赤月さん、大上君と練習する。
大上君は一歩、膝を進めて近づいてきました。この近距離だと大上君の優しくて爽やかな匂いが鼻を掠めていくので、それだけで緊張してしまいそうです。
「それじゃあ、やろうか」
「は、はい……」
私が怯えないようにと気遣ってくれているのか、大上君の笑顔が消えることはありません。
ちゃんと触れることを確認してから、大上君はそっと私の両手を包み込むように握りしめてきます。手の温かさは私よりも熱いようで、その温度に安堵の溜息を吐いてしまいそうになりました。
「……目は開けておく?」
「こ、今回は閉じておきます」
「うん、了解。あ、目を瞑っているからと言って、変なことはしないから安心してね」
「……はい。信用していますからね、大上君」
「その信用に応えられるように、誠実さをお返しするよ」
先日は何をされるか知らされないまま大上君の口付けを受けたので、目を開けたままでいられましたが、今回も同じことをするならば、恥ずかしくてそんな余裕はないと思います。
目を開けていれば、すぐ傍に大上君の顔があるなんて、想像しただけで身体中が熱くなりそうです。
「で、では……。お願いします、大上君」
私はぎゅっと目を瞑ってから、大上君から降ってくる口付けを待つことにしました。
一瞬だけ、私の手を握っている大上君の両手がびくっと震えた気がしましたが、気のせいでしょうか。
「……何だか、いけないことをしている気がする」
「よ、余計なことを言わないで下さいっ……」
変なことを意識させないで欲しいです。
これは練習です。練習なのです。
トラウマを克服するための練習なのです。
私は心の中で何度も呟き返しました。
「……」
私は目を瞑り、大上君が近づいてくるのを待ちます。二人だけの空間にはお互いの吐息しか響いておらず、窓の外で降っている雨の音さえも遠くに聞こえていました。
ゆっくりと気配がすぐ傍まで来たと思えば、首元にすっと大上君の吐息がかかって、思わず身体を震わせてしまいます。
恐怖よりもやはり、恥ずかしさが込み上げてきて、私の瞳にはいつのまにか涙が浮かんでいました。
来る、と思った次の瞬間。柔らかいものが首筋に当たったことで、私の身体は電撃が走ったようにびくっと震えました。
「んっ……」
しっかりと気を張っていたはずなのに、思わず声が漏れてしまって凄く恥ずかしいです。
恥ずかしいですが、首を触れられた際の恐怖は浮かんではきませんでした。やはり、この方法は有効的ということでしょうか。
大上君が離れて行ったので、私もゆっくりと瞳を開きます。
ですが、目の前には何故か両手で顔を覆い隠している大上君がいました。耳がほんのりと赤いように見えます。大丈夫でしょうか。
「大上君?」
「……少し待って。今、自分の理性と欲望が最後の戦いをしているから」
「は、はぁ……」
暫くすると、大上君は「すぅー、はぁー」という感じで何度か深呼吸を繰り返して、顔から手を離していきました。
「あー……。やばかった。今のはかなり、まずかった。どうにかなるところだった……」
「えっと……。大丈夫ですか?」
遠慮がちに声をかけると大上君はにこっと笑い返しました。どうやら元気のようですね。
「うん、大丈夫だよ。ただ、栄養を過分に摂取し過ぎただけだから」
何を言っているのか分かりませんが、とりあえず元気そうなので大丈夫でしょう。
「赤月さん、首元に触れられた時、怖いと感じたかな?」
いつもの大上君から真面目な大上君に戻ったようで、確認事項のように訊ねてきます。根は真面目な人なのでしょう、暴走さえしなければ。
「いえ……。やはり、恥ずかしさの方が勝っていたので、怖いとは思いませんでした」
「そっか。それならこのまま、ゆっくりと慣らしていって、少しずつ指で触れる練習もしていこうか」
「お、お手数をお掛けしますが、宜しくお願いします……」
「全然、構わないし、むしろ俺としては赤月さんの役に立てて嬉しいくらいだよ」
にこり、と大上君はいつもの笑顔を浮かべます。つい先程、気恥ずかしいことをしたばかりだというのに、大上君は普段通りに戻っています。
私も平常心を保つ方法を見習いたいものです。
「登場人物」の項目を最初のページに作りました。
もしよろしければ、どうぞご覧下さい。