絶対的に必要な調味料が足りていなかったのでしょうか。
「そ、それは一体……」
私はごくり、と喉を鳴らしながら大上君の答えを待ちます。
「それはね……」
これ以上ない程の真剣さを帯びた表情で、大上君は静かに告げました。
「赤月さんに、雑炊を『ふぅー、ふぅー』と吹き冷ましてもらって、『あーん』と口に運んでもらっていないことだよ……!」
「……」
私は思わず、強張っていた表情を一気に無へと戻しました。
「せっかく、風邪を引いたのに……! 看病してもらうという貴重な経験なのに!」
この人、やっぱり元気なのではと再び思いましたが口にしませんでした。彼は口ではこう言っていますが、大上君の表情は病人そのものだったので。
しかし、よくもまぁ、そのようなことをしてもらおうという気になりますね。その発想はありませんでした。
もしかすると、心の中ではいつかきっと、と大上君が勝手に思い描いていたのでしょう。
「お願い、赤月さん……! このご褒美がないと風邪は一生治らない気がする……!」
大上君はスプーンを掲げるように持ち上げてから、頼み込んできます。ここまでやると、むしろ清々しいと思います。
「……ちなみに、やらないという選択肢は……」
「この状態を維持したままになります」
「本当、そういうところ頑固ですよね、大上君……」
大上君の強固な姿勢にはある種の感心さえ抱きます。
ですが、スプーンを掲げたままの状態を維持されると、この後に控えている風邪薬を飲む時間が遅くなってしまいかねないので、ここはやはり私が折れるしかないのでしょう。
最近、私の方が折れてばかりな気がしますが、押しに弱いことは自覚しています。自覚したくはありませんが。
私は盛大に溜息を吐いてから、大上君からスプーンを受け取りました。
「あ、赤月さんっ……!」
スプーンを受け取ってもらえたことが余程、嬉しかったのか大上君は感激したと言わんばかりの表情を浮かべています。
「……一回だけですよ?」
「ありがとう、赤月さんっ!」
きらきらとした表情をあまりこちらに向けないで欲しいです。眩しくて目がやられてしまいそうなので。
私はスプーンを右手で持ち直してから、お椀に盛っていた雑炊を一口分、掬い上げます。
そして、ふぅーっと何度か息をかけてから吹き冷ましました。
しかし、本当に行うとなると、かなり気恥ずかしいですね。世の中の恋人達は凄いものです。
この『あーん』を人前でやるなんて、私だったら絶対に無理です。恥ずかしすぎて、穴に入りたくなってしまうでしょう。
「……それでは、行きますよ?」
「うん!」
準備が出来たと言うように、大上君は大きく頷き返してきます。その表情は期待に満ちていました。まるで夏休み前の子どものような笑顔です。
私は何度か深呼吸をしてから、そして意を決して、その一言を告げました。
「……あーん、して下さい」
「っ……!!」
瞬間、大上君は両手で胸辺りを鷲掴みにしつつ、何かに悶えるように身体を震わせ始めます。
「うっ、うぅ……。尊い……。これが……『あーん』の、力……。破壊力が抜群だ……」
また、変なことを言っていますが身体は大丈夫でしょうか。すると大上君はゆっくりと顔を上げてから、スプーンへと口元を近づけてきます。
そして、ぱくりと彼は一口分の雑炊を食べました。あ、何だか大上君が泣きそうな表情をしていますね。
ですが、これで私の役目も終わりのようです。
スプーンをお椀へと戻してから、大上君へと視線を向けるとまるで最後の晩餐を味わっているような表情で咀嚼していました。
咀嚼、長いですね。そこまで味わわなくても、先程あなたが食べていたものと味は同じですよ、大上君。
「……どうしよう、嬉しさと尊さと素晴らしさと可愛さと感動が色々と入り混じって、天に召しそう……」
「頑張って、こちら側に戻って来てください、大上君。まだ、雑炊は残っていますよ」
「はっ、そうだよね……。この素晴らしい味がまだ楽しめるなんて……。うう、最高過ぎる……。もしかして、これは風邪の熱が俺に見せている夢なのでは……」
「現実なので、冷めないうちに雑炊を食べて下さいね。そして、これ以上、妙な幻想を見てしまう前に風邪薬を飲んでさっさと寝ましょう」
むしろ、無理矢理に気を失わせて寝かせて差し上げたいくらいです。これ以上、起きていると熱が上がってしまいますよ。